第46話 魔王様と綻び
アイゼンが去ってから三日が過ぎた。
正面玄関の自動ドアは、もはや見慣れた光景となったブルーシートで覆われ、「故障中」の張り紙が虚しく揺れている。区役所の日常は、壊れた設備という「非日常」を強引に呑み込んだまま、何事もなかったかのように動き出していた。
だが、今では区民課の窓口の顔になりつつあった男の様子は、明らかに平時とは異なっていた。
「……次の方、どうぞ」
窓口に座るダルクの声は、いつも通り低く、威厳に満ちている。
しかし、その隣で書類を整理していた佐藤は、朝から続く微かな違和感に頭を悩ませていた。
ダルクの視線が、時折、焦点の合わない虚空を彷徨っているのだ。まるで、ここではないどこか遠くの悲鳴を聞いているかのように。
『魔界は今、緩やかな虚無に飲み込まれようとしている』
あの日、アイゼンが吐き出した絶望の報告。それが呪いのようにダルクの指先に絡みついていた。
「あの、すみません。これ、住所が間違っているみたいなんですけど」
窓口にいた初老の男性が、困惑した顔で住民票の写しを差し出した。
佐藤が横から覗き込むと、そこにはあろうことか「魔王城・謁見の間」という、この世界の地図には存在しない地名が印字されていた。
「あ……申し訳、ございません。すぐに修正いたします」
ダルクの背筋が、一瞬で強張る。
あり得ないミスだ。システムへの入力時、無意識に「故郷」の残像をキーボードに叩きつけてしまったのだろう。
佐藤はさりげなくダルクの肩を叩き、端末の前に割り込んだ。手早く男性に謝罪し、流れるような手つきで正しい書類を再発行して手渡す。
「すみません、新人の教育中でして。……こちら、お待たせいたしました」
男性が苦笑いしながら去っていくのを見届け、佐藤は小声で語りかけた。
「ダルクさん。今日だけで六回目ですよ。入力ミスに、書類の取り違え。……少し、奥で休みませんか」
「……すまぬ、佐藤殿。どうも、集中が欠けているようだ。次は、間違えぬ」
ダルクはそう答えたが、その表情は固い。
かつての魔王であれば、このような精神的動揺など一瞥でねじ伏せていただろう。だが、今の彼はそれができる精神状態じゃなかった。
そして、負の連鎖は止まらなかった。
一時間後、電話応対に出ていたダルクの口から、信じられない言葉が漏れた。
「……左様。印鑑登録の廃止については、本人が直接来庁し……然もなくば、その魂に刻まれた契約の残滓を……否、失敬。委任状が必要となる。……いや、生贄は不要だ。……もしもし?」
電話の向こうの住民が恐怖に凍りついたのは言うまでもない。佐藤は慌てて電話を代わり、「専門用語が多くて混乱したようです」と苦しい釈明に追われた。
さらに、背後の事務スペースでも異変は起きていた。
いつもは完璧なファイリングを行うダルクが、転出届の束を「重要度順」ではなく、なぜか「戦闘力順(強そうな名前順)」に仕分け始めているのを他の職員が見つけ、フロアがざわつき始めた。
「ねえ、ダルクさん今日どうしちゃったの? 完璧超人だと思ってたのに」
「アイゼンさんっていう、あの怖い知り合いが来てから様子がおかしいよね……」
同僚たちの囁き声が、ダルクの耳に届かないはずがない。
彼はますます表情を険しくし、自らを律しようとペンを握る手に力を込めた。その様子は、まるで崩れゆく城をたった一人で支える孤高の王のようでもあり、同時に、限界を迎えた一人の労働者のようでもあった。
「……対象。心拍数、血圧、および発汗量から判断。精神的ストレスが業務遂行能力を著しく低下させている。
……この状態での稼働継続は、組織全体の効率を阻害するノイズと定義される」
いつの間にか背後に立っていたアルヴィスが、容赦のない事実を突きつける。
「貴殿の現状は、秩序の守護者として放置できない。このままでは区民課の業務ミス発生率は前日比300パーセントに達する。魔王ダルク、貴殿は今、この組織における最大の『脆弱性』となっている」
「……分かっている。分かっているのだ、勇者」
ダルクは自嘲気味に笑い、胸の名札を指でなぞった。
「佐藤殿。我は……」
「ダルクさん。今日はもう、あがってください。これは教育係としての指示です」
佐藤の言葉は、拒絶ではなく、静かな配慮だった。
彼はダルクの震える手からペンを取り上げ、その目を見据えた。
「残りの処理は僕がやっておきます。……今のあなたには、自分のことを見つめ直す時間が必要です。
リィナさん、悪いけどダルクさんを裏の休憩室まで連れて行ってあげて」
「了解なのです! ダルクさん、今日はもう『お仕事モード』は終了なのです。甘いものでも食べるのです!」
いつもはダルクに圧倒されているリィナが、今日ばかりは強引に彼の背中を押した。
ダルクは力なく立ち上がり、一度だけ振り返って佐藤を見た。その瞳には、自分の「完璧」が崩れ去ったことへの困惑と、佐藤への申し訳なさが入り混じっていた。
ダルクが去った後の席に座り、佐藤は残された書類の山を見つめた。
完璧な指導者がいなくなった途端に崩壊する組織。
佐藤は、ダルクが犯した「魔王城」という誤入力を静かに修正しながら、ふと思った。
彼がかつて魔界で築いたという秩序は、もしかしたら、今のダルクが縋っているこの「名札」と同じくらい、脆いものだったのかもしれない。
佐藤はキーボードを叩く音を響かせながら、丁寧に誤入力を正していった。
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