第35話:路地の灯火、ひとつに束ねて
木枯らしの吹き抜ける音が、初音銀座商店街の軒先に吊るされたトタン看板をカタカタと激しく揺らしていた。
十一月も半ばに差し掛かり、東京の下町には冬の冷気が足早に押し寄せていた。夕暮れ時の空は、群青色から墨色へと瞬く間にその深みを増し、路地裏の未舗装の砂利道には、乾いた落ち葉がカサカサと音を立てて風に弄ばれている。
だが――冷え込む外気とは裏腹に、商店街の路地裏には、前夜から燻り始めた前代未聞の熱狂の残り香が、まるで地熱のように微かに漂い続けていた。
大手外食チェーン「サンライズ」の関東開発課長・坂上浩二が、キリシマ食堂に現れ、大山源三の渾身の黒鉄ハンバーグに完膚なきまでに叩きのめされて去っていったという衝撃の報せ。
それは、一夜明けた今朝の神田市場での仕入れの場から、八百杉の店先、寺岡堂の帳場、そして長屋の井戸端会議に至るまで、文字通りの激震となって商店街の隅々を駆け巡っていたのだ。
「おい、本当なのかい! あの国道沿いのバケモノみてえなファミレスの親玉が、キリシマ食堂のハンバーグを食って『手作業の熱量には勝てない』って白旗上げて帰ったってのは!」
「本当さ! 本田のオヤジも、向かいの建具屋の親方も、昨夜キリシマの店先で一部始終を見てたんだから間違いねえよ!」
「あのサンライズの売上が、日曜日にガクンと落ち込んで目標割れしたらしいぞ! キリシマ食堂が、あの大手を押し返したんだ!」
朝から、通りを行き交う店主たちの声には、信じがたい奇跡を目の当たりにした者の興奮と、胸のすくような痛快さが満ちあふれていた。
だが、その熱狂の中で、ただ一人、腕組みをして八百杉の店先に仁王立ちになり、険しい表情で通りを睨みつけている男がいた。
杉本勇だった。
泥のついた前掛けをきつく締め、首に巻いた手ぬぐいの端をぎゅっと握りしめている。
「……喜んでる場合じゃねえんだよ」
勇は足元に置かれた大根の木箱を、長靴の爪先で軽く蹴った。
「キリシマ食堂が一発カマしたからって、あの大手が退散したわけじゃねえ。……坂上って男は言ったんだろ。『手作業の限界はいつか必ず来る』ってな。源さんの体は一つしかねえんだ。キリシマ一軒が満席になったところで、街中の客が国道へ流れていく流れを、どうやって止めるってんだ」
「勇ちゃん……」
店の中から、母親のトミが心配そうに顔を覗かせた。
「あんた、何をカリカリしてんだい。源さんと結衣ちゃんが勝ったんだ、素直に喜んでやりゃいいじゃないか」
「喜んで済む話なら、いくらでも喜んでやるさ!」
勇は振り返り、トミに向かって吠えるように言った。
「だがな、お袋! 見ろよ、やぶ忠の忠吉のじいさんを! 宝来軒の金造の親父を! あのサンライズができてからというもの、昼の客足が半分に落ちて、毎日店の前でハエ叩き振り回して怯えてやがる! このままキリシマ食堂だけが勝ち誇って、他の店が次々とシャッターを下ろしていったら……この初音銀座はどうなる!? キリシマ食堂一軒だけがぽつんと残った、死んだ街になっちまうんだぞ!!」
勇の胸の奥底で、下町の若旦那としての、そして商店街青年部のリーダーとしての熱い血が、激しく沸騰していた。
結衣がこの街に来てから、ずっと見てきた。
規格外の野菜を買い取り、奇跡のポタージュスープへと昇華させてくれたこと。
町工場の工員たちに温かい夜食弁当を届け、雨の日にコロッケを配って街の空気を変えたこと。
そして昨夜、大資本の論理を、職人の腕と町工場の黒鉄の皿でねじ伏せてみせたこと。
余所者だと見下し、小細工だと警戒していた自分が、どれほど情けなかったか。
