第29話:極上の挽き肉と、職人の隠し麩(ふ)
深夜一時。
初音銀座商店街を包む闇は、しんしんと冷え込む秋の静寂に沈んでいた。
だが、キリシマ食堂の厨房だけは、昼間のあの屈辱的な静けさを焼き払うかのような、異様な熱気と灯りに満たされていた。
真鍮の寸胴鍋の奥で、種火が青い舌をチロチロと揺らしている。
ステンレスの調理台の上には、肉屋「肉の丸長」から緊急で仕入れてきたばかりの、まだ体温の残滓を宿したかのような鮮烈な赤と白の塊――国産牛のモモ肉と肩肉、そして厳選された豚のバラ肉が、清潔な白布の上に整然と並べられていた。
「……やるぞ、結衣」
大山源三が、研ぎ澄まされた牛刀をまな板の上に置いた。
昼間のあの丸まっていた背中は、完全に消え失せていた。白頭巾の下の双眸には、獲物を解体する猛禽のような鋭利な光が宿っている。
「サンライズの看板は、百二十円のハンバーグだ。あいつらの主力に、あいつらの土俵で真正面からぶつかって、粉々に叩き潰す。……手作業の職人が作るハンバーグがどんなもんか、あのスーツの男(坂上)の脳天に叩き込んでやらなきゃ、死んでも死にきれねえからな」
「はい、源さん」
桐島結衣はエプロンの紐をきつく締め直し、大学ノートを開いた。
ノートの真ん中には、大きく『対サンライズ・ハンバーグ要件定義』と記されていた。
「敵を分析しましょう。サンライズのハンバーグは、セントラルキッチンで機械成形された冷凍パティです。牛肉と豚肉の挽き肉に、植物性タンパク質(大豆粉)や結着剤を混ぜ、工場で急速冷凍されて各店舗に配送される。店舗ではアルバイトがタイマー付きの電気グリドルで表裏を決まった秒数焼くだけです」
結衣は鉛筆の先で、ノートの文字をトンと叩いた。
「冷凍パティの最大の弱点――それは、解凍と加熱の過程で『肉汁』が大量に流出してしまうことです。肉の細胞膜が冷凍によって破壊されているため、水分を内部に留めておく力がない。だから彼らは、化学調味料と濃厚なケチャップベースの甘いソースを上からベッタリとかけて、パサつきを誤魔化しているんです」
「なるほどな……」
源三が顎を撫でた。
「舌の肥えてねえ子供は、その甘ったるいソースとケチャップで騙せるかもしれねえ。だが、肉そのものの味を噛み締めりゃあ、中はスカスカのゴム草履みてえなもんだ」
「そうです! だからこそ、私たちが勝つべきポイントはただ一つ……『圧倒的な肉汁の保持力』と、『噛んだ瞬間に官能が弾け飛ぶ食感』です!」
結衣は拳をぎゅっと握りしめた。
「一口食べた瞬間に、透明な肉汁がナイフの先から津波のように溢れ出し、肉そのものの濃厚な旨味が口いっぱいに広がる……。冷食パティしか知らない人間が食べたら、腰を抜かして言葉を失うような、本物の手ごねハンバーグを創り出します!」
◆
第一の関門は、「肉の配合比率」と「挽き方」だった。
源三は肉の丸長から届いた牛肉と豚肉を、じっと見つめた。
「世間の安食堂じゃあ、豚肉七に牛肉三、ひでえところになりゃあ鶏肉まで混ぜてカサ増ししてやがる。だが、それじゃあハンバーグの命である『牛の重厚なコクと香り』が出ねえ。かといって、牛百パーセントのビフバーグにしちまうと、脂の融点が高すぎて、冷めた時に口の中に牛脂の嫌なベタつきが残るし、肉質が固く締まりすぎちまう」
「はい。牛と豚のベストバランス……令和の……いえ、未来の高級洋食店で導き出された黄金比は、『牛七対、豚三』です」
結衣はノートに比率を書き込んだ。
