第一章 新たな始まり その一
「エルファーナ? どうしました?」
「ううん……なんでも、ない」
ぼんやりとしていたエルファーナは、ゆるりと首を振った。
ふぅっと吐き出す息が熱っぽく感じられた。
と、額に冷たいなにかが触れた。
「ああ、やはり。熱がありますね」
「リ、ゼ……?」
ひんやりとした手が気持ちよくて、つい目を閉じると、リゼがため息をこぼした。
「夜遅くまで起きて、勉強をしているようですね。勉強熱心なのは、結構ですが、体を壊しては元も子もありませんよ」
「でも、早く、一人前になりたいの」
熱のため潤む目でリゼを見上げると、彼はつかの間息を呑んだようだった。
甘い蜂蜜色の双眸に、冴え冴えとしたリゼの美貌が映し出される。
「わたしがしっかりしないと、」
エルファーナは、その先を続けるのを迷うように長い睫をそっと伏せた。
「馬鹿だねぇ。血統しかよりどころしかない無能者なんて、放っておけばいいのさ」
円卓の上にあった木の実を口に含んだカナリスは、嘲るように言った。
その顔は、思うように事が運ばず、苛ついているようでもあった。
「カナリス」
リゼが窘めるように名を呼んだが、カナリスは悪びれた様子もなく肩を竦めた。
「だって、そうだろ。あいつらときたら、馬鹿の一つ覚えみたいにへこへこしてたと思ったら、裏でエルのことを言いたい放題っ」
そのときのことを思い出したのか、きつく目を細めた彼の目には、隠しきれない殺意があった。
エルファーナが即位してから、半年の月日が流れていた。
即位当時は、大陸中が吉報に沸き、毎晩のように宴が開かれていたが、一ヶ月もすると落ち着きを取り戻した。
日常を取り戻す民衆とは反対に、これまでやりたい放題だった貴族は歯がみをしていた。
清廉を掲げる銀月の女王は、不正を許さず、また弱き者を虐げることをよしとしなかったからだ。
『民に力を与えよとおっしゃるのですか!』
一度、そう怒鳴り込んできた貴族がいた。
彼は、地方領主の息子だった。
八聖騎士の制止を振り切り、エルファーナの前で跪いた彼は、貴族の窮状を訴えた。
『貴女は、民衆を導く光であり、すべてを照らす存在です。こうして、大陸に平穏が訪れたのは貴女のおかげと理解はしています。けれど、知っていますか? 言い方は悪いですが、平民の出身である貴女が女王となったせいで、民衆が貴族よりも偉いと勘違いをしているのです』
『かん、ちがい……?』
『ええ、そうです。お忘れですか? 貴女が罪人に向け、寛大な許しを与えたことを。確かに、貴女の威光は強まったでしょう。民の心を第一に考える貴女に、彼らはすっかり心酔している。では、我々はどうなるのです? 貴女が余計なことをおっしゃったせいで、多額の出費をさせられ、怠け者の世話までいなければならなくなった!』
次第に語気を強めていく青年を、リゼから目配せをされたオルヴェが拘束した。
『女王陛下のお心を惑わせるおつもりですか? 不敬罪ですよ』
リゼが守るようにエルファーナの前に立てば、青年が苦々しい顔となった。
『八聖騎士……貴方がたは、いつもそうだ。真実から目をそらし、陛下の目も耳も覆ってしまう。それが守るということならば、間違っています……っ、貴方がたは、間違っていますっ』
オルヴェが控えていた衛兵に指示を出すと、彼はすぐさま部屋から放り出された。
わめき立てる声が遠くなっていく。
『やれやれ、だれだい、あの馬鹿を通したのは』
眼鏡をくいっと中指で押し上げながら入ってきたのは、カナリスであった。
飄々としつつも、その目は犯人を捜すかのように鋭い。
だが、しかし。
固まっているエルファーナに目を止めると、ほんの少し柔らかくなった。
『なんだい、エル。あんな馬鹿男のことなんて、気にするんじゃないよ。世迷い言を叫ぶ輩は、これからもっと増えてくる。そうだろ、リゼ』
『――ええ、そうですね。だれかが富めば、だれかが苦しむ。それは、世のことわりです』
きゅっと眉を寄せたエルファーナは、居並んだ騎士の顔を一つ一つ見つめた。
『みんなが幸せになるのは、難しいことなの?』
『エルは、それを望むのかい?』
『……』
エルファーナの顔がくしゃりと歪んだ。
いかに無謀かわかっていたからだ。
エルファーナ一人の力では、限界がある。すべてを見通すことができない以上、エルファーナが生まれ育った村で起こったような悲劇は繰り返されるだろう。
たった一人で生きていかなければならなかった頃を思い出し、双眸が潤みそうになった。
『エルファーナ。貴女は、したいことを成せばいいのですよ。貴女が一言、願いを言ってくだされば、私たちは全力で叶えるのですから』
そっと片膝をついたリゼは、泣くなといいたげに目の下を指の腹で撫でた。
少し冷たい指先に触れ、エルファーナの顔にも笑みが浮かんだ。
ああ、そうだ。
あの辛い日々から連れ出してくれたのは、彼だった。
ふんわりと胸があたたかくなる。
『そうだよ。みみっちく考えるんじゃないの。あんたは、大陸をすべる女王なんだから。でんと構えてな。アタシたちは、あんたの望みを叶えるために存在してるんだから』
リゼを押しのけ、ずいっと顔を寄せながら言ったのは、カナリスであった。
『そうですわ、エルファーナ様。わたくしが、貴女様の憂えを払ってみせますわ』
ハティスは、袖から手巾を取り出すと、リゼが触れたところをごしごしとこすった。
『ハティス』
咎めるようにリゼが名を呼ぶと、穢らわしいとばかりにハティスは彼を睨みつけた。
『大事な大事なエルファーナ様のお体に触れるなど、言語道断ですわ。これだから、殿方というのは』
ぶつぶつ言うハティスに、『あんたも同類だろ』とカナリスのつっこみが入るが、ハティスには聞こえていないようだった。
『ま、ようは、好きにしろってことだな』
オルヴェは、からりと笑ってそう締めくくった。
それを聞いていたエルファーナは思ったのだ。
もっと学びたい、と。
知らないことが多すぎて、
知らなければならないことが多すぎて、
でも、まだなにも動けないでいた。
途切れることなく続く謁見と、毎日ある晩餐会に追われ、ほかに目を向けることができないでいた。
だが、領主の息子のおかげで、目が冷めた心地がしたのだ。
『あのね、わたし、がんばるね』
エルファーナが決意もあらわにそう告げると、騒がしかった八聖騎士もぴたりと止まり、すっとその場に拝した。
『すべては、御心のままに』
一糸乱れぬ動き。
示し合わせる必要なんてない。
彼らの心は、いつだって女王に向いていたのだから。