一人の若い娘が、命を削ってこの街の食堂を守るために戦っているのに、地元の男である自分が、指をくわえて奇跡を眺めているだけでいいはずがなかった。
「お袋」
勇は前掛けを力任せに外すと、バッと床の木箱の上に投げ捨てた。
「青年部の連中と、商店街振興会の役員全員に声をかけてくる。……今夜七時、集会所に全員集まるように伝えろ」
「ちょ、ちょっと勇ちゃん!? 集会所って、寄り合いでも開く気かい!?」
「寄り合いなんてもんじゃねえ!」
勇は大股で通りへと飛び出し、キリシマ食堂の暖簾を真っ直ぐに見据えた。
「決起集会だ! ……キリシマ食堂だけに戦わせるな! 今度は、この初音銀座の全員が束になって、あの巨大ファミレスを迎え撃つ番だ!!」
◆
午後七時。
初音銀座商店街の中ほど、路地を一歩入った長屋の並びに建つ、木造平屋建ての「初音町民集会所」。
普段は冠婚葬祭の準備や、年に数度の地味な地蔵盆の打ち合わせくらいにしか使われないその古びた建物に、今夜は異様な熱気と煙草の煙が立ち込めていた。
三十畳ほどの広さがある畳敷きの大広間。
中央に並べられた細長い座卓を囲むように、四十名を超える商店主や町工場の親方たちが、膝を突き合わせてぎゅうぎゅう詰めに座っていた。
室内を照らすのは、傘の笠に埃の積もった十数本の蛍光灯。
チリチリと微かな放電音を立てる白い光の下で、男たちの吐き出すハイライトやしんせいの紫煙が青く棚引いていた。
八百杉の杉本勇が上座に立ち、その隣には寺岡堂の寺岡雅之が、帳簿とノートを抱えて眼鏡の位置を直している。
本田鉄工所の本田辰夫社長は、作業着の腕をまくり、太い腕組みをして座布団の上に胡坐をかいていた。
純喫茶カトレアのマスターと、赤いカーディガンを着たさゆりも、壁際の席から真剣な眼差しを前へと向けている。
ガラリ……。
集会所の重い障子戸が、静かに開いた。
入ってきたのは、大山源三と、その半歩後ろを歩く桐島結衣だった。
源三は、アイロンのきいた清潔な白い調理服に身を包み、結衣はいつもの洗いざらしの木綿のブラウスの上に純白のエプロンをきちんと結んでいた。
二人が姿を現した瞬間、広間のあちこちから、サッとざわめきが引いていった。
「……結衣さん、源の親父。来てくれたか」
勇が立ち上がり、二人を上座の席へと手招きした。
「勇さん、これは……?」
結衣が目を丸くして見渡す。
集まっていたのは、青年部の若手だけではなかった。
乾物屋、肉屋、魚屋、建具屋、銭湯の番頭、そして――。
座卓の最前列の隅に、小さくなって身を縮こまらせている、二人の老人の姿があった。
向かいの蕎麦屋「やぶ忠」の主人・忠吉と、大衆中華「宝来軒」の店主・金造だった。
結衣がこの街に来た当初、「余所者の小娘が、チャラチャラしたハイカラ飯で街の調和を乱している」と陰口を叩き、店の前に嫌がらせのように出前の自転車を並べ、果ては保健所への告発の黒幕とまで囁かれていた古参の店主たち。
普段なら傲慢な態度でべらんめえ口調を飛ばすはずの二人が、今夜は揃って顔を伏せ、茶托の上の冷めた番茶を指先でいじりながら、居心地悪そうに身を縮めていた。
「集まってもらったのは他でもねえ」
勇がドンと座卓を叩き、野太い声を張り上げた。
「みんな、昨夜のキリシマ食堂の出来事はもう知ってるはずだ。国道沿いのサンライズの親玉が乗り込んできて、源さんのハンバーグに鼻っ柱をへし折られて逃げ帰った! ……だがよ、それで胸を撫で下ろしてる奴がいるなら、大間違いだぞ!」
勇の視線が、座卓の店主たちを一人一人射抜いていく。