「牛肉は、赤身の味が最も濃厚な牛モモ肉と、適度な筋とゼラチン質を持つ肩肉を半々でブレンドします。そして豚肉は、甘みのある上質な脂身をたっぷり含んだバラ肉です。牛の赤身で強烈な肉のパンチ(イノシン酸)を作り、豚のバラ肉でジューシーな融点の低い脂を補う……!」
「よし、肉を挽くぞ」
源三は手動のミートチョッパー(肉挽き機)を調理台の端にボルトで固定した。
ここでも、職人の異常なまでのこだわりが炸裂した。
通常、精肉店では細かい穴のプレートで一度に肉を挽いてしまう。しかし、源三は牛モモ肉をまず八ミリの「極粗挽き」のプレートに通し、豚バラ肉は五ミリの「中挽き」に通した。
ガリガリ、ガリガリと鉄のハンドルが唸りを上げる。
挽き出された肉は、ペースト状になど決してならず、サイコロ状の肉の粒がしっかりと角を保ったまま、鮮やかなルビー色と純白のまだら模様を描いてボウルへと落ちていった。
「肉の粒を殺さねえ。噛んだ時に、奥歯が肉の繊維をプチッと噛み切る手応えを残すんだ」
源三が呟く。
続いて、第二の関門――「玉ねぎの仕込み」だった。
八百杉の勇が今朝届けてくれた、泥つきの立派な新玉ねぎ。
結衣は包丁を構え、玉ねぎの皮を剥いた。
「源さん、玉ねぎの配合ですが……『二段活用』でいきます」
「二段活用だと?」
「はい。通常のハンバーグは、炒め玉ねぎだけを入れるか、生の微塵切りを入れるかの二択です。でも、私たちはその両方を『半々』で合わせます!」
結衣の指示に従い、源三の神業のような包丁がまな板の上で踊った。
トトトトトトトトトン!
目にも留まらぬ速さで、二個の玉ねぎが微細な微塵切りへと刻まれていく。
その半分――約二百グラムを、源三は鉄のフライパンに入れ、自家製ラードを一欠片落として強火にかけた。
ジャアアアアッ!
激しい炒め音とともに、玉ねぎの水分が蒸発していく。
火を中火に落とし、源三は木べらで休むことなく鍋底を擦り続けた。
一分、五分、十分――。
白い玉ねぎが、徐々に黄色へ、薄茶色へ、そして最後には濡れたような深い「飴色」へと変貌していく。
メイラード反応によって極限まで凝縮された、玉ねぎ本来の暴力的なまでの甘みと香ばしさ。
「これを冷ます。熱いまま肉に入れたら、肉の脂が溶けちまうからな」
源三は飴色玉ねぎを冷水で冷やしたバットに広げた。
そして、残りの半分――刻んだばかりの「生の微塵切り玉ねぎ」。
「生の玉ねぎをそのまま入れることで、焼いた時にシャキシャキとした軽快な歯ごたえがアクセントになります。さらに、生の玉ねぎから染み出る硫化アリルが、肉の生臭さを完全に消し去り、加熱されることで肉の内部からみずみずしい甘露となって溶け出すんです!」
黄金比の挽き肉(牛七・豚三)。
飴色玉ねぎと、生の微塵切り玉ねぎ。
素材の準備は完璧だった。
源三は氷水を張った大きなタライの中にボウルを浮かべ、手の熱が肉に移らないよう、冷水で手を冷やしてから肉ダネを力強く練り始めた。
塩、白胡椒、ナツメグ、そして全卵を二個。
グチャッ、グチャッ、ペタッ、ペタッ。
老職人の太い腕が、ボウルの底で高速で円を描く。
塩分によって肉のアクチンとミオシンが結合し、肉ダネにみるみるうちに白っぽい粘り(網目構造)が生まれていく。
つなぎとして、牛乳に浸したパン粉を投入し、さらに練り上げる。
両手でキャッチボールをするように、パンッ、パンッと空気を抜き、美しい小判型へと成形した。
「よし……! まずは一発目の試作だ!」
源三が鉄のフライパンを強火にかけ、ラードを引いた。
ジュワアアアッ!
