第40話:純白のホイップと、琥珀色(こはくいろ)の誘惑
じっとりと首筋にまとわりつく真夏の夜気が、路地裏の木造長屋を蒸し風呂のように包み込んでいた。
初音銀座サマーフェスティバルの開幕を明日に控えた、午前六時過ぎ。
八百杉の作業場で杉本勇とともに「完熟トマトの極冷塩セーキ」と「氷結スイカの梅セーキ」を完成させた桐島結衣は、額に浮かんだ汗を手ぬぐいで拭いながら、商店街の角に佇む純喫茶「カトレア」の木製ドアをそっと押し開けた。
チリン、チリン――。
涼やかな真鍮のドアベルが、静まり返った店内に澄んだ余韻を響かせる。
キリシマ食堂のラードの香ばしさとも、八百杉の土と青果の匂いとも違う、深く焙煎された珈琲豆の香気と、ほのかに甘いバニラの残り香。
深紅のビロード張りのソファーが並ぶ薄暗い客席の奥、真鍮のサイフォンが整然と並ぶカウンターの中で、看板娘の竹中さゆりが、突っ伏すようにして頭を抱えていた。
オレンジ色のミニスカートに、白のノースリーブシャツ。流行の最先端を気取る十九歳の少女の背中が、重いため息とともに小さく揺れている。
「……はぁーあ。ダメだわ、全然形にならない。これじゃあ、お祭りでお客さんに笑われちゃう……」
「さゆりちゃん、お疲れ様。まだ悩んでいたの?」
結衣が声をかけると、さゆりは弾かれたように顔を上げた。
大きな瞳の周りにはうっすらと隈が浮かび、額には前髪が汗で張り付いている。カウンターの上には、アルミホイルの小さなカップや、洋菓子用の紙型が何十個も散乱し、その中身は見るも無残に崩れ、黄色い液状のペーストとなって無惨に潰れていた。
「結衣さん……っ!」
さゆりはすがるようにカウンター越しに身を乗り出した。
「どうしよう、結衣さん! やぶ忠の忠吉さんは『出汁巻き玉子串』を四百本も仕込み終えて、宝来軒の金造さんは『一口肉ちまき』を蒸籠に山積みにしたのよ! 八百杉の勇兄ちゃんだって、さっき氷をカンカン叩き割って、もの凄く美味しいトマトのジュースを作ったってトミ小母さんが自慢しに来たわ! キリシマ食堂も、源さんの極上ハンバーグを挟んだビフカツサンドがあるじゃない!」
さゆりの声が、焦燥でかすかに上擦る。
「男の人たちは、しょっぱいものやガッツリしたご飯ものばかり! でも、お祭りには絶対に、女の子や子供たちがキャーキャー言って飛びつくような、甘くて冷たくて、可愛い『ハイカラなデザート』が必要でしょ!? 私、カトレアの看板娘として、歩きながら食べられるパフェを作ろうとしたの。でも……」
さゆりは、ひしゃげたアルミカップを指差して唇を噛んだ。
「アルミのカップにアイスやゼリーを盛っても、この夏の暑さで一分も持たずにドロドロに溶けちゃうのよ! 紙のカップじゃ底がふやけてソースが染み出して手がベタベタになるし、歩きながらスプーンですくおうとすると、途中で中身が崩れて道の上にボトッて落ちちゃう……! お皿で出せば綺麗だけど、それじゃあ『食べ歩き』にならないじゃないの……!」
さゆりの悔しそうな訴えは、当時のテイクアウト事情の残酷な限界を正確に突いていた。
昭和四十五年の下町。
現代の令和のように、透明で頑丈なプラスチック製の蓋付きデザートカップや、耐水・耐油コーティングが施された使い捨てスプーンなど、どこを探しても存在しない。
当時の洋菓子といえば、不二家やデパートのショーケースに並ぶショートケーキを紙箱に入れて大事に持ち帰るか、喫茶店の涼しい店内で、銀の脚付きガラス器に盛られたアイスクリームやパフェを、長いスプーンで優雅に味わうのが常識だった。
炎天下の路地裏を歩きながら、片手で持ち、服を汚さず、最後まで美しさを崩さずに食べ切れるスイーツなど、当時の日本のどこにも存在し得ない「未知の領域」だったのだ。
「……やっぱり、無理なのかしら」
さゆりは力なく肩を落とし、緋色のソファーへと背中を預けた。