「サンライズは、資本金何億の大会社だ。一号店が少し躓いたくらいで、あいつらの勢いが止まるわけがねえ! これから第二期工事が終われば、ますます大量の冷凍肉を仕入れて、ますます安い値段で客を吸い上げにかかる! このままキリシマ食堂だけに戦わせて、俺たちが自分の店先で指くわえて見てるだけなら……この街は、半年で干からびて全滅するんだよ!!」
勇の激しい言葉に、広間の空気がピリピリと張り詰めた。
誰も反論できなかった。
ここ数週間の間に、自分たちの店のレジ引き出しの中身が目に見えて減っていた恐怖を、誰よりも痛感していたのは彼ら自身だったからだ。
「おい、忠吉のじいさん。金造の親父」
勇が、最前列の二人へと向き直った。
「何か……結衣さんと源さんに、言うことがあるんじゃねえのか」
「…………っ!」
忠吉と金造の肩が、ビクッと跳ね上がった。
二人は顔を見合わせ、額に脂汗を滲ませながら、ゆっくりと立ち上がった。
忠吉は七十近い老躯を震わせ、金造は油染みのついた前掛けをぎゅっと握りしめている。
二人は、結衣と源三の座る席の前へと歩み出ると――。
ドサリ。
膝を突き、畳の上に両手をついた。
そして、深々と、額を畳に擦り付けるようにして頭を下げたのだ。
「……すまなかった」
忠吉の掠れた、震える声が静寂を破った。
「結衣ちゃん……源さん。……本当に、すまなかった……!」
「忠吉さん……金造さん……!?」
結衣が驚いて立ち上がろうとするのを、忠吉は頭を下げたまま、涙声で制した。
「頭を上げられねえよ……。アタシらは……浅ましい年寄りだ。何十年もこの初音銀座で暖簾を守ってきたってことばかりが自慢でよ……。新しくやってきた若いあんたが、源さんの店を立て直して客を呼んでるのを見て、悔しくて、妬ましくて……。自分たちが時代についていけなくなってる恐怖を、あんたのせいにして、嫌がらせばかりしちまった……」
金造もまた、畳に額を押し付けたまま、嗚咽を漏らした。
「保健所に……通報したのも、俺たちだ。……どうしてもキリシマ食堂の繁盛が許せなくて、お上を使って店を潰してやろうと、とんでもねえ汚ねえ真似をしちまった……! なのに……昨夜、本田のオヤジから聞いたよ。あの大手チェーンの男が『手作業の店なんざ淘汰される』って見下してきた時、結衣ちゃんが……『この街の人たちの魂を守るんだ』って、真っ向から啖呵を切ってくれたって……!」
金造の太い涙が、畳の目を黒く濡らしていった。
「情けねえよ……! 泥を投げつけていた俺たちの街を、余所者扱いしていた結衣ちゃんが、命を賭けて守ろうとしてくれたんだ……! 俺たちは……自分の店のことしか考えてなかった! 本当に……本当に申し訳ありませんでした!!」
老いた商店主二人の、魂からの土下座。
広間のあちこちから、息を呑む音が漏れた。
下町の職人や商人にとって、畳に額を擦り付けて非を認めることが、どれほどの覚悟を要するものか。
長年のプライドも、見栄も、意地も、すべてをかなぐり捨てて、二人は自らの過ちを曝け出していた。
「……おい、忠吉。金造」
源三が、腕組みをしたまま低く呼んだ。
二人が恐る恐る、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
源三の表情には、怒りはなかった。数え切れないほどの挫折を味わってきた男特有の、深い慈雨のような眼差しがそこにあった。
「……顔を上げな。俺たちはな、浅草の焼け野原から、泥水啜ってここまで生き延びてきた仲間じゃねえか。……人間、誰だって腹が減って先が見えなくなしゃあ、魔が差すこともあるさ。なァ、結衣」
「はい、源さん」
結衣は座布団から降り、忠吉と金造の前へと進み出た。
そして、二人の泥臭く節くれだった手を、自らの両の手で、そっと包み込むようにして握りしめた。
