第60話:下町の女帝、未来を生きる
ピピッ……ピピッ……ピピッ……。
規則正しく、無機質に刻まれる電子音。
硬質で、乾いていて、どこまでも感情の欠落した機械の鼓動が、深く沈み込んでいた意識の底を、冷たい針のようにチクチクと突き刺していた。
鼻腔を満たしたのは、焦がし醤油の香ばしさでも、炊きたての銀シャリの甘い蒸気でも、牛骨を何昼夜も煮詰めたあの濃厚なフォンドヴォーのアロマでもなかった。
ツンと鼻の粘膜を刺す、消毒用エタノールと塩素の匂い。
そして、一切の生活の濁りを排除した、エアコンディショナーの乾燥した人工風。
「……う……っ」
重い瞼を、わずかに押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、煤けたトタン屋根でも、木造長屋の黄ばんだ土壁でもなかった。
防音材の細かな孔が無数に穿たれた、白ペンキ塗りの吸音天井。
その中央に嵌め込まれた、青白い光を放つ薄型のLED蛍光灯が、網膜を容赦なく刺し貫く。
右腕には、プラスチックの管がテープで固定され、点滴スタンドから透明な生理食塩水がポタリ、ポタリと落ちていた。
指先には、血中酸素濃度を測る黒いパルスオキシメーターが冷たく噛みついている。
「あ……気がつきましたか? 先生、桐島さんの意識が戻りました!」
白いマスクとナースキャップをつけた若い看護師の声が、カーテンの向こうへと飛ぶ。
バサリとカーテンが引かれ、白衣を着た初老の医師が、カルテを挟んだバインダーを手に覗き込んできた。
胸元の名札には、見慣れた大病院のロゴ。
「桐島結衣さんですね。……自分の名前が分かりますか? ここがどこだか分かりますか?」
「……びょう……いん……?」
自分の声とは思えないほど、喉の奥がカラカラに渇き、掠れていた。
舌が上顎に張り付き、言葉がうまく紡げない。
「そうです。都立墨東病院の救急病棟ですよ。……よかった、意識ははっきりしているようだ」
医師はペンライトで結衣の瞳孔を覗き込み、小さく安堵の息を吐き出した。
「金曜日の午前三時半過ぎ、京成線の駅前ガード下で、泥水の中に倒れ込んでいるのをパトロール中の警察官に発見されたんです。激しい脱水症状と、急性胃潰瘍による大量出血、それに極度の過労と栄養失調。血圧が上が六十まで落ちていて、いつ心不全を起こしてもおかしくない危険な状態でした」
「きんよう……び……?」
「ええ。搬送されてから、丸二日……まるまる四十八時間、昏睡状態が続いていたんですよ。今日の日曜の昼になって、ようやく自発呼吸の数値が安定したところです。……本当に、命拾いをしましたね」
丸二日。
四十八時間。
医師の告げた言葉が、結衣の頭蓋骨の内側で、冷酷な反響を繰り返した。
「ま……る、二日……? うそ……そんな……」
「嘘じゃありませんよ。お勤め先のデザイン事務所の方にも連絡を入れましたがね、『週明けのプレゼンに穴を開けやがって』とずいぶんご立腹でしたよ。まったく、どんな働き方をしていたんですか。現代の三十代の女性が、昭和のモーレツ社員みたいな過労死寸前まで身体を壊すなんて、どうかしています」
医師は呆れたように首を振り、看護師に点滴の流量調整を指示してカーテンの向こうへと去っていった。
静まり返る、個室の病室。
窓の外を見上げれば、そこには――鉛色に霞む、令和の冬の東京の空が広がっていた。
遠くそびえ立つ、東京スカイツリーの白銀の鉄塔。
首都高速道路を行き交う、ハイブリッドカーや大型コンテナトラックの群れ。
ガラス張りの高層ビル群が、冷徹な幾何学模様を描いて地平を埋め尽くしている。
「…………っ」
結衣の喉から、ひゅっと息が漏れた。
全身の血の気が、一瞬にして足の先から抜け落ちていく。
丸二日。
たった、二日。
じゃあ……あの半年間は、何だったの?