「サンライズに行けば、ガラス張りの涼しい席で、大きなガラスの器に乗ったストロベリーパフェが食べられるのよ。……こんなボロボロに崩れたアルミカップのお菓子なんて、誰が百円出して買ってくれるっていうの……」
「諦めるのは早いわ、さゆりちゃん」
結衣は静かに微笑み、さゆりの荒れた指先の上に、自らの手を重ねた。
「さゆりちゃんの着眼点は、百点満点よ。男の人たちが作る料理はどれも茶色くて、力強いスタミナ食ばかり。だからこそ、女性や子供たちの足を止める、目にも鮮やかで、息を呑むほど甘くて可愛い『キラーコンテンツ』が絶対に必要になるわ」
「でも、持ち歩ける容器がないのよ……?」
「器のことは、私に任せて」
結衣の瞳に、マーケターとしての確信に満ちた光が宿った。
「さゆりちゃん。……キリシマ食堂へ行くわよ。この街で一番、頑固で、気難しくて、そして誰よりも贅沢な『卵の魔法』を使える職人のところへね」
◆
午前七時。
キリシマ食堂の厨房には、すでに巨大な羽釜から炊きたての銀シャリの湯気が立ち上り、フライパンを握った大山源三が、朝の仕込みの真っ只中にあった。
「……あァ!?」
ガラリと勝手口を開けて飛び込んできた結衣とさゆりの顔を見るなり、源三は牛刀をまな板の上にトンと立て、眉間に深い皺を刻んだ。
「プリンだァ? 何を寝ぼけたこと言ってやがるんだ、さゆり! 今日はこれからサマーフェスの本番だぞ! ハンバーグのタネを捏ねて、カツサンド用のパンを切り分けて、寸胴のデミグラスソースの火加減を見なきゃならねえって時に、なんで洋食屋の厨房でケーキ屋の真似事なんぞしなきゃならねえんだ!」
「源さん、真似事じゃありません」
結衣が調理台の前に立ちはだかり、真剣な眼差しをぶつけた。
「源さんの裏の十八番……浅草の修業時代から培ってきた、あの『本物のカスタードプリン』を作ってほしいんです」
「なっ……」
源三の鋭い眼光が、微かに揺らいだ。
「……知ってやがったのか」
「当たり前です」
結衣は厨房の奥、食器棚の最上段を指差した。
「厨房を片付けた時、見つけました。棚の奥に大切にしまってあった、真鍮製の小さなプリン型と、カラメル用の小さな銅の手鍋。……浅草の老舗洋食店において、カスタードプリンは単なるデザートではなく、メインディッシュの肉料理と同じくらい、料理人の格と技術を証明するための『看板料理』だったはずです」
昭和四十年代。
家庭用のハウス食品「プリンミクス」が発売され、ゼラチンで冷やし固めるインスタントプリンが一般家庭に普及し始めていた時代。
だが、老舗の洋食職人が作る本物のカスタードプリンは、それらとは完全に別次元の芸術品だった。
ゼラチンなど一切使わない。
新鮮な卵の卵黄の力だけで、熱によって絶妙な弾力を持たせて蒸し焼きにする、濃厚で、どっしりとした固めのプリン。
ほろ苦いカラメルと、ミルクの豊かな乳脂肪、そして鼻腔をくすぐるバニラの香り。
「源さん」
さゆりがエプロンの裾をぎゅっと握りしめ、カウンター越しに身を乗り出した。
「お願い、源さん! フェスに来てくれる女の子や子供たちに、本物の味を食べさせてあげたいの! うちのカトレアの冷たい生クリームと、源さんのプリンを合わせたら……絶対に、日本一のお菓子ができるわ!」
「…………」
源三は煙草を取り出そうとしたが、二人の真剣な眼差しに気圧されたのか、ポケットに手を突っ込んだまま舌打ちを一つ鳴らした。
「……チッ。小娘どもが、揃いも揃って職人を顎で使いやがって」
源三は前掛けの紐を力任せに締め直すと、冷蔵箱の分厚い木蓋をバッと跳ね上げた。
「八百杉の勇が持ってきた、今朝産みたての特級卵が五パックある。……牛乳は、向かいの大塚牛乳の濃厚な赤パックだ。おい、結衣! 銅鍋を出せ! カラメルを焦がすぞ!」
「はいっ!!」
◆
厨房の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
カチリ、ボッ!
