眠れる真夏の王子様。
セキニン、とってください。
落とした視線の先、つま先にあわい桜色。
最後まで悩んだ帽子はやっぱり被ってくるべきだったかもしれない。
じりじりと肌を焦がす音が聞こえそうなほど降りそそぐ真夏のひかり。
しっかり塗ってきたはずの日焼け止めは、どこまでこの光線に耐えられるんだろう。
浮き足立って、張り切って、遅刻するよりはまし、と家を出たものの。
待ち合わせ場所の駅前広場に到着したのは、集合の三十分前。
午後の灼熱と人混みのなか、立ちつづけること十五分。
携帯電話をいじることにも飽きて、ただつま先をながめていた。
「はあ……」
秒針と鼓動が重なって、いまにも暴発してしまいそうな心臓。
深呼吸してなんとか抑えようとしても、ちっともうまくいかない。
何度も目に入った靴は、三センチヒールの白のストラップサンダル。
友達おすすめのオフショルダーは勇気がでなくて、シフォンのガーリーなワンピースにした。
彼が似合うといってくれた色は、桜色。
その気になって購入した服とマニキュアは思ったよりも似合っている、はず。
昨日の夜、鏡の前で何度もくるくる回っていたらお母さんに笑われたけれど。
いつもの放課後、じゃないお昼すぎの空。
いつもの屋上、じゃない駅前の広場。
『夏休みは、どこかに出かけようか』
数日前、屋上で横になる彼にそういわれて、光の速さでうなずいた。
思いっきり笑われたけれど、それでもうれしかった。
ふたりで屋上にいることも、ならんで帰ることも、いつのまにか「いつものこと」になってしまっていたけれど、今日は「いつものこと」じゃない。
頭まで響く鼓動を静めようと、さらに大きく息を吸い込む。
吐き出す瞬間、目に入ったものにくぎづけになった。
休日の混雑する駅前、真夏の炎天下、人混みの中心。
あのだれよりもキレイなひとが、見えた。
「――でさ、え? んー、それはないんじゃね?」
彼を見つけたと思ったのもつかの間、目の前に立ちふさがったのは大きな影。
駅前は待ち合わせや行き交う人々で混雑していて、次々に折り重なっていく。
そびえ立つ背中に視界をふさがれてしまって、見えるのは真上の青ばかり。
なんとか脱出を試みるものの、両隣にも人がいてなかなか動き出せない。
まるで暑苦しい檻に閉じ込められたような、どうしようもない状況だった。
「あ、……あの」
「はあ? 無理無理、だから無理だって、それにさあ」
あたしの情けない声は騒音にかき消されて届く気配すらない。
気持ちばかりが焦って、桜色に染まった足が小刻みに地を鳴らす。
どうしよう。
彼が、もうそこにいるのに。
上がり続ける気温と焦れる気持ちに汗ばむてのひら。
指をにぎりこんで力を入れて、思いっきり息を吸い込む。
かき消されないように、届くように、声を張り上げようとしたそのとき。
「すみません」
檻の外、壁の向こうからあの声が聞こえて手首をつかみとられた。
狭い檻から抜け出したこの目にうつる街並みと人の群れ。
そして、見慣れたはずの、いつまでたっても見慣れない彼の顔。
「見つけた」
つかまれたままの手首をわずかに引っ張られて、肩を抱き寄せられた。
混乱のままうながされるように歩き出して、気がつけば腰に手が回っている。
「……ど、うして、あたしがあそこにいるって、分かったんですか?」
ゼロ距離と触れられている部分にめまいを覚えながら、彼を見上げる。
見慣れない私服と登場シーンに、気温よりもこの耳を染め上げるなにか。
思わずこみ上げてきたものをぐっと飲み下して、彼の返事を待った。
「きみしか見えてないから」
飲み下したはずのものが逆流して、この暑さに拍車をかける。
かわいい、とあたしの髪を撫でた彼のほうこそかっこよかった。
はずかしすぎて、とても口には出せなかったけれど。
** *
「……暑い、ですね」
「もう少しでつくよ。ほら」
七月の終わりとはいえ、今日はとにかく日差しがきつい。
散策したり、駅ビルで食事をしたりしたものの、本日のメインは映画。
たどりついた映画館で、離れていった彼の手。
空っぽになったあたしの手が冷房の風を受けてじんと響いた。
暑さのせいか、頭からつま先までべたべたしている気がする。
ひんやりとした館内で背中がやけにつめたく感じて、なんだか落ち着かない。
「席、ここ」
「あ、はい」
涼しげな顔をした彼にうながされて腰を下ろせば、ひじが軽くあたってしまった。
ごめんなさいと口にする前に指をからめとられそうになって、手を引き抜く。
「だ、だめ」
「なんで」
その表情はかなり不満そうだったけれど、事情というものがある。
いくら涼しくなったとはいえ、まだ汗でべたついている気がするし。
いま触られるのは、ちょっと遠慮したい。
「映画のあいだは手つなぐの禁止、です」
「なんで」
「なんでも」
そんなやりとりをしているあいだに照明が落ちた。