「忠吉さん、金造さん。頭を上げてください」
結衣の声は、驚くほど澄み渡り、温かかった。
「謝る必要なんて、どこにもありません。……お二人が店を守りたいと必死だった気持ちは、私にも痛いほど分かります。自分の守ってきた味が、新しい時代の波に押し流されそうになった時、誰だって怖くなります。……私も、令和のあの冷たいオフィスで、同じように怯えていましたから」
「結衣ちゃん……」
「それにね、お二人のお料理は……決して時代遅れなんかじゃありません」
結衣は二人の濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「やぶ忠さんの、あの毎朝削り節から取る、キリッと醤油の立った鰹出汁……あれは、どんな大手チェーンの粉末スープにも真似できない、本物の江戸前蕎麦の粋です。宝来軒さんの、ラードで一気に強火で煽る五目チャーハン……あの香ばしいパラパラ感は、中華鍋を三十年振り続けた金造さんの腕があってこその宝物です」
「あ……っ……」
忠吉と金造の喉から、言葉にならない呻きが漏れた。
自分たちの仕事を、これほどまでに見つめ、理解し、誇りを肯定してくれた言葉を、二人は生涯で一度もかけられたことがなかったのだ。
「お二人の技がなければ、この初音銀座は成り立ちません」
結衣は優しく微笑み、力強く手を握り直した。
「だから……一緒に戦ってください。私たちの街を守るために、お二人の腕を貸してください」
「う……っ、うわあああああん……っ!!」
忠吉が、子供のように声を上げて泣き崩れた。
金造もまた、結衣の華奢な手を両手で包み返し、何度も、何度も頷いた。
「貸す……! 貸すともよ……! この命、この腕、結衣ちゃんに全部預けるよ! 蕎麦だろうが出汁だろうが、何だって作ってやる! だから……この街を守る知恵を、俺たちにも教えてくれェッ!!」
割れんばかりの拍手が、集会所の大広間を揺るがした。
本田社長が「よう言った、忠吉! それでこそ下町のジジイだ!」と豪快に笑い、トミやさゆりが目頭を熱くして手ぬぐいで涙を拭う。
排他性と嫉妬の棘に覆われていた下町の頑固親父たちが、結衣という一つの光を通じて、完全にその殻を打ち破り、心を通わせた瞬間だった。
◆
拍手がゆっくりと収まり、広間に再び静寂が戻った。
全員の視線が、中央の座卓の前に立つ桐島結衣へと注がれる。
そこにあるのは、単なる洋食屋の看板娘を見る目ではなかった。
知性と情熱を兼ね備え、大資本の怪物を前にしても一歩も引かない、この街の未来を託すべき「真のリーダー」を仰ぎ見る、畏敬と信頼に満ちた眼差しだった。
「皆さん」
結衣は凛とした声で語り始めた。
その佇まいは、令和の巨大なコンペティションで何百人もの役員を前にプレゼンテーションを行っていた時の、研ぎ澄まされたディレクターそのものだった。
「昨日、サンライズの坂上課長は私に言いました。『手作業の店はいずれ時代の波に淘汰される』『所詮は下町の狭いパイを取り合っているに過ぎない』と」
結衣は広間を見渡した。
「悔しいですが……彼の言っている論理には、一つだけ、否定できない冷酷な事実が含まれています。それは……『キリシマ食堂一軒だけが勝っても、意味がない』ということです」
店主たちがハッと息を呑む。
「サンライズの一号店は、客席数百二十席、駐車場五十台。一日平均千五百人のお客さんを捌く巨大な胃袋を持っています。それに比べて、キリシマ食堂の席数はたったの二十一席です。たとえうちが昼も夜も満席で回転し続けたとしても、一日に受け入れられるお客さんは、せいぜい百五十人から二百人……サンライズの十分の一にも満たないのです」