手前のコンロに青い炎が立ち上る。
源三が小さな片手の純銅鍋を火にかけた。
投入されたのは、真っ白なグラニュー糖と、わずかな水。
ジュウ……と砂糖が溶け始め、透明な泡がふつふつと沸き立つ。
「よく見ておけ、さゆり」
源三は木べらを使わず、鍋の柄を巧みに手首で揺すりながら、熱を均一に伝えていく。
「カラメルってのはな、甘みを作るんじゃねえ。『極上の苦味』を作るんだ。焦がしが足りなきゃただの砂糖水だ。焦がしすぎりゃ灰の苦味になっちまう。……煙の色が変わる、一瞬の刹那を見逃すな」
透明だった糖液が、次第に黄金色へ、そして薄茶色へと色づいていく。
やがて、泡が細かくなり、ツンとした香ばしい煙が立ち上った瞬間――。
鍋の中が、息を呑むような深い「漆黒の琥珀色」へと変貌した。
「今だ!」
源三がコンロの火から鍋を引き、用意してあった熱湯を一気に注ぎ入れた。
バシュウウウウッ――!!
激しい蒸気の破裂音とともに、焦がしカラメルのほろ苦く、どこか懐かしい大人の芳香が厨房いっぱいに爆発した。
砂糖のキャラメリゼを急冷して止める、職人の完璧な色止め。
スプーンですくうと、とろりとした艶やかな飴色の液体が、糸を引いて滴り落ちる。
舐めてみると、強烈なほろ苦さの奥から、上品な甘みと香ばしさが波のように押し寄せてくる極上のカラメルソースだった。
続いて、プリン液の調合。
源三の手元には、大きなガラスボウル。
そこへ、八百杉の新鮮な卵が、次々と割り落とされる。
全卵四個に対し、さらに卵黄だけを三個、追加で投入する。
「卵黄を贅沢に増やすのか……!」
さゆりが息を呑む。
「そうだ。白身の水分を減らし、卵黄の脂質とレシチンを極限まで高める。これが、スプーンを入れた時にビクとも崩れねえ、濃厚でなめらかな『固めプリン』の骨格になるんだ」
泡立て器で、空気を抱き込ませないよう、ボウルの底を擦るように静かに卵を解きほぐす。
隣のコンロでは、大塚牛乳の濃厚な牛乳に、砂糖と少量の生クリーム、そしてバニラエッセンスが加えられ、沸騰直前の六十度まで温められていた。
温かいミルクが、解きほぐされた卵液の中へと、細い筋を描いて静かに注ぎ入れられる。
黄金色のカスタード液が、ボウルの中で静かに渦を巻く。
そして――源三は、目の細かい真鍮製の漉し器を取り出した。
「結衣、漉すぞ。三回だ」
「はい!」
一度、二度、三度。
丁寧に漉されるたびに、卵の筋や未溶解の白身が完全に排除され、液体はまるでシルクの布地のように滑らかで、一切のダマのない完璧な黄金色のカスタードへと磨き上げられていく。
「さあ、生地はできた」
源三が腕組みをし、調理台の端を見つめた。
「だがよ、結衣。……これを何に流し込んで蒸すんだ。型から抜いて皿に乗せりゃあ、歩き食いなんざできねえぞ。アルミカップの型じゃあ、さゆりの言った通り熱が通りすぎてすが立つし、柔らかすぎて持ち歩けねえ」
「ええ、分かっています」
結衣は不敵な笑みを浮かべると、勝手口の板戸をカラリと開けた。
「持ってきましたよ。……初音銀座のネットワークが生んだ、最強のテイクアウト容器を!」
土間に運び込まれたのは、黄色いプラスチック製の牛乳配達用クレート(通い箱)だった。
その中に、カチャカチャと涼やかな音を立てて整然と並んでいたもの。
それを見た瞬間、さゆりと源三は、同時に目を丸くして叫んだ。
「……ぎゅ、牛乳瓶……!?」
◆
「そうよ。向かいの大塚牛乳さんの配達用の空き瓶よ!」
結衣は誇らしげにクレートから一本の瓶を持ち上げた。
高さ約十センチ、容量約百八十ミリリットル。
ぽってりとした丸みを帯びた円筒形のガラス瓶。
表面には、レトロなフォントで小さく『初音特別牛乳』と赤文字で印刷されている。
「大塚牛乳の店主さんに頼み込んで、洗浄済みの空き瓶を百本、無償で譲ってもらってきたの。もちろん、使う前にもう一度熱湯で完全に煮沸消毒してあるわ」
「ぎ、牛乳瓶でプリンを焼くっていうの……!?」
さゆりが目を白黒させる。
「そうよ、さゆりちゃん」
結衣はガラス瓶を光に透かしてみせた。
「よく見て。この牛乳瓶はね、毎日高温の蒸気で殺菌洗浄されて、何年もリユースされるために作られた『極厚の耐熱強化ガラス』なのよ。熱湯で蒸しても絶対に割れないし、急激な温度変化にも耐えられる。そして何より……!」
結衣は瓶の側面を指先でなぞった。
「ガラスは、完全に透明でしょう? 紙のカップやアルミホイルと違って、外側から中身が丸見えになるのよ!」
(……令和の時代に大ヒットした『ボトルスイーツ』の原型……!)