パティが滑り込み、表面に香ばしい焼き目がつけられていく。
裏返し、蓋をして弱火で蒸し焼きにすること七分。
ふっくらと膨らんだハンバーグが、皿の上へと引き上げられた。
だが――。
「…………あっ」
皿に乗ったハンバーグを見た瞬間、結衣の口から小さな落胆の声が漏れた。
源三もまた、フライパンの底を見つめたまま、苦虫を噛み潰したような顔で固まっていた。
フライパンの底には――パティから溢れ出た、大量の透明な脂と、肉のエキスを含んだ濁った肉汁が、海のように溜まっていたのだ。
そして、皿の上のハンバーグ。
箸を入れると、確かに美味い。肉の粒感も、玉ねぎの甘みも抜群だ。
しかし――期待していたような「溢れる肉汁の奔流」は起きなかった。
焼いている最中に、貴重な肉汁の半分以上が、外のフライパンへと逃げ出してしまっていたのだ。
その結果、中は少しパサつき、皿の上に落ちた肉汁は冷めるとともに白く濁った脂へと変わり始めていた。
「ダメだ……」
源三が皿を突き放し、深く溜息をついた。
「肉汁が……逃げちまう。強火で表面を焼き固めたって、肉が加熱されて縮む時の圧力で、中のスープが全部外へ押し出されちまうんだ。……パン粉を増やせば肉汁は吸うが、それじゃあ今度は肉の味がぼやけて、安物のハンバーグになっちまう……」
「そうなんです……」
結衣も頭を抱えた。
令和の時代であれば、ゼラチンで固めたブイヨンを肉ダネの中央に包み込む「仕込み技」や、牛脂のミンチを人工的に散らす手法がある。だが、昭和四十五年の下町食堂の仕込みにおいて、そんな手間のかかる技法は毎日のオペレーションに組み込めない。
安価で、誰でも再現できて、肉の味を邪魔せず、加熱しても肉汁を内部に死ぬ気で抱き込み続ける「奇跡のつなぎ」など、どこにあるというのか。
深夜二時半。
静まり返った厨房に、換気扇の低い唸り声だけが虚しく響いていた。
二回目の試作。卵の量を増やす――失敗、固くなる。
三回目の試作。片栗粉を混ぜる――失敗、表面が団子のようにネチャつく。
四回目の試作。冷水を加えて乳化を試みる――失敗、焼いている途中でパティが破裂する。
失敗したパティが、調理台の上の皿に積み重なっていく。
結衣の額には冷や汗が滲み、疲労で視界がかすみ始めていた。
(ダメなの……? やっぱり、冷食パティを圧倒するほどの肉汁の保持力なんて……個人店の設備じゃ無理なの……!?)
その時だった。
「……おい、結衣」
腕組みをして天井を仰いでいた源三が、唐突に口を開いた。
その口元に、どこか懐かしむような、そして不敵な職人の笑みが、フッと浮かんでいた。
「……お前、さっき『安くて、肉汁を吸って、離さねえもん』って言ったな」
「え……? ええ、言いましたけど……」
「あるぞ」
「えっ!?」
源三は立ち上がり、厨房の隅の乾物棚へ向かった。
引き出しの奥から引っ張り出してきたのは、古びた紙袋だった。
中から取り出されたのは――直径十センチほどもある、中央に穴の空いた、硬く乾いた茶褐色の車輪のような物体だった。
「源さん……それって……」
結衣の目が点になった。
「お麩……? 車麩ですか!?」
◆
「そうだ。向かいの乾物屋『丸善』から仕入れた、新潟の伝統的な車麩だ」
源三はその硬い車麩を、指先でコンコンと叩いてみせた。
乾いた木のような、澄んだ高い音が響く。
「車麩って……お味噌汁に入れたり、すき焼きに入れたりする、あの和食のお麩ですよね!? なんで洋食のハンバーグにお麩なんですか!?」