昭和四十五年の初夏、未舗装の砂利道で行き倒れ、大山源三に拾われたあの日々は。
羽釜の白飯と、焦がし醤油の豚汁の、あの身体の芯まで染み渡る温もりは。
半熟オムライスを巡って源さんと怒鳴り合った夜も、本田鉄工所の火花の中で削り出した黒鉄の鉄板皿も、八百杉の勇がノミを振るって砕いた純氷の冷気も、さゆりと作ったレトロボトルプリンも、吉村健一が泥だらけになって夜を駆けた一万枚のチラシも……。
そして――あの晩鐘の鳴り響く夜、銀の皿を囲んで、全員が涙を流しながら万歳を叫んでくれた、あの奇跡のような祝宴は。
全部……私が、駅のガード下で倒れ、死にかけていた脳が見せた……都合のいい「走馬灯」だったというの……?
「嫌……っ、そんなの……嫌よ……!!」
結衣は点滴の針が刺さった右腕をシーツの上に投げ出し、顔を覆った。
胸が、引き裂かれそうだった。
あれが幻覚だったとしたら。
大山源三という老職人も、杉本勇という不器用な八百屋も、吉村健一という誠実な商社マンも、この世界のどこにも存在していなかったとしたら。
自分は、ただ冷え切った令和のオフィスで使い潰され、誰の役にも立てず、誰の愛も得られないまま、冷たいドブ川の縁で野垂れ死にかけた、ただの哀れな社畜の亡霊でしかなかったというのか。
「源さん……っ! 吉村さん……っ! 勇さん……!!」
結衣の目から、とめどなく大粒の涙が溢れ出し、白いシーツを暗い染みとなって濡らしていった。
◆
泣き濡れ、呼吸すら苦しくなった時だった。
ふと、ベッド脇のステンレス製のサイドテーブルに、見慣れた透明なビニール袋が置かれているのが視界に入った。
警察が、救急搬送時に結衣が身につけていた所持品をまとめた「私物袋」だった。
結衣は震える左手を伸ばし、その袋を引き寄せた。
中に入っていたのは、令和の現実そのものだった。
画面の割れたスマートフォン。
定期券の入ったパスケース。
社員証。
スマホの電源ボタンを押すと、液晶画面がパッと点灯し、溜まりに溜まったチャットアプリの未読バッジが「四十八」という数字を突きつけてくる。
『桐島、いつまで寝てるんだ』
『クライアントが激怒してる。月曜の朝イチで修正データを上げろ』
『代わりはいくらでもいるんだぞ』
冷淡で、無機質で、血の通っていない言葉の銃弾。
結衣の胸の奥が、冷たく凍りついていく。
(やっぱり……私は、あの冷たい世界に戻ってきただけなんだわ……)
絶望に目を閉じ、スマホを袋の中へ戻そうとした――その時だった。
ビニール袋の底。
ボロボロになったトレンチコートのポケットの隙間に、何かが、挟まっていた。
それは、スマートフォンでも、プラスチックのカードでもなかった。
淡い、黄色い紙の端切れ。
まるで、半世紀の歳月を経て酸化し、繊維が琥珀色に変色したような、古い、古い紙の質感。
「……え?」
結衣は息を呑み、指先を袋の底へと滑り込ませた。
摘み上げたのは――手のひら半分ほどの大きさに、手で力任せに引きちぎられた、一枚の紙片だった。
厚手の上質紙。
昭和の文房具店「寺岡堂」の棚に並んでいた、あの漆黒の背表紙を持つツバメ大学ノートの――まぎれもない、最終ページの切れ端だった。
「あっ…………!」
結衣の喉が、引き攣るように鳴った。
紙の表面。
そこには、インクの切れた万年筆のペン先で、結衣自身が魂を込めて彫り込んだ、あの筆跡が残されていた。
『大好きなキリシマ食堂と、初音銀座のみんなへ――』
自分が、あの四畳半の物置部屋で、消えゆく指先で刻みつけた文字。
そして――。
その結衣の文字の、すぐ真下。
余白のスペースに、太い、力強い、けれど涙で滲んだような黒インクの毛筆で、殴り書きされた文字があった。
無骨で、角が立っていて、けれど世界中の誰よりも温かい、あの老職人の筆跡。
『結衣、胸を張って生きろ。
お前は俺の、最高の娘だ。
キリシマ食堂 大山源三』
「っ………………………………!!!!」
結衣の全身に、目も眩むような電流が駆け抜けた。
紙片を抱きしめたまま、結衣の口から、堰を切ったような号泣が爆発した。
「ああああああっ……! う、うわあああああああんっ……!!」
夢じゃなかった。
幻覚なんかじゃなかった!