結衣の脳裏には、令和の高級プリン専門店や駅ナカのスイーツショップで飛ぶように売れていた、ガラス瓶入りのプレミアムプリンの姿が鮮烈に浮かんでいた。
透明なガラス越しに見える、美しい層のグラデーション。
スプーンを差し込んだ時の、瓶ならではのすくいやすさ。
歩きながらでも片手でしっかりと握りしめることができ、倒しても中身が崩れない安定感。
そして、食べ終わった後は水洗いして回収すれば、何度でもリユースできるという、昭和の生活様式に完全に合致したエコシステム。
「すげえな……」
源三が瓶を手に取り、感嘆の声を漏らした。
「陶器のココット皿よりもずっと頑丈だし、厚手のガラスが適度に熱を遮断してくれるから、蒸し器の直火が当たっても急激に沸騰しねえ。……プリンに『す(気泡)』が入るのを防ぐにゃ、これ以上ねえ理想の器じゃねえか!」
「でしょう!?」
結衣はパンと手を叩いた。
「源さん、仕込みましょう! 一本あたり、百二十円の贅沢を詰め込みます!」
手際よく作業が始まった。
まず、煮沸消毒されて冷まされた百本の牛乳瓶の底へ、あの漆黒の焦がしカラメルソースが、スプーン一杯ずつ丁寧に流し込まれていく。
トスン、トスンと底に溜まる、厚さ五ミリの琥珀色の層。
冷たいガラスに触れたカラメルが、ねっとりと固まり、底面に美しい水平線を描く。
そこへ――三度漉された黄金色のカスタード液が、細口のじょうごを使って、静かに、静かに注ぎ入れられた。
トトトトトッ……。
カラメルを巻き上げることなく、静かに重なる二層目。
鮮やかな真紅の琥珀色の上に、クリーミーなカスタードイエローが、八分目の高さまで満たされていく。
横から見ると、息を呑むほどに美しい二色のコントラスト。
「蒸すぞ!」
源三が、大鍋の上にセットされた二段の巨大な角型蒸籠の蓋を跳ね上げた。
グラグラと煮えたぎる湯。
百本の牛乳瓶が、蒸籠のすのこの上に、隙間なく整然と並べられていく。
「火加減は、極弱火だ」
源三はコンロの火を絞り、蒸籠の蓋を少しだけ斜めにずらして、蒸気の逃げ道を作った。
「百度の蒸気を直接ぶち当てたら、卵が沸騰して穴だらけになっちまう。八十五度から九十度の微熱で、じっくりと二十分……蒸気で撫でるように固めるんだ」
静かな厨房に、コトコトと湯の沸く微かな音だけが響く。
ガラス越しに熱が伝わり、瓶の中でカスタード液のタンパク質が、ゆっくりと、均一に網目構造を形成していく。
二十分後。
源三が竹串を手に取り、中央の瓶の芯へとそっと刺し入れた。
スッと引き抜く。
竹串の表面には、濁った液体は一切付着していない。
透き通るような蒸気だけが立ち上っていた。
「……揚がったぞ」
源三が短く告げた。
蒸籠から引き上げられた牛乳瓶。
表面は、生まれたての赤ん坊の頬のように滑らかで、ピンとしたハリを保ち、わずかに揺らすと、ぷるん、ぷるんと豊満な弾力を持って優美に震えていた。
「できた……! 完璧な蒸し上がりよ!」
さゆりが歓声を上げる。
「さあ、冷やすわよ!」
結衣がタライに張った井戸水の中に、瓶を並べて粗熱を取り、仕上げに砕いた氷水の中へと沈めていく。
ガラスがキリリと冷やされ、カスタードの脂質が引き締まり、濃厚なコクが内部に閉じ込められていく。
そして――舞台は、純喫茶カトレアの看板娘へと引き継がれた。
「さゆりちゃん、仕上げをお願い!」
「任せて、結衣さん!」
さゆりの目が、獲物を狙う少女のようにキラリと輝いた。
カトレアの厨房から持参した、氷水でキンキンに冷やされたボウル。
