第49話 魔王様と恩人
<ダルク視点>
区長室の重厚な扉が閉まり、佐藤殿と勇者の足音が廊下に消えていく。
残された我は、革張りの椅子に深く腰掛け直した。手元にある一枚の紙――「魔界出向」と記された辞令書が、室内の照明を反射して白く光っている。
我にとって、契約とは生存の定義そのものだ。
物心つく前、世界そのものと「王」としての契約を結んだことで、我はこの世界に存在することを許された。契約とは即ち「役割」であり、役割を持つ者だけがこの世界に足跡を刻むことができる。かつての魔王という契約も、今の区役所職員という雇用契約も、我にとっては等しく、絶対的な「存在証明」であった。
ゆえに、この世界に迷い込み、魔王としての契約を失った我を今この場に繋ぎ止めているのは、この名札の裏にある雇用契約のみだ。アイゼンの言葉を聞いてから我を蝕んでいたのは、魔界への帰還によってその唯一の契約が断たれ、我という存在が何者でもない「無」へと還ってしまうことへの恐怖だった。
しかし、この辞令書が、その消滅の理をねじ伏せている。
「……さて、ダルクさん。改めてお話ししましょう」
区長が眼鏡を外し、デスクに置いた。その瞳には、一組織の長としての深い洞察が宿っている。
「この辞令、実はね……佐藤くんが、文字通り体を張って人事部と掛け合ってくれたものなんですよ。彼からは『本人の耳には入れないでくれ』と強く口止めされていたのですがね。……教育係としての彼の顔を潰すことにはなりますが、それでも、君だけは知っておくべきだと思った」
胸の奥が、重く跳ねた。
「佐藤殿が、だと……?」
「ええ。数日前、彼は私のところへやってきました。彼は、君がアイゼンという人物の報告を受けてから、深い絶望に苛まれていることを見抜いていました。……君が恐れているのは、死ではない。今、君をこの世界に繋ぎ止めている唯一の役割――『契約』が切れてしまうことだ、とね。彼は、君にとっての契約が、どんな種類のものであれ絶対的な存在証明であることを、私に説いたんです」
確かに、我は生活保護の事件の後、佐藤殿に語った。我にとって契約がいかに世界との繋がりそのものであるかを。
彼は、その言葉を、一文字も零さず己の魂に刻んでいたのだろうか。
「佐藤くんは私にこう提言したんです。『ダルクさんは、役所との契約が切れることを、自分が消えてしまうことだと考えています。それなら、あちらへ行っても契約が継続するようにすればいい。彼を魔王としてではなく、我が区役所の職員として送り出す。そうすれば、彼は魔界にいても、我々の絶対的な雇用契約の下にあり続ける。それは彼にとって、自らの存在を維持するための不変の証明になるはずです』とね」
……言葉が出なかった。
佐藤殿は、我の「契約=存在」という生命哲学を完全に理解した上で、この世界の「行政」という仕組みを使い、魔界という断絶の地までその契約を持ち込めるように計らってみせたのだ。
「無茶苦茶な話です。前例もなければ、管轄の問題もある。人事部は鼻で笑いましたよ。ですが、佐藤くんは一歩も引きませんでした。彼は一晩で、君を『職員』として送り出すための論理を詰め込んだ、分厚い報告書を書き上げたんです。……彼は言っていましたよ。『ダルクさんの役割を、今ここで途絶えさせてはいけないんです。彼には、”杉並区職員”という契約を持ったまま、魔界を書き換えてもらう必要があります』とね」
喉の奥が、焼けるように熱い。
あの日、屋上で我が見せた無様な震え。何者でもなくなることを恐れ、空の缶コーヒーを握りしめていた我の姿。
佐藤殿はそれを救うために、己の戦場である「組織」の理屈を捻じ曲げ、この世界の「契約」という盾を我に授けてくれたのだ。
この辞令書がある限り、我は魔界においても「無契約者」として霧散することはない。
かつての世界との契約は失われたままでも、我はこの組織と契約し、役割を与えられ続けている。その事実こそが、今、何よりも心強い鎧となって我の魂を包んでいる。
「ダルクさん。君はもう、孤独な王ではない。君の契約は我々が保証する。君が何者であるかは、この役所が、そして佐藤くんが証明し続ける」
「……承知した」
我は立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
跪く家臣を従えていた頃には決して分からなかった、役割を与えられ、契約に応える一人の「職員」としての誇り。
区長室を出ると、廊下の壁に背を預けた佐藤殿が、手帳を眺めていた。
我の気配に気づくと、彼はいつも通り、どこか飄々とした事務的な笑みを浮かべた。
「ダルクさん。区長から何か言われましたか?」
その涼しい顔の裏に、どれほどの不眠不休の苦労を隠しているのか。
この男は、我という綻びを埋めるために、自らが綻びるほどに動いてくれたのだ。
それをおくびにも出さず、ただの「教育係」としてそこに立っている。
「……いや。ただ、我がこの一ヶ月で学ぶべきことは、山積みのようだと悟っただけだ」
感謝の言葉を口にすれば、彼の計らいを無にしてしまう。故に、心の中に留める。
我は佐藤殿のやや後ろを、力強い足取りで歩き始めた。胸の名札には、相変わらず安っぽい書体で我が名が記されている。だが、それが今は、かつてのどんな王の真名よりも眩しく、強固な「存在の証」に見えていた。
「佐藤殿。早速だが、魔界における行政組織の土台作りについて、まずはマニュアルを一通りさらいたい」
「そうですねぇ、まずはそこからですね。……さあ、一ヶ月、死ぬ気で覚えてもらいますからね?」
佐藤殿の軽妙な声が、夕暮れの廊下に響く。
彼の計らいには、結果で答える。
――前を歩く恩人の大きな背中を前に、改めて覚悟を決めた。
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