結衣は方眼紙を座卓の上に広げた。
「キリシマ食堂が満席になれば、入りきれなかったお客さんはどこへ行くでしょうか? もし、周りの蕎麦屋や中華屋、八百屋が寂れてシャッターを下ろしていたら……溢れたお客さんは、そのまま国道沿いのサンライズへと流れていくだけです。……点(一店舗)で戦っていては、面(巨大資本)には絶対に勝てません」
「点と……面……?」
勇が身を乗り出した。
「そうです、勇さん」
結衣は鉛筆を手に取り、方眼紙の上に初音銀座商店街の地図を素早く描き出した。
「サンライズの強みは何ですか? それは、広大な敷地の中に、駐車場があり、冷暖房があり、ソファー席があり、ハンバーグもエビフライもグラタンも、あらゆるメニューが一つ屋根の下に揃っている……いわば『巨大な完結型の商業施設』であることです」
結衣は商店街の路地を、太い線で囲ってみせた。
「ならば、私たちはどう戦うべきか。……答えは簡単です。キリシマ食堂という『点』で戦うのをやめましょう。この初音銀座商店街の路地全体を、一本の巨大な屋根のないアーケード……『街全体が一つのオープンエア・ショッピングモール』であると捉え直すのです!」
「街全体が……ショッピングモール……!?」
寺岡雅之が、眼鏡の奥の目をカッと見開いた。
「エリアマネジメント……面的な商業空間の再定義ですね、桐島さん!」
「その通りです、寺岡さん!」
結衣は力強く頷いた。
「サンライズは、四角いコンクリートの箱の中にすべてを詰め込みました。でも、私たちには何がありますか? ここには、本物の青空があります。下町の心地よい秋風があります。職人の鉄を削る音があり、鰹節を削る匂いがあり、珈琲のサイフォンの音があり、下町の人情味あふれる会話があります!」
結衣は手帳を掲げた。
「サンライズが『人工的に作られたファミレス』なら……初音銀座は『生きた人間の体温が通う、巨大な食のテーマパーク』になれるんです! キリシマ食堂が洋食を担当し、やぶ忠さんが和食の出汁を担当し、宝来軒さんが中華の炎を担当し、カトレアさんが極上のデザートと珈琲を担当し、八百杉さんがもぎたての新鮮な果物と野菜を提供する……! すべての店舗が専門店のクオリティを保ったまま、一つの巨大なレストランとして機能するのです!」
「おおおっ……!」
広間のあちこちから、地鳴りのような感嘆の声が上がった。
バラバラに孤立し、お互いに客を奪い合っていた小さな店主たちの頭の中で、自分たちの存在が、街という巨大な城壁の重要なブロックとして再配置されていく。
「そして――」
結衣は瞳に勝利への確信を宿し、座卓をドンと叩いた。
「その第一歩として、来月、私たちが仕掛ける反撃の大作戦を提案します!」
『初音銀座・秋の味めぐり 青空ワンコイン・食べ歩きフェスティバル』!
「たべあるき……フェスティバル……!?」
さゆりが目を輝かせて叫んだ。
「そうです、さゆりちゃん!」
結衣は身振りを交えて、令和の「街バル」のノウハウを鮮やかに解き明かした。
「お客さんに、一つの店でじっくり座って食べてもらうのではありません。各店舗が、自慢の看板メニューを『片手で持てる一口サイズ』にアレンジし、均一の低価格――百円前後のワンコインで店頭に出すのです!」
結衣は店主たちを指差した。
「キリシマ食堂は、あの極上煮込みハンバーグを一口大にした『特製ミニカツサンド』!
やぶ忠さんは、熱々の鰹出汁を紙コップで味わう『特製・出汁巻き玉子串』!
宝来軒さんは、竹皮に包んだ熱々の『手包み一口肉ちまき』!
八百杉さんは、冬のビタミンたっぷりの『搾りたて生姜蜜みかんジュース』!