その中には、純白の動物性純生クリームに、ほんの少しのバニラシュガーとキルシュ(サクランボの蒸留酒)を加え、八分立てに泡立てられた極上のホイップクリームが満たされていた。
星型の口金をつけた絞り袋を、さゆりが両手で構える。
冷え切った牛乳瓶の口。
固まったカスタードプリンの表面へ、口先がそっと差し向けられた。
――チュルチュルッ、キュッ!
小気味よい手首のスナップ。
瓶の首のくびれを埋め尽くすように、純白の生クリームが、大輪の薔薇の花びらのように美しく渦を巻いて絞り出されていく。
雪のような純白の冠。
そして、その頂点の中央へ――。
さゆりは銀のピンセットを使い、シロップ漬けにされた真っ赤な缶詰チェリー(マラスキーノ・チェリー)を、緑の軸をピンと立てたまま、ちょこんと乗せた。
――完成。
『初音銀座・小粋なレトロボトルプリン』。
「…………っ!!」
静まり返る厨房のなかで、さゆりは自らの口を手で覆い、息を呑んだ。
調理台の上に並べられた、ガラス瓶。
朝の柔らかな光を浴びて、それは――下町の食堂の厨房にはあまりにも不釣り合いなほど、息を呑むような美しさを放っていた。
最下層には、深く艶やかな漆黒の焦がしカラメル。
中央部には、どっしりと濃厚なカスタードイエローのプリン。
その上を覆う、雲のようにふんわりとした純白の生クリーム。
そして、頂点に燦然と輝く、ルビーのように真っ赤なチェリー。
黒、黄、白、赤。
完璧な四層の色彩美。
ガラスの透明な曲面が光を反射し、瓶全体がまるで宝石箱のようにキラキラと輝いていた。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
さゆりの口から、黄色い悲鳴が爆発した。
「可愛い! 可愛い、可愛い、信じられないくらい可愛いわ結衣さんッ!!」
さゆりは飛び上がって結衣の肩を激しく揺さぶった。
「見てよこれ! ガラス瓶から中身が全部見えてる! カラメルとプリンとクリームが、しましま模様になってるのよ!? こんなにハイカラで、お洒落で、胸がキュンキュンするお菓子……銀座の三越や資生堂パーラーにだって絶対に売ってないわよ!!」
「ふふっ……本当に、綺麗ね」
結衣もまた、目頭を熱くしながらその瓶を見つめた。
昭和のノスタルジーと、令和のデザイン思考が、ひとつのガラス瓶の中で完璧に調和していた。
手に取ると、ガラス越しに伝わってくる心地よい冷気と、ずっしりとした確かな重み。
これなら、片手でしっかりと握りしめることができ、どれほど人混みの路地を歩き回っても、中身が崩れることは絶対にない。
「……おい」
腕組みをして横で見ていた源三が、咳払いを一つして、ぶっきらぼうに言った。
「見た目ばかり飾り立てたって、味が伴っていなきゃ看板にはならねえぞ。……さゆり、スプーンを突っ込んでみろ」
「言われなくても食べるわよ! いただきまーす!」
さゆりは寺岡堂から分けてもらった、長柄の木製アイススプーンを手に取った。
瓶の口から、スプーンをまっすぐに差し入れる。
純白の生クリームの層を突き破り、中央のカスタードプリンの中へと刃先が沈んでいく。
サクッ……。
ゼラチンのゼリーのような頼りない感触ではない。
スプーンの背に伝わってくるのは、驚くほどしっかりとした、密度の高い手応え。
そのまま、瓶の底の焦がしカラメルまで一気に到達させ、すべての層をひとすくいに持ち上げた。
