第47話 魔王様と教育係
閉庁時間を過ぎ、窓口を照らしていた蛍光灯がいくつか落とされた区民課のフロア。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったその場所で、佐藤は最後の一枚の書類を整理し終えると、大きく伸びをした。
「佐藤さん、お疲れ様です。……ダルクさん、まだ休憩室にいますよ。
リィナさんがずっとお菓子を勧めてたみたいですけど、結局一口も食べずにずっと窓の外を見てるって」
同じ課の職員が、帰り際に心配そうに声をかけてくる。佐藤は苦笑いしながら「ありがとうございます、僕が行ってきます」と答え、休憩室へと向かう。
しかし、予想通りダルクはそこにはいなかった。休憩室で缶コーヒーを2つ買った佐藤はそのまま迷わず屋上へと向かう。
ダルクという男の性格上、リィナの親切を無下にすることはないだろうが、今の彼が求めているのは甘い菓子ではなく、誰の目にも触れない「静寂」だと確信していた。
重い鉄扉を開けると、そこには案の定、広々とした屋上の真ん中のベンチに深く座り、沈みゆく夕日を眺めている大男の背中があった。
「……黄昏ていますね、ダルクさん」
佐藤は足音を隠さずに近づいた。
ダルクは振り返らなかったが、その耳が僅かに動く。
「……佐藤殿か。今日は、すまなかった。
いや、今日だけではない。ここ最近の我は職員としての責務を全うしていない」
「年中通してミスのない人なんていませんよ。いつだって助け合いですよ。
それよりこれ。体冷えてるでしょう?」
佐藤はダルクの隣に座り、缶コーヒーを手渡した。
ダルクは暫くそれを黙って見つめていたが、やがて大きな手で包み込むように掴み、ゆっくりとプルタブを引き抜いた。
鋭い金属音が、夕闇が迫る屋上に響く。
「……佐藤殿。今日の我は、あろうことかこの街の住民票に『魔王城』と記した。アイゼンの言葉が、これほどまで我が指先を狂わせるとはな」
ダルクの自嘲するような言葉に、佐藤は小さく首を振った。
「そのミス自体は、単なる入力ミスです。私だって新人の頃は、前の職場の癖で変な単語を打ち込んだりしましたよ。……でも、ダルクさんがショックを受けているのは、そこじゃないですよね」
佐藤は夕日に目を細めながら続けた。
「今日のミスを修正している時、思ったんです。ダルクさんは今まで、すべての決定を自分一人でやってきた。だから、あなたが揺れると、魔界という国ごと揺れてしまった。……でも、この役所はどうですか?」
「……どういう意味だ」
「あなたが今日ミスをしても、私がそれを直しました。私が病気で休んでも、他の職員が窓口に立てます。誰か特定の『個』に頼り切らず、淡々と住民の生活を守り続ける。それが私たちの仕事の強みなんです」
ダルクはコーヒーを飲む手を止め、佐藤の横顔を見た。
「個の強さではなく、組織としての継続性……。それは、アイゼンの言っていたこの意思の欠落につながらないのか」
佐藤は缶コーヒーを一口飲み、少し考えてから空を仰いだ。
「どうでしょうね。でも、役所っていう組織は『誰が欠けても回るように作る』のが正義なんですよ。マニュアルがあって、前例があって、誰が座っても同じサービスが提供できる。それが、僕らが目指す究極の形なんです
そして、その仕組みを少しずつ良くしたり、マニュアルにない困りごとに対応するにはどうしたらいいのか、それを個々人が考えています」
「改善、と運用か」
ダルクは力なくつぶやく。
佐藤はそんなダルクの目を見据えて言った。
「そうです。ダルクさんが魔界でやってきたことは、確かに一時期の繁栄をもたらしたんでしょう。でも、それは『ダルクさんという天才』に依存しただけの、危ういバランスだった。……アイゼンさんが言っていた停滞は、あなたが最強すぎたからこそ起きた副作用ですよ。あなたがいない時間を誰も想定していなかった」
「……我がいなくても、世界が回るようにする。王としては、敗北を認めるようなものだな」
ダルクは苦笑したが、その瞳からは先ほどまでの暗い混濁が消え始めていた。
「対象の脳波、および精神安定度を計測。……魔王ダルク。貴殿のこれまでの統治は、システムの冗長性を排除しすぎた、独裁的最適化の末路と定義される。……だが、その欠陥を理解できたのであれば、次なるフェーズへの移行が可能だ」
背後の影から、アルヴィスが音もなく現れた。
「勇者……貴様、いつからそこに」
「最初から。秩序の観測において、対象の不安定さは重要な記録項目だ。……佐藤の言う通り、貴殿は私にとって単一の障害点として機能しすぎていた。個としての貴殿がどれほど強大であろうと、それが欠けた瞬間に瓦解するシステムは、論理的に見て『脆弱』である」
「……脆弱、か。絶対者として君臨してきた我に、これほど相応しくない言葉もないな。だが……不思議と、腹は立たぬ。佐藤殿の言う通り、我一人で何もかもを決めねばならぬという呪縛から、少しだけ解放された気分だ」
ダルクは冷めかけたコーヒーを飲み干し、缶を掴む手に力を込めた。
「我はまだ、この名札を外す勇気はない。無契約者になるかも知れない恐怖も、依然として我の奥底に巣食っている。……だが、いつかは答えを出さなければならない。魔界のためにも、区役所のためにも」
「ええ。そしてダルクさんのためにも、ですよ」
佐藤がそう言って立ち上がると、それに続くようにダルクも立ち上がり、屋上を後にする。
その足取りには、先ほどまでの重苦しい沈滞はない。
冷たい夜風が吹き抜ける中、街の灯りが一つ、また一つと点り始める。
それは、誰か一人の英雄がいなくとも、何千、何万という人々の営みによって淡々と、しかし確実に刻まれ続ける、この世界の「秩序」そのものの輝きだった。
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