「洋食屋の頭だけで考えるから壁にぶつかるんだよ」
源三はニヤリと唇を吊り上げた。
「浅草の修業時代、親方が昔語りで教えてくれたことがあった。……戦前、牛肉が滅法高かった時代にな、浅草の貧乏な洋食屋が、少しの肉でデカいビフカツやハンバーグを作るために、パン粉の代わりに『すり潰した麩』を混ぜてカサ増ししたんだとよ」
「カサ増し……?」
「ああ。だがな、親方はこうも言ってた。『麩を入れたハンバーグはな、カサが増えるだけじゃねえ。パン粉の百倍、肉汁を吸い込んで離さねえ化け物になる』ってな」
「…………!」
結衣の脳天に、激しい電流が駆け抜けた。
麩。
小麦粉からデンプンを洗い流し、残った植物性タンパク質――「グルテン」だけを抽出し、棒に幾重にも巻きつけて直火でじっくりと焼き上げた、日本古来の伝統保存食。
令和の栄養学と食品科学のデータが、結衣の脳内で猛烈な勢いで結合していく。
(そうよ……! パン粉は『パン』を砕いたものだから、加熱されると炭水化物の構造が崩れて、吸い込んだ油や水分を外へ吐き出しちゃう……! でも、お麩は違う!)
結衣は震える手で車麩を手に取った。
(お麩の正体は、純度百パーセントの『グルテンの網目構造』! まるで無数の微細なスポンジの部屋が、立体的に重なり合っているような構造体なのよ! 水分や肉汁を吸い込むと、何倍にも膨張してその部屋の中に液体を閉じ込め……熱を加えても、グルテンの網目は壊れない! むしろ熱凝固して、抱き込んだ肉汁を内側にガッチリとロックする……!!)
「すごい……! すごいです、源さん!」
結衣は叫んだ。
「お麩の吸水力は、パン粉の三倍以上です! しかも、元々が植物性タンパク質だから、肉のタンパク質と完璧に馴染んで、肉の味を一切邪魔しない! 冷めてもボソボソにならず、驚くほど滑らかな舌触りを保ち続ける……! これこそ、私たちが探していた『最強のつなぎ』です!!」
「へっ、理屈は後だ!」
源三は大きなすり鉢とすりこぎをドンと調理台に置いた。
「すり潰すぞ、結衣! 粉末にしちゃいけねえ。粗挽きのパン粉くらいの粒感を残して、均一に砕くんだ!」
「はいっ!!」
ゴリゴリ、ゴリゴリッ!
静かな深夜の厨房に、車麩をすり鉢で擂り潰す心地よい乾いた音が響き渡った。
結衣が力一杯すりこぎを回す。
硬かった車麩が、黄金色の細かなフレーク状へと砕かれていく。
指でつまむと、サラサラとしていて、信じられないほど軽やかだ。
そこへ、八百杉から仕入れている新鮮な牛乳を少量振りかけると――。
みるみるうちに、砕かれた麩が牛乳を一滴残らず吸い込み、ふんわりとした雪のような、弾力のあるジェル状の塊へと姿を変えた。
「吸い込みやがった……! 一滴も皿に牛乳が残ってねえぞ!」
源三が目を剥いた。
「五回目の試作、行きます!」
氷水で冷やされたボウル。
牛モモと肩肉の極粗挽き、豚バラ肉の中挽き(七対三)。
飴色玉ねぎと、生の微塵切り玉ねぎ。
塩、白胡椒、ナツメグ、全卵。
そして――牛乳を含ませた、黄金色の「砕き車麩」。
源三の太い腕が、ボウルの中で唸りを上げた。
ペタッ、ペタッ、グチャッ、グチャッ!
肉の繊維と、玉ねぎと、麩が、一つの生命体のように混ざり合っていく。
麩が肉から染み出そうとする脂と水分を、その無数の微細な気泡の中に貪欲に吸い込み、肉ダネ全体が、まるで極上の羽二重餅のように、滑らかで吸い付くような粘りを帯びていく。
「空気を抜くぞ!」
源三が両手で肉ダネを叩きつける。
パンッ! パンッ! パンッ!
