プロローグ
白い世界だった。
上は白い空が延び、足元には水面がその白を映して、そして遥か彼方の境界線でその白を交わらせている。
一歩、踏み出した。
水面はその白を揺らし波紋を伝え、やがて元に戻った。
とりあえず、歩き始めてみた。
何処行くあてなどないが、そもそも方向感覚など失っているが、ただ、自分がおもうまま真っ直ぐ歩いてみた。
水面にはひっきりなしに波紋が広がる。
まるで心臓のようだな、と考えたところで急に足元がぐらつくような感覚を覚えた。
ならば、この足を止め、波紋がなくなったならば、自分の心臓も止まるのではないか。
その足はやがて早足になり、終いには走り始めていた――――
~~~☆~~~☆~~~
一面の銀世界、とまではいかないが先日に振った雪がまだ路肩に残っているのを見て、俺はマフラーの隙間から白い息を吐き出した。
今年は例年より寒いらしく、というよりほとんど異常気象といわれるものになっていて、季節は既に春と呼ばれる季節であるのに、本来あまり雪が降らないこの地域ですらコンクリートの道を白くさせていた。
寒いのが嫌い、というわけではなかった。むしろ夏の暑さよりも寒いほうが好きである。
ただ、雪にはあまりいい思い出がない。思い出したくもないことを色々と思い出すし、その純白を眺めていると気が滅入る。
今でも忘れない。子供の頃の雪合戦の時、石が入ったものが顔面に直撃したあの恐怖と激痛。そして、かまくらをつくって中で遊んでいたら、誰かがかまくらを上から壊し、生き埋めにされた時の絶望感。
一瞬背中に走った寒気を気にしつつ、視線を上へと向ける。どんよりと曇った空は、一向に地上に太陽の光を届けさせる気配はなく、わずかに雲の起伏を流動させていく。
俺はもう1度マフラーの隙間から白い息を漏らして、校門の中へと足を踏み入れた。
タイルが敷かれた校内をゆっくりと歩いていく。途中、大きく「海彩学園創設者」と書かれたカードとともにこれまた大きな銅像の爺さんがある広場を通って、校舎へとたどり着いた。
大きな校舎に比べていささか小さく見える昇降口のドアをあけ、中に入る。途端、今まで気にもしなかった足音が存在を主張する。そのローファーが奏でる音をどこか他人事のように聞きながら、自分の下駄箱へとたどり着く。
寒さでかじかむ手で上履きを取り出し、代わりにローファーを中へしまう。
上履きをしっかりと履いて歩き始め、階段を2階ほどのぼり、閑散とした廊下を歩く。
そして、1-3と書かれた表札を確認し、その扉を開けた。
途端、生暖かい空気が身を包みそして廊下へと散開していく。
俺はマフラーを取りながらゆっくりと自分の席に近づいていく。
窓側から2列目の後ろから2番目の席。それが、入学した時からの俺の机だった。
しっかりと自分の席だということを確認し、机の横についているフックに鞄をかけ、席に着いた。
深々とした教室の空気に身を浸しながら、やけに大きく聞こえる時計の音に耳を傾ける。
――――近代的な教室には似つかわしいけど、この場所ならではの音だと思うと不思議と違和感を感じないな
などと、少々きどった感想だと苦笑していると廊下から足音がしているのに気付いた。
足音はこの教室の前で止み、ゆっくりと扉が開く。
「……あっ」
朝の教室の静けさを破った闖入者である小柄な少女は、開口一番そんな言葉を発した。
「あ、えと、その~……え~っと……」
少女はどうしたらいいのか分からない様子で教室の入り口でしどろもどろになっている。
その様子をずっと見ているのも中々面白いと思うが、意地の悪いことだと自分にブレーキをかけ助け舟をだした。
「おはよう」
すると少々びっくりしたらしく、少女は僅かに目を大きくした。
「あ、はい。お、おはようございます。え~と、そだ! 土御門君!」
「……もう名前覚えてくれたんだ」
今度はこちらが驚かされた。まだ海彩学園に入ってから1週間と少ししか経っていないはずである。
「はい。あ、あの珍しい名字だと思ったので」
「あ~、まぁ確かにそこらへんにほいほいといるような名前じゃないね」
と、そこで俺は重大なことに気がついた。先程の寒さとは違うものが背筋に走る。
「……ごめん、まだクラスメートの名前ほとんど覚えてなくて」
「あ、そうですよね。まだ学校に入学してから1週間くらいしか経ってないですもんね」
しかし、俺の杞憂とは裏腹にクラスメートの少女はその黒い髪を僅かに揺らしながら朗らかに笑って告げた。
「私は戸塚です。戸塚芽衣といいます」
「戸塚……芽衣さん、か。改めて、よろしく。俺は土御門祥太郎だ」
ゆっくりと、陽だまりのように笑う少女の名前を噛み締めながら自分の名を言った。不要だとは思ったが礼儀は通さなければならない。