カトレアさんは、歩きながらスプーンで食べられる『自家製ボトルプリン』!」
「な……なんて楽しそうなんだ……!」
本田社長が膝を打った。
「お客さんは、初音銀座の路地を歩きながら、百円玉を握りしめて、あっちの店で串を食べ、こっちの店でプリンを食べ、向こうの店でジュースを飲む……! 路地全体が、祭りの縁日の屋台街になっちまうってわけだな!!」
「その通りです、本田社長!」
結衣の声が、熱気を帯びて響き渡る。
「サンライズの店内では、座席に座って注文を待つことしかできません。でも、私たちの街では、歩くことそのものが冒険になり、買い食いすることそのものが最高のエンターテインメントになります! 家族連れも、若いカップルも、工員の男たちも……五百円握りしめて路地に入り込めば、銀座の一流レストランでも味わえない『極上の食べ歩き体験』ができるんです!」
結衣は両手を広げ、全員を見渡した。
「巨大なチェーン店に、客を奪われるのを待つのは、もう終わりにしましょう。……今度は、私たちが攻める番です。この初音銀座の路地に、東京中から人を呼び戻し、下町の意地と美味さを、思い知らせてやろうじゃありませんか!!」
――静寂。
一秒、二秒。
そして。
ドォォォォォォォォンッッッ!!
集会所の古い木造の壁がビリビリと震えるほどの、凄まじい大歓声が爆発した。
「うおおおおおおおおっ!!」
「やるぞ! やってやろうじゃねえか!!」
「百円の出汁巻き玉子串だな! 任せとけ、毎朝築地から一番いい鰹節を仕入れて削り出してやる!!」
「ちまきなら俺の十八番だ! 豚の角煮をゴロゴロ入れて、腹一杯食わせてやるぜ!!」
忠吉が、金造が、立ち上がって拳を突き上げる。
乾物屋も、肉屋も、魚屋も、誰もが立ち上がり、血走った目に熱い涙と闘志を滾らせて叫んでいた。
恐怖は、消え去っていた。
自分たちには、戦う武器がある。
自分たちには、束ねてくれるリーダーがいる。
巨大な怪物に怯えて震えていた下町の商人たちが、いま、一つの意志を持った巨大な軍団となって、完全に覚醒したのだ。
◆
興奮のるつぼと化した集会所の中で、杉本勇が座卓の上に飛び乗った。
藍色の前掛けを力強く締め直し、広間を見下ろす。
「野郎ども、静かにしろッ!!」
勇の雷鳴のような一喝に、店主たちがピタリと口を閉ざした。
勇は、中央に立つ桐島結衣を指差し、腹の底から叫んだ。
「聞いたな! 結衣さんがくれた、この最高の絵図面を! ……ここからは、俺たち地元の人間の仕事だ! 誰一人、足手まといになるんじゃねえぞ!」
勇は淀みなく指示を飛ばし始めた。
下町の若きリーダーとしての、圧倒的な統率力。
「寺岡の若旦那!」
「はい!」
寺岡雅之が立ち上がる。
「フェスの予算管理と、各店舗の共通チケットの印刷、そして複式簿記による売上清算のフローはお前に一任する! 一銭の狂いもなくまとめ上げろ!」
「お任せください。寺岡堂の技術と帳簿のすべてを注ぎ込み、完璧な地域通貨システムを構築してみせます」
「本田のオヤジ!」
「おうよ!」
本田辰夫社長が太い腕を鳴らした。
「路地に並べる特注の屋台ブースと、炭火の焼き台のフレームだ! 工場の鉄パイプと端材を使って、頑丈で風にもびくともしねえやつを二十台、叩き出してくれ!」
「がはは! 誠二と二人で、明日の朝から溶接の火花を散らしてやるぜ! 戦車がぶつかっても壊れねえ屋台を作ってやるよ!」
「さゆり!」
「はいっ、勇兄ちゃん!」
さゆりがピンと手を挙げた。
「近隣の団地や駅前、オフィス街への宣伝だ! お前の若いセンスで、結衣さんの描いたチラシを配りまくって、カトレアの客も全部巻き込め!」
