第51話 魔王様、出立
出発の朝、区役所の地下にある特殊搬送室は、異様な緊張感と、それ以上の温かな熱気に包まれていた。
中央に鎮座するのは、アイゼンが帰還した際にも使用された転移装置だ。三度の往来によって強まった世界の繋がりを利用した、現時点における両世界を繋ぐ唯一の架け橋である。
ダルクは佐藤から譲り受けた頑丈なビジネスバッグを肩にかけ、背筋を伸ばしてそこに立っていた。
内ポケットには佐藤が人事部と掛け合って勝ち取った「辞令書」が収められ、胸にはいつもの名札が真っ直ぐに着用されている。
その隣には、あの日、自ら「勇者」としての道を選んだアルヴィスの姿があった。彼は職員としての身分を捨て、一人の勇者として、魔王の再建を見届ける観測者の眼差しを湛えている。
「ダルクさん、準備はいいですか?」
佐藤の声は、いつも通り落ち着いていた。しかし、装置のコンソールを操作するその指先には、一ヶ月間共に戦った同志を送り出す重みがこもっているように見えた。
「……ああ。万事、整っている。佐藤殿、貴殿から授かった知恵、そしてこの一ヶ月で得た全てを、あの大地に刻んでくるつもりだ」
ダルクがそう答えると、見送りに集まった職員たちが歩み寄ってきた。
環境課からは、魔界の過酷な環境に耐えうる特注のバインダー。道路管理課からは、精密な測量用メジャーとレーザー距離計。税務課、都市整備課、戸籍住民課……。各課の職員たちが、それぞれの「実務の武器」をダルクに託していく。それは、一ヶ月間なりふり構わず頭を下げて回ったダルクが、この組織の一員として完全に認められた証であった。
「かたじけない。……皆から託されたこれらの重み、生涯忘れはせぬ」
ダルクはそれらを一つずつ、誇らしげにバッグへ収めていく。バッグは物理的な重量を増していくが、その重さこそが、今のダルクにとっての「存在の輪郭」そのものだった。
「……さて、そろそろ時間ですね。転移装置、シーケンス最終段階です」
佐藤が静かに告げると、装置から淡い光が溢れ出した。
勇者アルヴィスが、一歩前に出る。
「魔王ダルク。……貴殿のこれまでの行動を観測する限り、貴殿が再び世界を破壊する確率は、限りなくゼロに近い。……故に、私は『討伐者』ではなく、秩序の『観測者』として、貴殿の後に続こう」
勇者の言葉を受け、ダルクは一度だけ、眩しそうに地下室の天井――その上にある、慌ただしくも愛おしい区役所の庁舎を見上げた。窓口を破壊し、無契約者という事実に絶望していた自分に、文字通り役割を与え、繋ぎ止めてくれた場所。
「佐藤殿。一つだけ、約束をしてほしい」
「なんですか?」
「我が魔界に、誰もが平等に『役割』を持ち、誰一人として理不尽に霧散せぬ世を築いた暁には……必ず、この役所の視察団を受け入れてもらう。その時、我は胸を張って案内したい。『これこそが、我が師から受け継いだ行政である』とな」
佐藤は少し驚いたように目を見開き、それから今日一番の、晴れやかな笑みを浮かべた。
「ええ、楽しみにしていますよ。その時は旅費精算書、ちゃんと用意しておいてくださいね」
「ふ……。相変わらずだな」
ダルクは短く笑うと、アルヴィスと共に光の中へと足を踏み入れた。
背後から職員たちの声が聞こえる。「頑張ってください!」「いってらっしゃい!」
それは、魔王に向けられた万歳三唱ではなく、仲間を送り出す、温かな激励の唱和だった。
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光が収まり、完全な沈黙が魔界を包む。
降り立ったのは、かつて自分が君臨した玉座の間。そこには、飢えと絶望に瞳を濁らせた魔族たちが、力なく地面に座り込んでいる。
「……ま、魔王様?」
一人の魔族が、震える声で呟いた。その声は瞬く間に伝播する。
「魔王ダルク様だ!」「戻ってこられたのか!?」
魔族たちが、縋るような思いで駆け寄ってくる。しかし、彼らは数歩手前で足を止めた。
戻ってきた王は、かつての禍々しい漆黒の鎧を纏ってはいなかった。見たこともない仕立ての黒い服に、胸元には奇妙な白い板(名札)が光っている。魔力もかつてのように溢れてはいない。だが、その佇まいは、以前の暴虐なまでの威圧感とは異なる、静かで揺るぎない「芯」を感じさせた。
「ダルク様、そのお姿は一体……? 」
「我らを、再び我らを導いてくださるのですよね!?」
混乱し、問いかける民たち。彼らが求めているのは、再び自分たちを絶対的な王として統治してくれるダルクだ。
それを見て、ダルクはゆっくりと、胸の名札を指先で整えた。
そして、傍らにあった平らな巨岩を「窓口のカウンター」に見立て、背後に「受付」と墨で書いた旗を立てた。足元には、昨日バッグに詰め込んだ、あの付箋だらけのメモ帳がある。
「……皆、静かに。本日から魔界へ出向してきた、区役所職員のダルクだ。かつての魔王はもういない。これからは、制度と仕組みによって、この世界を再建する」
呆然とする魔族たちを前に、ダルクは一人の震える老婆の前に腰を下ろした。
「まずは、君の『困りごと』から聞かせてもらおうか。……ここは窓口だ。どんな些細なことでも構わぬ」
魔王の威圧感はない。しかし、佐藤との特訓で積み上げた数冊のメモ帳を傍らに置いたその声には、どんな魔法よりも揺るぎない、新しい秩序の意志が宿っていた。
地獄の再建、その最初の一歩となる「受付」が、王都の廃墟に設置された瞬間であった。
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