しかし、少女、芽衣にとっては不要なことではなかったらしく、目をつぶってゆっくりと俺の名を繰り返していた。
――――正直、若干恥ずかしいものがある
鏡で顔が赤くなってないか確認したい衝動に駆られたが、それよりもなぜか今は教室にいたいという気持ちが沸き起こっていたのでその衝動をぐっと堪えた。
「土御門祥太郎君、だね。こちらこそ、よろしくおねがいします」
「あぁ、この学園に入ったからには長い付き合いになると思うし、よろしくお願いする」
気恥ずかしさから若干堅い口調になっているのは、朝のためかいつものように回ってくれない頭のせいにした。
しかし、続いて聞こえたのはくすくすと笑う芽衣の声だった。
「……俺、何か変だったか?」
「ふふ、違うんです。見た目通りの人だなぁ、と思って。私の予想は外れてなかったみたいです」
「予想、っていうのは?」
「あの、このクラスになって最初の自己紹介の時とかいつも背筋がぴちっとしてるとことか、そういうところを見て私が勝手にこの人はこんな感じかなと予想したんです」
そういって腕を後ろで組みながら芽衣はまた笑った。そんな彼女のあどけない仕草につられて俺も笑う。どうやら芽衣には人を笑顔にする不思議な魅力があるらしい。
「戸塚さんの第一印象はちょっと頼りない子、だったよ」
「あー、ひどいですよ土御門君。さっきのはいきなりだったから驚いただけで……」
「まぁ第一印象は、だけどね。今は、そうだな、明るい子って感じかな」
「それならよかったです。土御門君はそのまま堅物って感じですよ」
予想できた答えだったが、直接言われるとやはり少し落ち込む。小さい頃からずっと言われ続けていることだが、自分ではこれでも結構くだけているつもりなのだ。
俺が小さい頃からのコンプレックスをどうしようかと考えていると、また芽衣はくすくすと笑った。
「ふふ、今土御門君、俺はそんな堅物じゃないんだがな、とか考えてるでしょ?」
「……そんなにわかりやすいかな俺」
「それはもう」
といって、芽衣は微笑んだ。
――――なんか、うまくやられてばかりだな俺
普段だったら意地悪く皮肉の1つや2つ返しているところだが、芽衣相手だと不思議とそんな感情は起こらなかった。むしろ、こういったやり取りが楽しいぐらいなのである。
なぜ楽しいのかわからないまま彼女の顔を見上げる。2人きりの教室、雲の切れ間から差し込んだ朝日に照らされた彼女の笑顔が、何故かまぶしく焼きついた――――
その後、俺たちはしばらく話し合っていたが、途中芽衣が仲良くしているというグループが来たため、会話は終了した。
既に早朝の静けさは去り、かわって朝の慌しい喧騒がこの学校を包んでいた。
残り5分で朝のホームルームが始まる中、まだ登校途中だった者が駆け足で下駄箱へ突入していったり、放送委員と思われる男女が早口で何かを告げていたり、クラス内で既に出来つつある仲良しグループと昨日あった事等他愛もない話をしたり。
そんな、騒がしくもなぜか嫌ではない雰囲気を感じながら、先程の芽衣との会話を思い出していたときに、その衝撃は来た。
「よう、土御門!」
俺の背中から鋭い衝撃とともに風船が破裂したような音が聞こえた。
「な、なん、だ、一体……」
衝撃で曇った声を何とかだしながら、痛みの元へと必死に手を伸ばす。すこしでも和らげようと思ってのことだったが、届かないやら伸ばしすぎて肩が痛いやらで虚しくなっただけだった。
「いやぁ、わりぃわりぃ、案外クリーンヒットしちまったな!」
と、笑いながら今度は執拗に肩を叩いてくる。
ここまでくるとわざとではないかという考えを飲み込んで、いつのまにやら目の前の席に座っている男に視線をやった。
「い、いきなり何をするんだ、という常套句は一先ず置いておく。それより聞かなきゃいけない事がある」
「ん、なんだ?」
「……お前、今の手で叩いたのか?」
男は俺の質問を受けると、何を言ってんだこいつはというような感じで首肯した。
――――いや、ありえんだろう、今の音は
およそ人体から発せられるような音ではなかったのは確かだ。改めて男の姿を観察すると、たしかに筋肉は一般人よりついているのが盛り上がる制服から見て取れた。
俺はまだ痛む背中を気にしながら、再度質問する。
「というか、お前は誰だ」
「俺か?なんだ、まだ覚えてなかったのか」
「いや、すまん。まだクラスメート全員の顔と名前が一致してなくてな」
「まぁいいや。俺は仲本恭平っていうんだ。ってそんなことより!」
おもいっきり机を殴りながらこちらに身を乗り出してくる仲本とかいう男。
――――あぁ、俺の机は無事だろうか