小気味よい音が厨房に木霊する。
成形された小判型のパティは、先ほどまでの試作品とはまるで違っていた。
表面に余分な脂の浮きが一切なく、しっとりと吸い付くような弾力を湛え、ふっくらと丸みを帯びている。
「火を入れるぞ、結衣!」
カチリ、ボッ!
強火のフライパンに、薄くラードが引かれる。
ジュワアアアアッ――!!
パティが投入された。
ここからの源三の火入れは、まさに神業だった。
強火で一気に表面を焼き固める。二十秒。
フライパンを斜めに傾け、溶け出たわずかなラードをスプーンですくい、パティの上面へと回しかける。アロゼ。
ひっくり返す。
パティの裏面には、ムラのない完璧な濃いきつね色のキャラメリゼ。
弱火に落とし、蓋をして蒸し焼きにすること六分。
――チリチリ、チリチリ……。
蓋の隙間から漏れ出てきたのは、焦げる匂いではなかった。
信じられないほど甘く、香ばしい、牛肉の焼ける濃厚なアロマ。
源三が、意を決して蓋を跳ね上げた。
「…………っ!!」
二人は同時に息を呑んだ。
フライパンの中央に鎮座していたパティ。
それは――まるで、ラグビーボールのように、パンパンに、丸々と膨れ上がっていた。
今にも皮膜が弾け飛ぶんじゃないかと思うほど、内側からの猛烈な圧力で球形に膨張している。
そして――何よりも驚愕すべきは、フライパンの底だった。
油が、肉汁が、一滴も流出していなかったのだ。
底にあるのは、最初に引いたわずかなラードの油膜だけ。
肉汁のすべてが、内側に潜む「車麩の網目」の中に完全にロックされ、一滴たりとも外へ逃げ出さずに、パティの内部で沸騰していたのだ。
「す……すげえ……」
源三の唇が、小さく震えた。
「肉汁が……全部、中に閉じ込められてやがる……!」
だが――結衣の瞳は、さらにその先を見据えていた。
「源さん! まだ完成じゃありません!」
「なに!?」
「ここからが、キリシマ食堂の真骨頂です! 小鍋のデミグラスソースを温めてください!」
◆
結衣が提案したのは、単なる「焼きハンバーグ」ではなかった。
令和のファミレスやステーキハウスの主流は、鉄板で焼くだけのハンバーグだ。しかし、それだけでは、冷食パティを焼いて出すチェーン店と「調理法のカテゴリ」で差別化が図りにくい。
個人店が、老舗洋食店が、圧倒的な手作業の深みを見せつけるための究極の調理法。
それが――『煮込み(シチューイング)』だった。
「小鍋に、あの三代継ぎ足した秘伝のデミグラスソースをたっぷり張ってください!」
源三の手鍋に、漆黒のデミグラスソースが注ぎ入れられた。
赤ワインと牛骨、焦がし香味野菜が一週間煮込まれた、深い苦味とコクを持つ奇跡のソース。
そこへ、フライパンで表面を焼き固められ、肉汁をパンパンに抱え込んだ熱々のパティが、滑り込ませるように投入された。
ドボンッ!