源さんは、いた。
あの初音銀座の路地裏で、自分を抱きしめ、「自慢の孫だ」と泣いてくれたあの老人は、確かに存在していたのだ。
自分が残した二百ページのノートを抱きしめ、去りゆく自分を見送り、そしてこの一枚の紙片を、未来へ帰る自分のコートのポケットへと、確かにねじ込んでくれたのだ!
紙片から漂ってくる、微かな匂い。
半世紀の時を経てもなお、かすかに残る、あの懐かしいラードと焦がしカラメル、そして安煙草ハイライトの煙の匂い。
「源さん……っ! 源さん……!!」
結衣はその古びた紙片を、自らの胸の上に固く、固く押し当てた。
涙が止まらなかった。
けれど、その涙は、もう絶望の涙ではなかった。
胸の奥底で、凍りついていた心臓が、ドクドクと恐ろしいほどの熱量をもって脈打ち始めていた。
魂に刻まれた、あの下町の人々の体温。
勇の背中、吉村の言葉、さゆりの笑顔、本田の鉄骨、寺岡のそろばん。
彼らが自分に注ぎ込んでくれた愛のすべてが、いま、この令和の病室で、結衣という人間の背骨を、鋼のように強く、真っ直ぐに立ち上がらせていた。
「……私は、死なない」
結衣は涙を拭い、顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、かつてサマーフェスの兵站崩壊を立て直し、巨大官僚と流通コングロマリットを論理の刃でねじ伏せた、「下町の女帝」の猛々しく凛とした光だった。
「私は……胸を張って、生きるわ!」
◆
翌朝、月曜日の午前九時。
港区・青山の一角に建つ、全面ガラス張りの近代的なオフィスビル。
結衣が勤めていたWEBデザイン事務所のフロアには、月曜の朝特有の、殺伐としたキーボードの打鍵音と、冷え切った空調の風が吹き荒れていた。
パーテーションで区切られた無機質なデスク。
誰もがヘッドホンを耳に押し込み、他人の顔を見ようともせず、ディスプレイのブルーライトに青白く照らされている。
「おい、桐島」
フロアの中央、ディレクター席に座る三十代後半の上司――課長の佐伯が、結衣の姿を認めるなり、舌打ちを一つ鳴らして立ち上がった。
手にしたタブレット端末をデスクに放り出し、冷笑を浮かべて結衣を見下ろす。
「やっと出社したか。金曜のプレゼン、お前が倒れて穴を開けたせいで、俺がどれだけクライアントに頭を下げたか分かってんのか? 自己管理がなってないんだよ。だいたい、お前の代わりなんて派遣でもいくらでもいるんだ。胃が痛いくらいで大袈裟に救急車なんか呼びやがって……」
かつての結衣なら。
令和のあの脆弱だった結衣なら、血の気を引かせ、胃を押さえ、涙を浮かべて「申し訳ありません」と何度も頭を下げていただろう。
だが――。
「…………」
結衣は、一歩も引かなかった。
佐伯の冷淡な視線を、真正面から、眉毛ひとつ動かさずに受け止めた。
背筋は定規を当てたように伸び、ジャケットの胸元を正し、静かに口を開いた。
「佐伯課長」
その声は、フロアのキーボードの打鍵音を、一瞬で掻き消すほどの絶対的な静けさと、重みを伴っていた。
「金曜日の件、ご迷惑をおかけしたことは事実です。そこはお詫びいたします。……ですが」
結衣はバッグから、一枚の純白の封筒を取り出した。
今朝、退院したその足で文房具店へ寄り、迷いなく墨文字で認めてきた封書。
トン……。
結衣はそれを、佐伯のデスクの真ん前、タブレットの真横へと、音を立てて置いた。
『退 職 届』
「な……!?」
佐伯が目を剥いた。
周囲のデザイナーたちが、ギョッとしてヘッドホンを外し、一斉にこちらを振り返る。
「た……退職届だと!? おい桐島、何を考えてるんだ! 今のお前に辞められて、進行中の案件はどうするんだ! だいたい、今ここで辞めて、お前みたいな三十代のデザイナーを誰が雇ってくれると思ってるんだ!?」
「雇ってもらうつもりはありません」
結衣の唇に、薄く、凛とした笑みが浮かんだ。