殴った瞬間に俺の机から嫌な音が聞こえたのは、多分というかきっと勘違いではない。
俺がそんな感じで現実逃避していても、仲本とかいう男の声はでかいため嫌がおうにも会話の内容は理解していた。
話の内容を頭に直接ぶち込まれた気分に軽く溜め息をつく。先程までの心地よい気分はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「んで、どうなんだよ土御門!」
「なにがだよ……」
「だから、さっき芽衣と話していただろ!?」
「芽衣……?あぁ、戸塚さんのことか」
何故突然そんなことを聞くのか、些か疑問に思ったが手っ取り早くこの会話を終わらせようと思い、その疑問は遠くへと投げ捨てた。
「あぁそうだ。で、何を話したんだ!?」
一体その事を聞くために俺が叩かれる必要はあったのかと、小1時間問い詰めたい思いを堪え、先程まで話していた内容を教えた。
別段、語るほどの内容でもない。ただ挨拶から始まり、その流れで会話していただけなのだから、それが濃い内容になるはずもないのだが、この男にとってはかなり重要な事だったらしく真剣な、それも何故か若干の緊張を帯びた態度だったが、俺が話し終えると期待はずれのような、安堵したような複雑な表情を見せた。
「つまり、世間話しただけか」
「だから、何度もそう言っただろ。そんなことより、俺はお前と戸塚さんが親しかった方が驚きだよ」
「あ~、それはほら、あれだ。俺らは中学組だからな」
その一言で理解できた。
――中学組
それは、この海彩学園が中学からのエスカレータ式だからこそ起こる弊害というか、問題みたいなものだった。
つまり、ここ海彩学園では中学、高校、大学とそれぞれで新規入学生を募集しており、後ろになるにつれて既存のグループになじめず浮きやすい、というような事情がある。そして、今恭平が言ったように中学組というのは、中学から一緒で仲の良いグループということになる。
「それに、俺と芽衣はそれ以前からの付き合いもあるしな」
「なるほど、つまり幼馴染というものか」
「そういうこった」
そういってようやく体を引いてくれた。今までいつ接吻されることになるのか気が気ではなくなるほど身を乗り出してきていたのだ。
つまり、だ。彼は今、黒板に背を向けている状態である。そんな状態なら気付かなくてもしょうがないといえばそうなるが、多分、そんなことではここにいる"鬼"はその棍棒代わりの教員日誌を振り下ろすのを止めてはくれないだろう。
親切な心を忘れるなかれ、そういったのは確か祖母だったか。その心を存分に発揮し、未だに不思議な顔でこちらをみている恭平に顎で前を向けとジェスチャーしてやった。
「…………あ」
なんとも間抜けな声が彼の最後の言葉となった。
朝の件以外は、それといってさしたる問題はなくその日の授業は過ぎていった。
朝の間は若干回復の兆しを見せた空模様だったが、今はそのなりを潜め完全に曇り空。
いつ、また雪が降り出すかわからない天気に嫌気が差し、授業中は上の空だった。
俺は軽く頭をふり、意識を集中させる。
――――終わりのホームルームの話くらいしっかり聞いておこう
しかし、そんな俺の態度が裏目に出たのか、はたまたしっかりと授業を受けなかった罰がここに来て下されたのか。
結局、どちらであろうと今、最悪の事態が起きたことに変わりはなかった。
「えー、それとだ。うちのクラスだけまだ各委員会、係りその他諸々が決まってなかったのを先生は今朝思い出した。なんで、朝いわねぇんだっつー言葉は言ってくれるな。先生も反省している。なので、今日はこのまま放課後残って決めてもらう。決まるまで帰れねぇからさっさと決めちまうことだな」
流石にこれには参った。当然、クラス内でも不満が爆発しそこかしこで愚痴をこぼすものや直接先生に訴える者などの声で教室は喧騒に包まれた。
朝俺に話しかけてきた恭平は、朝の罰として仕切り役を任されているようだ。しかし、特に困った様子や不平を言う様子が見られないので、最初から自分がやろうと思っていたのかもしれない。
芽衣はどうなのだろう、と考え始めた頭を軽く振る。今は他人の事より自分の事を考えなければならない。
俺はこの後、家に居る祖母を病院に連れて行かなくてはならず、もしかしたら早退の可能性もあることは昨日先生に言っておいたはずなのに、彼は忘れているらしい。
――――こ、これは言いにくい
この状況で1人だけ抜けるのにも抵抗があるし、クラスの皆からも少なからず不満がでるだろう。非難は避けられない状況だ。
しかし、祖母を病院に連れて行かないという手段は取りえない。以前1回だけサボった時は主治医からこっぴどく起こられた。祖母を大切にしなさい、と。
