最終話 区役所勤めの魔王様
区役所の朝は、いつも通りに始まる。
自動ドアが開き、住民がロビーへ入ってくる。
掲示板の前で足を止める人。
番号札を取る人。
窓口では、書類を受け取る職員の声が続いている。
特別な日ではない。
ただ、ひとつだけ、少しだけ違うことがあった。
窓口の椅子に、新しい職員が座っていた。
いや、正確には——戻ってきた職員だ。
「今日から復職……でしたよね?」
隣の席に座る新人の職員が、硬い表情で小声に囁く。無理もない。新人の視線の先にいるのは、グレーのスーツを完璧に着こなし、彫刻のような横顔で端末を凝視する、圧倒的な威厳を放つ男だ。
「ああ。5年間の長期出向から、ようやく戻られたんだよ」
少し離れた席の先輩が、手慣れた手つきで書類を整理しながら答える。出向。その一言で済ませるには、あまりに壮絶な「現場」であったことを、この役所で知る者は数少ない。
ダルクは、指先ひとつ動かさずに画面を見つめていた。
網膜に映るのは、魔界の空に浮かぶ幾何学的な紋様ではなく、自治体専用ネットワークのログイン画面と、見慣れた申請書の入力フォームだ。
(……5年前と、インターフェースは変わっていないな)
ダルクは小さく息を吐き、キーボードに指を置いた。
魔力を練る必要はない。ただ、正確に、迅速に、人々の生活の保証を打ち出す。それが今の自分の責務だ。
「ダルクさん」
横から、弾むような声がした。
リィナだった。
書類の束を抱えている。
「これ、最新の業務マニュアル改訂版なのです! ダルクさんが不在の間に変わった運用箇所に全部付箋を貼っておいたので、時間がある時に目を通しておいてほしいのです」
「……うむ。手間をかけさせたな」
ダルクは受け取った冊子の厚みを確認する。そこには、魔界で彼が編纂したものと同じ、人々の混乱を防ぐための「知恵」が詰まっていた。リィナは窓口に座る彼の姿をじっと眺め、感慨深げに口元を緩めた。
「やっぱり、しっくりくるですね。その席」
「何がだ」
「いえ、何でもないのです。……おかえりなさい、ダルクさん」
ダルクは、わずかに眉を動かす。
その様子を、少し離れた席から佐藤が見ていた。
湯のみを持ったまま、穏やかに声をかける。
「感覚は戻りそうですか?」
ダルクは顔を上げ、佐藤と視線を合わせた。
かつて屋上で缶コーヒーを分かち合い、世界の救い方を語り合った男。魔王に「事務」という最強の武器を授けた師だ。
「何のだ?」
「窓口のですよ」
少しだけ沈黙があった。
それからダルクは、静かに答えた。
「……そうだな。5年も経つと多少は忘れてしまっていたが」
「でも、よかったんですか? 魔界では依然としてダルクさんを求める声はあったんですよね?」
佐藤は湯呑みの湯気を見つめながら、かつて自分が教えた「制度」によって救われた、あのはるか遠い異界に思いを馳せるように続けた。
「今のダルクさんなら、その制度を使って、今度こそ完璧な『魔王』として君臨することもできたと思いますが……。やはり、契約の存在が?」
区役所職員という名の「契約」。それが彼をこの場所に引き戻したのではないか。
佐藤の問いに、ダルクはキーボードを叩く手を止め、窓の外に広がる平凡な街並みを見つめた。
「いや、もう契約に縛られる我ではない」
ダルクは静かに、しかし断固とした声で答えた。
「魔界に制度を作り、皆が己の価値を自ら見出す姿をこの目で見てきた。あやつらが我に依存しなくなったのと同様に、我ももう契約に依存することをやめたのだ」
ダルクは、デスクに置かれた「地域交流イベントの企画書」を指先でなぞった。
かつては世界のシステムに「魔王」という役割を命じられ、契約の有無に大きく左右されていた男の瞳には、今や一人の「個」としての誇りが宿っている。
「この日常を回す歯車としての生き方。これは他でもない我自身で選んだ、我の在り方だ」
魔界の玉座よりも狭く、簡素な事務椅子。だが今のダルクにとって、ここが自分自身の意志で勝ち取った、最も価値ある「領地」だった。
「そうですか……。変わりましたね、ダルクさん」
佐藤は少しだけ驚いたように目を見開き、それから満足そうに微笑んだ。
「佐藤殿のせいだぞ。 貴殿が、我に己の価値を見出すきっかけをくれたのだ」
ダルクのわずかな笑みを含んだ答えに、佐藤は照れくさそうに頭をかき、再び自分の仕事に戻った。
数年前、魔界から現れた男。
その男は今、行政を回す歯車の一つになっていた。
「住民票の発行ですね……本籍や個人番号の表示は……不要で。
部数は2部でよろしいですか?」
にじみ出る威厳からは想像つかないほど、丁寧な対応。
特別な力は何も使わない。
世界を征服することもない。
ただ、制度に沿って書類を処理する。
それだけだ。
処理が終わり、また一人、礼を言って去っていく。
ダルクは一度だけ、ロビーを見渡した。
相変わらずの人混みだ。
職員が働き、住民が並び、番号を呼ぶ音声が流れる。
何も変わらない、退屈で、しかし尊い平和。
ダルクは、少しだけ誇らしげに、胸のプラスチックの名札を直した。
『区民課 ダルク』
その肩書きは、かつてのどの称号よりも重く、彼をこの大地に繋ぎ止めていた。
何も変わらない、いつもどおりの日常。
ダルクは、電子呼び出し機を操作する。
「次の方、どうぞ」
その声は、かつてのどの魔王の咆哮よりも、自由と誇りに満ちていた。
ここまでご愛読いただき、ありがとうございました!
これにて、『区役所勤めの魔王様』本編完結です!
明日もう1話、エピローグを公開して一旦は完結とします。アフターストーリー的に書きたい話もあるので、しれっとまた再開します