その眼差しは、区役所の円卓で小早川課長を沈黙させた時と同じ、絶対の強者の光を湛えていた。
「私は、自分の看板で立ちます。デザインと、食と、生きた人間の体温を繋ぐ……私にしかできない仕事を、自分の足で始めます」
「な、何寝言を言ってるんだ! 独立だと!? お前なんかにできるわけがないだろうが!!」
「できます」
結衣は佐伯の目を真っ直ぐに見据え、一歩、踏み込んだ。
「佐伯課長。あなたはこの半年間……いえ、これまでずっと、私を『替えの利く歯車』だと言い続けましたね。画面の向こうの数字だけを見て、現場で汗を流す人間の心を一度も見ようとしなかった。……でも、断言します。人間の心を通わせないデザインなど、ただのゴミです。数字だけで人を縛るビジネスなど、いずれ急速に陳腐化して滅びます」
「な、何を生意気な……!」
「私には、私の生きる場所があります」
結衣は深々と、けれど誇らしげに一礼した。
「これまでお世話になりました。……失礼いたします」
結衣は踵を返した。
佐伯の怒号が背後で響いたが、結衣の耳にはもう届かなかった。
自動ドアを押し開き、冬の青空の下へと踏み出す。
冷たい風が、結衣の頬を撫でた。
けれど、胸の奥は、これまでにないほど熱く、自由の喜びに満ちあふれていた。
◆
結衣の足は、迷うことなく、ある場所へと向かっていた。
地下鉄を乗り継ぎ、押上駅へ。
地上へ出ると、目の前には巨大な東京スカイツリーが、白銀の威容を誇って天へと突き刺さっていた。
近代的な商業施設「東京ソラマチ」、整備された広大なバスターミナル、行き交う観光客の波。
だが、結衣が見つめていたのは、その最新の観光地ではなかった。
結衣は、スマートフォンを開くこともせず、記憶の糸だけを頼りに、北の方角――向島・鳩の街方面へと歩き出した。
十間橋を渡り、東武伊勢崎線と京成線の線路沿いを進む。
街並みは、完全に現代のものへと変貌していた。
アスファルトで綺麗に舗装された道路。
新しく建て替えられたマンションや、瀟洒な現代風の一軒家。
だが――歩みを進めるにつれ、結衣の心臓が、早鐘のように激しく跳ね上がり始めた。
「あ……」
結衣の足が、止まった。
目の前に現れたのは――幅員二十二メートルの、広々とした四車線の幹線道路だった。
大型トラックや都営バスが、スムーズに行き交っている。
道路標識には、はっきりと刻まれていた。
『都市計画道路 放射第二十七号線』。
結衣は息を呑み、その道路の先を見つめた。
一直線ではなかった。
放射第二十七号線は――初音の交差点の手前で、まるで何か大切なものを優しく避けるかのように、南側へと緩やかに【六度】、滑らかな弧を描いて迂回していたのだ!
「曲がってる……!」
結衣の手が、口元を覆った。
涙が、視界を滲ませる。
曲がっていた。
あの日、寺岡堂の奥部屋で、徹夜で方眼紙の上にロットリングで引いた、あの曲線半径二百八十メートルの迂回バイパスが。
半世紀の時を越え、現代の東京の地図の上に、寸分の狂いもなく、確固たる現実として刻みつけられていたのだ!
そして――。
その迂回した幹線道路の内側。
通過交通の喧騒から守られた、静かな路地裏の入口に。
それは、忽然と姿を現した。
「…………っ!!」
結衣の喉から、声にならない息が漏れた。
見上げるような、美しい鉄骨構造。
強化アクリルガラスの天窓から、柔らかな冬の陽光が降り注ぎ、路地全体を明るく温かな光で包み込んでいる。
柱には、肉厚の角形鋼管。
梁には、本田鉄工所の技術を受け継いだ、精緻な立体トラス構造。
頭上に掲げられた、レトロでありながらモダンに磨き上げられたアーチ看板。
『初音銀座アーケード街』
残っていた。
消えていなかった!
ブルドーザーに均されることもなく、巨大スーパーのコンクリートの下に埋められることもなく。
自分が仲間たちと共に守り抜いた、あの初音銀座商店街が、いま、令和の東京の片隅で、奇跡のような美しい姿を保ったまま、息づいていたのだ!