俺はまた軽くため息をついて目を閉じた。
心を決める。早まる鼓動を決意という鎖で押さえつけていく。少しづつ、しかし確実に雁字搦めにして無理やりにでも自分を納得させる。
そして、目をあけそのまま視界は先生の顔に固定し、手を挙げた。
「先生」
予想通り、俺の意外な行動にクラスはしんと静まりかえった。
それを肌で感じながらも無視して言葉を続けていく。
「昨日言ったと思うんですが……」
これで思い出してくれるならば僥倖、わからないようならそのまま説明に入る。
しかし、運が向いたのか。俺の言葉を受け先生は手を打ち、そういえばそうだったというような表情になった。
「いやー、すまん土御門。先生すっかり忘れてたわ、うん。よし、いいぞ土御門は帰って」
クラスはまた不満の嵐に包まれるが、それを気にせず続ける。
「ありがとうございます。俺の係りは先生が決めてください。余ったところでもいいですし」
「ん、わかった。よーし、それじゃ他の者は仲本を中心にして始めてくれ。人数が多いところはジャンケンで決定しろ。それから――――」
まだ続きそうな先生の話を無視し、机の中に入っている教材を全て鞄に押し込みいそいそと教室を退室することにする。
体中に非難の眼差しを受けながら教室の後ろを歩く。
途中、芽衣と視線があう。彼女は非難の目を向けることなく、微笑んでいた。
それに少し心が軽くなるような思いをしながら教室を後にし、ちらほらと学生のいる廊下を縫うように歩いていく。
腕時計を確認すると、かなり時間が迫っていることがわかったので、それから学校を出るまでは駆け足で行動した。
途中、一足はやく終わっていた上級生から奇異の目で見られたが、形振りかまっている暇はないので無視して全速力で走った。
校門に着いたとき、向こうからバスが来るのを確認してラストスパートをかける。徒歩では家まで30分はかかってしまうので、ここでバスを逃すとかなりの痛手になる。
運よくバスは手前の信号で引っかかり、意外と余裕をもってバス停に到着できた。
――――先に定期を用意しておくか
ズボンの後ろポケットにいつもいれている定期入れを出したところで丁度バスが到着した。
ICカードを通して1番後ろの席に行く。1番後ろの席に座るのがくせになったのは、今は亡き祖父の影響に違いない。ここが1番よく見える、と何度も小さい俺に話しかけてきたのをふと思い出す。
なんとなく、隣に居るような気がして視線を向け、僅かな落胆と共に視線を前に戻した。
戻して、違和感を感じた。
しかし、その違和感の正体はすぐにわかった。
――――人が1人も乗ってないなんて珍しいこともあるもんだな
いつもなら、これから買い物に行くであろう主婦や俺と同じく帰宅する学生、その他の乗客が10人くらいは乗っているはずである。
それが1人もいないのは、入学して1週間足らずだが、1度も経験したことはない。閑散とした車内になぜか寒気がし、ふとももを撫でる。
何故か鼓動が早くなるのを確認し、自分を落ち着かせようと目を閉じて大きく深呼吸をする。冷静に、冷静にと自己暗示のように口の中で繰り返し頭をクリアにしていこうとする。
いつもならばそれで多少は落ち着けるのだが、今日に限っては何故か効果がない。自らを律せない焦りと何故か沸く恐れからさらに鼓動は速まっていくばかりだ。
自身の精神の突然の変化に首を傾げながらそっと目を開く。今はそんな動作すら怖かった。
恐る恐る開いた目に映ったのは先ほどと変わりない誰も居ない車内の様子。変わり映えのない外の景色。
その日常の風景にほっと息をついた瞬間、それはきた――――
「なっ……んだ、これ、は……!?」
突然視界がぶれ、座席に寝転がる。一瞬にして奪われた平衡感覚と共に凄まじい吐き気と頭痛の波が襲ってくる。
目を堅く閉じ、荒く息をはいて胸元を必死に握り締める。少しでも油断すると胃の中の物を全てぶちまけそうだった。
何が自分の身に起きているのか、酷い頭痛に物事も考えられずただ闇雲に片腕を伸ばすが、空を切るだけで何も掴めなかった。
そう、何も掴めなかったのである。この狭い車内で。
そんな簡単な事実ですら気付くのに数十秒かかるほど今の頭では何も考えられなかった。
「い、一体……な、にが……」
起きている――――
そう続けようとした言葉は、薄く開けた視界に広がった白い世界に消えていき。
それと同時に意識が遠く離れていく。
うつ伏せに倒れたまま、遠のく白い世界を凝視する。
地平線まで白に染まったこの世界に何を思ったのか。
黒へと変わる意識の中、独り、頬をつたうモノの意味を探していた――――