赤、白、黄色、そして琥珀色のシロップが、スプーンの上で大輪の花のように重なり合っている。
さゆりは大口を開け、それを口の中へと放り込んだ。
ハフッ……。
「っ………………………………!!」
さゆりの身体が、ピンと硬直した。
両手で頬を押さえ、目を見開いたまま、咀嚼する顎が止まる。
一秒、二秒、五秒――。
やがて、さゆりの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……な、なにこれ……」
さゆりの喉から、震える声が漏れた。
「美味しい……っ! 美味しい、美味しい、信じられないくらい美味しいっ!!」
スプーンを握りしめたまま、さゆりは泣き笑いのような表情で叫んだ。
「卵の味が……ものすごく濃いの! 舌の上に乗せた瞬間はどっしり固いのに、体温でじわ〜って、極上のカスタードクリームみたいにとろけていく……! それに、このカラメル! 苦い! しっかり苦くて香ばしいから、卵の甘みが何倍にも引き立って……上にあるカトレアの生クリームのミルクの甘さと混ざり合って、お口の中が天国みたいになってるわ!!」
さゆりは夢中でスプーンを動かした。
二口、三口。
瓶の底をガツガツと擦り、最後の一滴のカラメルまでを綺麗にすくい取って、あっという間に一本を平らげてしまった。
「ぷはーっ! ……もう一本食べたい! ううん、十本でも食べられるわ!!」
「がははは!」
源三が豪快に笑い、前掛けで腕を組んだ。
「当たり前だ! 浅草仕込みの卵黄仕立てだぞ! 水で薄めたような粉末プリンなんぞと一緒にされちゃ困るぜ!」
老職人は誇らしげに胸を張ったが、その目元は、自分の作ったプリンを涙を流して喜んでくれた少女の姿に、温かく緩みきっていた。
「源さん、さゆりちゃん」
結衣は二人の手を取り、力強く言った。
「これで……すべての武器が揃いました。
やぶ忠さんの出汁巻き玉子串。
宝来軒さんの肉ちまき。
八百杉さんの極冷塩セーキ。
キリシマ食堂のビフカツサンド。
そして――カトレアとキリシマの魂が融合した、このレトロボトルプリン!」
結衣は厨房の窓の外、朝日を浴びて輝き始めた初音銀座商店街の路地を見据えた。
「しょっぱいものから、冷たいドリンク、そして極上のスイーツまで……この路地に入ってきたお客さんを、絶対に飽きさせない、完璧な食のテーマパークが完成しました!」
ガラガラガラッ!
勝手口が勢いよく開き、八百杉の勇が顔を覗かせた。
「おーい、結衣さん! 源の親父、さゆりもいるか! 本田のオヤジが屋台の設置を終えたぞ! 寺岡の若旦那もチケット売り場の設営を完了した! ……表の通りに、もうお客が集まり始めてるぜ!!」
「えっ、もう!?」
さゆりが時計を見上げる。午前七時半。
フェスの開始予定は午前十一時だというのに、吉村健一が配り歩いた一万枚のチラシと、結衣の描いた『キリシマ通信』を手にした近隣の団地住民や工員たちが、早くも商店街の入り口へと集まり始めていたのだ。
「行くぞ、野郎ども!」
源三がフライパンを叩き、気炎を上げた。
「瓶に蓋をしろ! 氷水の中に百本、ぶち込んで冷やしとけ! 初音銀座の底力、東京中に見せつけてやろうじゃねえかァッ!!」
「「「おおおおおおおおっ!!」」」
厨房に木霊する、魂の雄叫び。
純白のホイップと、漆黒の琥珀色のカラメル。
牛乳瓶という名の小さなタイムカプセルに詰め込まれた、下町の愛と情熱の結晶が、いま、初音銀座サマーフェスティバルの熱狂の渦へと、誇らしげに出撃していった。