◆
結衣は、震える足取りで、アーケードの天幕の下へと足を踏み入れた。
未舗装だった砂利道は、車椅子の通行にも配慮された、美しいインターロッキングの石畳へと舗装されていた。
だが、漂ってくる匂いは、昭和のあの日のままだった。
鰹節と出汁の香ばしい匂い。
果物の甘い匂い。
鉄を削る油の気配。
右手を見れば――『創業大正十三年 八百杉』。
そこには、近代的で清潔なガラス張りの冷蔵ショーケースを備えながらも、店先には山のような新鮮な野菜と果物が所狭しと並び、四十代半ばの、杉本勇の面影を色濃く残した逞しい店主が、「へいらっしゃい! 今日のトマトは甘いよ!」と威勢のいい声を張り上げていた。奥の帳場では、腰の曲がった老女が、笑顔でお客にぬか漬けを手渡している。
向かいを見れば――『手打ち蕎麦 やぶ忠』。
手入れの行き届いた藍色の暖簾の奥から、出汁巻き玉子を焼くジュウジュウという甘美な音が響いている。
その隣には、純喫茶の佇まいを残したお洒落なレトロカフェ『カトレア』。ショーケースには、あの牛乳瓶に入った「初音ボトルプリン」が、若い女性たちの人気スイーツとして誇らしげに並んでいた。
さらに奥の路地からは――カチン、カチンと、本田鉄工所の後継工場であろうか、小さな町工場から小気味よい金属加工の音が、街の鼓動のように響いてくる。
生きている。
全員が、生きている。
自分が残した二百ページのノートを道標にして。
あのオイルショックを乗り越え、バブルの狂乱を乗り越え、平成のデフレを乗り越えて、下町の商人たちは、自らの誇りと暖簾を、百年先のこの令和の時代まで、確かに繋ぎ止めてくれたのだ。
そして――。
アーケードの中ほど。
結衣の足が、吸い寄せられるように止まった。
木造の風情を残しながらも、耐震補強の鉄骨と見事に調和した、二階建ての店舗。
正面には、チリひとつなくピカピカに磨き抜かれた、大きな硝子戸。
硝子戸の脇には、本田鉄工所の黒鉄板から叩き出された、あの懐かしい「黒鉄のフライパン」のレリーフ看板。
そして――風に揺れる、深い藍色の暖簾。
『創業昭和四十五年 キリシマ食堂』
「…………っ」
結衣の胸が、熱い奔流で満たされた。
硝子戸越しに、厨房の中が見えた。
客席から厨房の炎が見えるよう、結衣が半世紀前にミリ単位で設計した、あのファサードの動線が、今もそのまま受け継がれていた。
真鍮の寸胴鍋から立ち上る、澄んだ湯気。
鼻腔をくすぐったのは――牛骨と香味野菜を何十時間も煮詰め、車麩の肉ダネを包み込む、あの世界でたった一つの、キリシマ食堂秘伝のデミグラスソースの香りだった。
厨房の中に立っていたのは――。
三十代前半の、白い清潔なコックコートを着た若い料理人だった。
筋骨隆々の太い腕。
どこか秋田の血を感じさせる素朴で真面目な眉元と、そして――吉村健一を思わせる、誠実で澄み切った真っ直ぐな瞳を持つ青年。
その青年が、フライパンを巧みに操り、黄金色のオムレツをライスの上へと乗せている。
客席の壁の中央。
もっとも目立つ特等席の柱に、重厚なチーク材の額縁に入れられて、大切に飾られていたものがあった。
それは――。
半世紀前の、黄色く変色したツバメ大学ノートの、最初の一ページ。
結衣の描いた『秘伝デミグラスソースの完全設計図』と、源三の太い文字で書かれた『我が愛する娘・結衣へ』の言葉だった。
「…………」
結衣は、ポケットの中の紙片を、指先でそっと握りしめた。
すべてが、繋がっていた。
自分の生きた証は、ここに永遠に残されていたのだ。
結衣は涙を拭い、背筋をピンと伸ばした。
ジャケットの襟を正し、前髪を払い、顔を上げる。
その顔には、もう迷いも、孤独も、一片の弱気もなかった。
これから始まる自分の新しい人生を、誇り高く切り拓いていくのだという、輝かしい希望の光だけが満ちあふれていた。
結衣は右手を伸ばし、ピカピカに磨かれた硝子戸の引き手に、そっと指をかけた。
ガラガラガラッ――。
澄んだ真鍮のドアベルが、カラン、コロンと涼やかに鳴り響いた。
厨房の若い店主が、フライパンの手を止め、満面の笑顔で振り返る。
「いらっしゃいませ!」
その温かい声に、桐島結衣は、世界で一番美しい、満開の笑顔で応えた。
「――ただいま、戻りました」