「任せて! ミニスカート履いて、初音銀座で一番可愛い笑顔で、一万枚配り倒してあげるわ!」
「そして――源の親父、忠吉のじいさん、金造の親父、長老たち!」
勇の視線が、料理人たちへと注がれた。
「味覚のすべては、あんたたちの五十年の腕にかかってんだ! 一口食った瞬間に、子供も大人も腰を抜かすような、下町の職人の本気を見せつけてやれェッ!!」
「「「おうよッッッ!!」」」
老若男女、すべての役割が、寸分の隙もなく噛み合わさった。
勇の力強いリーダーシップ。
寺岡の精緻な計理と知性。
本田の屈強な工作技術。
さゆりの華やかな発信力。
そして、源三をはじめとする職人たちの、魂の味。
かつてバラバラに反目し合い、新しい風を拒絶していた昭和の下町コミュニティが、桐島結衣というたった一つの「ハブ(結節点)」を通じて、鋼鉄のスクラムを組んだ瞬間だった。
「乾杯だァッ!!」
本田社長が、持参していた一升瓶の栓をポンと引き抜いた。
湯呑みに、コップに、なみなみと注がれる酒。
「初音銀座商店街の反撃に――乾杯ッッッ!!」
「乾杯ィィィッ!!」
四十個のガラスと陶器が打ち合わされる激しい音が、集会所の夜空へと轟いた。
笑い声、怒号のような歓声、そして互いの肩を抱き合って涙を流す店主たちの熱気。
外の冷たい木枯らしなど、どこかへ吹き飛んでいた。
◆
午後十時。
大宴会が終わり、散会したあとの静まり返った路地裏。
結衣と大山源三は、並んでキリシマ食堂へと続く夜道を歩いていた。
頭上には、澄み切った群青色の夜空。
満天の星が、トタン屋根の隙間に冷たく、けれど凛とした光を投げかけていた。
源三は前掛けのポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら、ぽつりと言った。
「……結衣」
「はい、源さん」
「……お前、本当にすげえな」
老職人の声には、深い、深い感慨が滲んでいた。
「忠吉も金造も……頑固で、偏屈で、死ぬまで他人に頭なんか下げねえと思ってた連中だ。それが……あんな風に泣いて、笑って、一つの輪になりやがった」
源三は立ち止まり、夜空を見上げた。
「浅草の時もそうだった。大きなビルが建って、大手が攻めてきた時……俺たちはみんな、自分の店を守ることばかりに必死になって、隣の店を妬んで、いがみ合って……結局、バラバラに押し流されちまったんだ」
源三の節くれだった手が、結衣の頭の上に、ポンと置かれた。
大きくて、温かくて、少し油の匂いのする、不器用な手。
「だが……今度は違う。お前が、この街のバラバラだった灯火を、一つに束ねてくれたんだ。……これなら、押し流されねえ。どんな巨大な波が来たって、この街は……絶対に負けねえよ」
「源さん……」
結衣の目頭が、熱く潤んだ。
令和のあの冷たいオフィスでは、誰もが自分を守るために他人の足を引っ張り合い、数字の達成だけを求められて孤独に震えていた。
それが、いま。
この昭和四十五年の下町の路地裏で、人と人が手を取り合い、お互いの弱さを認め合い、一つの大きな家族のように結束している。
自分の持てる知恵のすべてが、この泥臭く温かい人々の命を繋ぐために役立っているのだという、震えるような多幸感が、結衣の胸を満たしていた。
キリシマ食堂の勝手口の板戸を開けると、厨房の奥の種火が、小さく、けれど決して消えることのない青い光を宿して揺れていた。
下町の反撃の狼煙は、いま、確実に上がった。
巨大外食チェーン「サンライズ」との全面戦争は、一軒の食堂の枠を飛び越え、初音銀座商店街というひとつの街の存亡を賭けた、歴史的な「フェスティバル」の幕開けへと向かって、力強く加速し始めていた。




