第5話 魔王様 vs 禁呪の書(マニュアル)
少し短めです。
佐藤が机の上に置いたマニュアルは、
思っていた以上に、重かった。
物理的にも、精神的にも。
表紙には、簡素な文字でこう書かれている。
『○☓区役所 業務マニュアル(改訂第十三版)』
「……佐藤殿」
ダルクは、その表紙をじっと見つめたまま動かない。
「この分厚さ、明らかに一人を対象としておらぬな」
「はい。区民課全体向けです」
「全体向け……?」
ダルクは首をかしげる。
「ここには区民課しかないということか?
我が魔王軍には近衛や暗部といったように組織を分けておったが」
「いえ、区役所も部署はたくさんありますよ」
「ならば——」
「ただ、このマニュアルは
“誰が読んでも困らないように”書かれてます」
「……誰が、とは?」
「区役所に勤める全員です」
「……理解した」
そして、ページをめくったダルクが眉をひそめる。
「なぜ同じことを三通りで書いておる…?」
「あー……それはですね」
佐藤は、特に悩む様子もなく答えた。
「想定する立場が違うからです」
「例えば、同じ手続きでも
窓口対応用、内部処理用、緊急時対応用で
書き方が変わるんです」
「……同じ内容を?」
「はい。同じ内容を、です」
佐藤はそう言って、マニュアル内の一節を指で叩いた。
「で、だいたいこういうのが付きます」
※注釈
※場合により異なる
※別紙参照
※条例第◯条
「……」
ダルクの視線が、ゆっくりと上から下へ落ちていく。
「佐藤殿」
「はい」
「これは、逃げ道か?」
「違います。リスク回避です」
「同義ではないのか」
「違いますね」
佐藤は続けて、何でもないことのように言った。
「しかもですね。
この“場合により異なる”が、どの場合なのかは——」
「……書かれておらぬな」
「はい。現場判断です」
「なるほど……もはや禁呪の域だな」
ダルクは腕を組んだ。
「つまりこれは、読めば答えがわかる書ではなく」
「読んでから、人に聞くための書ですね」
ダルクは、静かにマニュアルを閉じた。
「これは戦だな」
「はい。それもかなりの長期戦です」
「だが——
これを全て把握すれば、実務は問題あるまい」
魔王は折れない。
その姿を見て佐藤はーー
ーー目を逸らした。
「……いえ」
「?」
「たしかに、このマニュアルを網羅すればある程度実務は問題ないです。」
「で、あろう?」
「ただですね、ここをみてください」
そう言って佐藤はマニュアルの最終ページを開いた。
「……これはなんだ」
「改訂履歴。このマニュアルが修正されてきた履歴です。この頻度で改訂が発生しているんです」
「つまり、すべてを完璧に記憶しても……」
「いつかは変わる日が来るかもしれない、ということです」
魔王がちょっと遠い目になった。
追い打ちをかけるように、佐藤は続ける。
「あとですね、実際の業務は、このマニュアルどおりには進みません」
「なぜだ」
「区民の方は、このマニュアルの内容なんてわかり得ないからです」
ダルクは、ゆっくりと目を閉じ、息を吐いた。
「——なるほど」
それは、今日一番重い一言だった。
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