ジュワワワワッ……コトコトコト……。
黒いソースの海に浮かぶ、黄金色のパティ。
火加減は、極弱火。
沸騰させてはならない。肉のタンパク質が固く締まらないよう、八十度前後の微沸騰の状態で、静かに、静かに煮込んでいく。
ソースの対流が、パティの表面を優しく撫でる。
肉の表面についた微細な焼き目の隙間から、デミグラスの赤ワインとフォンドヴォーの旨味がじんわりと肉の芯へと浸透していく。
同時に、肉の内部で車麩が抱え込んでいる肉汁のエキスが、表面のソースと微かに交歓し、デミグラスソースそのものにとろみと動物性の深みをプラスしていく。
鍋の中で起きているのは、単なる加熱調理ではない。
ソースと肉の、完全なる「融合」だった。
十分後。
「……火を止めるぞ」
源三が静かに言った。
白磁の深い丸皿が、湯煎で人肌に温められていた。
源三は大きなスプーンを使い、煮崩れひとつない見事なハンバーグを、皿の中央へとそっと移した。
そこへ、小鍋に残った漆黒のデミグラスソースが、たっぷりと、パティが見えなくなるほど贅沢に回しかけられた。
トッピングには、八百杉の新鮮なインゲンの素揚げと、グラッセにしたニンジンの鮮やかな赤。
最後に、純白の生クリームが一筋、艶やかな円を描くように垂らされた。
――完成。
『キリシマ食堂特製・手ごね極上煮込みハンバーグ』。
深夜三時を回った厨房に、息を呑むような沈黙が降りてきた。
白熱電球の光を浴びて、漆黒のソースをまとったハンバーグが、まるで黒曜石の宝石のように妖しく、美しく艶めいていた。
立ち上る湯気。
焦がしバターと赤ワインの気品ある酸味。
ローストされた牛骨の深い苦味。
そして、その奥から強烈に主張してくる、本物の牛肉と豚肉の野性味あふれる芳香。
二人の喉が、同時にゴクリと鳴った。
「……食うぞ、結衣」
「はい……!」
二人はカウンターに並んで座った。
ナイフとフォークではない。
源三は、あえて「割り箸」をパチンと割って結衣に手渡した。
下町の大衆食堂の誇り。箸で切れるほどの柔らかさでなければ、客を本当に感動させることはできないという、老職人の宣戦布告だった。
結衣は震える手で箸を握りしめた。
漆黒のソースの海に浮かぶ、ふっくらと膨らんだハンバーグの頂点。
そこへ、箸の先をそっと当てた。
スーッ……。
抵抗は、全くなかった。
まるで、温かい絹の豆腐に箸を入れたかのように、何の力も入れずに箸先が吸い込まれていく。
そして、箸を左右に開いた――その瞬間だった。
プシュッ!!
「っ…………!?」
二人の息が、同時に止まった。
割れ目から上がったのは、蒸気の音だけではなかった。
断面から――まるで、地中の油田を掘り当てたかのように、透明で、黄金色に輝く熱々の肉汁が、泉のように、噴水のように、ドバドバと溢れ出してきたのだ。
どろり、ジュワジュワッ!
溢れ出た肉汁が、皿の上の漆黒のデミグラスソースと激しく合流する。
黒いソースの海に、黄金色の肉汁が渦を巻き、瞬く間に混ざり合って、琥珀色の濃厚な乳化スープへと姿を変えていく。
肉の内部を見つめた結衣は、鳥肌が立つのを抑えられなかった。
断面の肉の粒の隙間に――牛乳を吸って透明になった車麩の微細な網目が、まるでゼリーのようにぷるぷると震えながら、肉汁を最後の一滴まで抱きしめて輝いていたのだ。
「……う、嘘だろ……」
源三の口から、掠れた呻きが漏れた。
「こんな……こんなに肉汁が……中に残ってたのかよ……!?」
「源さん、冷めないうちに……!」
結衣は箸で、肉汁をたっぷりと吸い込んだ一口大の肉片をすくい上げた。
デミグラスソースをたっぷりと絡め、大口を開けて放り込んだ。
ハフッ、ジュワッ!