暗く、ゆっくり、静かになっていく館内。
押し黙ってしまった彼の目は映画が始まって早々に伏せられていて、その長いまつげがきらきらとスクリーンを反射していた。
エンドロールが流れはじめて、影が動き出す。
小さな寝息がずっと耳をくすぐっていたから、彼は確実に眠っていたに違いない。
トントンと指で小さく腕をノック。
開かれていく大きな黒い瞳には、真っ暗なはずなのにあたしがうつりこんでいた。
「面白かった、ですか?」
あからさまに眠っていた彼に小さく声をかける。
エンディングが反響する中、彼は腕を伸ばしてつまらなかったといった。
「まだ、触っちゃだめ?」
「え、」
「触りたい」
深く腰かけているせいで、上目遣いになっている彼のお願いに跳ね上がる鼓動。
そんなことでふくれているとは思わなかったので、うっかり笑ってしまった。
「ねえ、セキニンとってよ」
いつまでも終わらないエンドロールに気を使ったのか、彼が耳元でささやく。
同時に絡みつく指先。指のあいだを抜けて与えられる熱。
「きみに触れなくてつまんなかったから、セキニンとって」
寒々しいくらいの館内。
あたしひとりだけがうだるような熱に浮かされている、と思った。
** *
「さて、なにしてもらおうかな」
映画館を出る頃には、真上にあった太陽がもう沈みかけていた。
たしかに手をつながないといったのはあたしが悪かったかもしれないけれど。
映画がつまらなかったのは自分が寝ていたせいなのに、なんでこんなことに。
「お金かかるものとかはだめですよ?」
「だいじょうぶ。そーいうんじゃないから」
いったいなにをさせられるんだろうとびくつきながら、歩く夕暮れの街。
あとの予定はまったく考えていなかったから、てっきり帰るのだと思っていた。
「どこ、いくの?」
つのる不安を口に出せば。
半歩先を歩いていた彼が振り返って、つないでいた手を軽く引っ張った。
「いいから。ついてきて」
上機嫌な彼の歩くスピードはどんどん加速していって。
あたしの不安も加速していくばかりだった。
「……なんで?」
連れてこられたのは、学校近くの見慣れた堤防だった。
川へ続く階段に座るよううながされ、つめたいコンクリートに腰を下ろす。
隣で鞄を広げた彼は、藍色に染まったアスファルトの上に中身を並べだした。
まず、何かが入っているビニール袋。
次に、ミネラルウォーターのペットボトル。
「手、だして」
白いビニール袋の中に手を入れた彼はあたしに手を出すように要求してきた。
おそるおそるてのひらを差し出せば、なにかを上にのせられた。
「……は、なび?」
てのひらからこぼれ落ちていく、いくつもの細長い棒。
あわてて両手で受け止めて彼を見上げる。
「セキニンとって、俺と花火してよ」
ビニール袋にペットボトルの水を注ぎながら、彼がにやりと笑った。
「わあ」
思わず感嘆の声をあげてしまうほど、七色の火花は藍色の土手に映えていた。
彼はまず自分の花火にライターで火をつけてから、あたしの持つ花火に火の粉を分け与えてくれた。
消えてしまう前に、次の花火に火花をうつして。
せわしないその感じが真夏の夜をますますあおる。
「きれい?」
「うん! きれいきれい!」
今年初めての花火にひとり興奮するあたしを見て、彼は満足そうに笑う。
あたしのために考えてくれていたのかと思うと、この胸にも火の花がともる。
座ってばかりじゃ物足りなくて。
立って花火を軽く振ったりして、飛び散った花びらに声を上げながら笑いあった。
「じゃあ、いくよ」
「う、うん」
向かい合わせでしゃがみこんで、頭と頭がくっつくくらいの近距離。
中央ではライターの炎が、赤々とゆらめく。
先端を同時に近づけていって、ぱちんとはじけたときに赤い炎は消された。
入れ違いに点った線香花火は、わずかな風にゆらめいて花びらを散らす。
「先に落ちたら負けだから」
「負けたらまたなにかあるの?」
ぱちぱちと音を立てる、ふたつの小さな火の花。
膨らむ熱を落とさないように、視線だけを正面に向ければ。
「負けたら、帰らせてあげない」
近づいてくる影とその熱。
触れる前に足元でぱちんと音がして、彼の花が失われていることに気がつく。
「あーあ、残念」
ゆっくりと離れていく影。
あたしの足元でも、ぱちんとはじけた音。
触れそこなったものはじんじんと甘くうずいて。
落ちてしまったはずの花が、あたしに火をつける。
「……ま、負けたんだから、」
離れていった彼の服のすそを掴んだ。
引き寄せた瞬間、目の前で火の花が散る。
「なに?」
また近づく距離。
頭と頭がくっついてしまいそうで、あいだにあるわずかな空間が異常に熱い。
「負けたんだから、セキニンとってください」
吐き出した言葉に火がついて、目の前でばちばちとはじける。
「いいよ」
はじける火花を押さえ込む熱いもの。
落ちることのない花火に、静かに目をふせた。