「っ………………………………!!」
結衣の全身の細胞が、一瞬にして歓喜の絶叫を上げた。
噛み締めたのではない。
舌の上に乗せた瞬間、肉が、ホロホロと、まるで上質なテリーヌのように解けて消えていったのだ。
前歯を当てるたびに、牛モモ肉の極粗挽きの粒がプチプチと弾け、力強い赤身の旨味を爆発させる。
直後に、豚バラ肉の甘い脂と、飴色玉ねぎの深いコクが押し寄せる。
そして――何よりも衝撃的だったのは、車麩がもたらす「圧倒的なみずみずしさ」だった。
噛むほどに、麩のスポンジから閉じ込められていた熱い肉汁のスープがジュワッ、ジュワッと溢れ出し、口の中が極上のビーフシチューで満たされていくような錯覚に陥る。
パサつきなど、微塵もない。
脂っこいしつこさも、一切ない。
生の微塵切り玉ねぎのシャキッとした食感が絶妙な清涼感を与え、継ぎ足しデミグラスソースのほろ苦さが、肉の脂の甘みを大人の気品へと昇華させている。
「……んんんんっ!!」
結衣は両手で頬を押さえ、目を見開いたまま震えた。
「美味しい……! 美味しい、美味しい、美味しいっ!!」
声が裏返るほどの絶賛。
「信じられない……! こんなに柔らかいのに、肉を食べてる満足感が凄まじい! お麩が……お麩が肉汁を全部抱きしめて、舌の上でスープになって溶けていく……! デミグラスソースと肉汁が完全に一つになって、喉を滑り落ちていくわ!!」
源三もまた、震える手で箸を動かし、巨大な一口を口へ放り込んだ。
モグッ、ジュワッ。
「…………っ!!」
老職人の動きが、完全に凍結した。
目を見開き、咀嚼を続けながら、その節くれだった両手が激しく震え出す。
浅草で修業を始めてから五十年。
何万個ものハンバーグを焼き、何千人もの客に洋食を振る舞ってきた男が、いま、自らの作った一皿の前に、完全に打ちのめされていた。
「……これが……」
源三の喉が、引き攣るように鳴った。
「これが……俺の作った……ハンバーグなのかよ……!?」
源三は喉を鳴らして飲み干すと、空になった皿を見つめ、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「美味い……。美味すぎる……! 浅草の全盛期だって、こんな味は出せなかった……! 肉の旨味が……ソースのコクが……全部、この丸い塊の中に凝縮されてやがる……! あいつらの百二十円のパティなんざ……足元にも及びゃしねえよ……!!」
歓喜と、感動。
手作業の限界を嘲笑った巨大資本に対する、職人の技術と魂による、完全なる回答。
結衣の現代的なロジック(牛七豚三、玉ねぎの二段活用)と、源三の五十年におよぶ下町の知恵(車麩のつなぎ、継ぎ足しデミグラスの煮込み)が、奇跡のような調和で融合し、昭和の常識を覆す「究極の逸品」が産声を上げた瞬間だった。
「勝てるわ……」
結衣は涙を拭い、確信に満ちた声で言った。
「これなら、絶対に勝てる! 子供骗しの冷凍パティなんかに、私たちのハンバーグが負けるはずがない! 大人が嫉妬して、子供が一生忘れられなくなる、本物の洋食が完成したわ!」
「ああ!」
源三が力強く頷き、前掛けで顔の涙を拭った。
その瞳には、空席の日曜日に打ちひしがれていた老人の弱気など、欠片も残っていなかった。
だが――結衣のマーケターとしての脳裏には、次なる課題がすでに閃いていた。
「源さん。味は完璧です。サンライズを百倍上回っています」
「おう、文句なしの百点満点だ」
「でも……これだけじゃ、まだ足りません」
「なに……? まだ足りねえだと?」
結衣は立ち上がり、厨房の窓の外、夜明け前の空を見上げた。
「味で勝つのは、プロとして当たり前です。でも、今のファミリー層をサンライズから引き戻すには……『見た瞬間の衝撃』と『五感を揺さぶる体験』が必要です」
「たいけん……?」
「そうです。ファミレスのピカピカの店内とソファー席に対抗するための……キリシマ食堂にしかできない、劇場の舞台のような演出……!」
結衣の視線が、調理台の上の白磁の皿へと注がれた。
(普通の平皿じゃダメよ。もっと熱く、もっと激しく、音と香りで客席全体を支配するような……『最強の舞台装置』が必要だわ……!)
東の空が白み始め、初音銀座商店街に、新しい朝の光が差し込み始めていた。
究極の味を手に入れたキリシマ食堂の次なる一手――下町の町工場を巻き込んだ「前代未聞の食のエンターテインメント化」が、いま、幕を開けようとしていた。




