第44話 魔王様と故郷の現状
<ダルク視点>
第三会議室の空気は、澱んだ魔力のように重苦しかった。
目の前では、かつての右腕が安っぽいパイプ椅子を軋ませ、絶望に顔を歪めている。
「……信じられん。……到底、信じられませぬッ!」
アイゼンの咆哮が、防音の甘い壁を震わせる。彼の視線が、我の胸元にある「区民課 ダルク」の名札を射抜いた。
「魔王ダルク様……! 貴方様は、かつて一瞥で一国を平らげた魔界の絶対者! その貴方様が、なぜこのような……名もなき下等生物に頭を下げ、あまつさえ『申請書』などという紙切れの束を捌いておられるのですか!」
「……声が大きいぞ、アイゼン。それに、佐藤殿は下等生物ではない。
我がこの世界で生きていく術を教えた、恩人だ」
努めて冷静な口調を維持しようと試みた。
だが、心の奥底では、アイゼンの言葉が鋭い刃となって日常を切り裂いていた。
「……対象、感情の昂ぶりが臨界点。第三会議室の備品損壊確率、八十パーセントと推測」
傍らの壁に背を預けたアルヴィスが、事務的な警告を口にする。
それを手で制し、アイゼンを正面から見据えた。
「アイゼンよ。我がこの地へ落ちて、はや数ヶ月。魔界はどうなった。
……我はもう王紋を失った。あちらの世界には、すでに新たな王が君臨しているはずだろう」
魔界の掟は単純だ。世界が魔王を定め、契約した魔王が世界を統べる。
我という被契約者が消えたのであれば、次なる資格者が玉座に座り、世界を動かしているはずだ。
……そう信じることで、この「区民課職員」としての生活を自分に許してきたのだ。
「……出ぬのです」
アイゼンが、大きな拳を震わせながら絞り出した。
「出ぬ? 何がだ」
「次なる魔王です! 貴方様が消えたあの日から、魔界の時計は止まったままなのだ!」
アイゼンが弾かれたように顔を上げた。その瞳には、かつての猛将の面影はなく、ただ深い混濁とした絶望だけが張り付いていた。
「内乱すら起きぬ。誰も、次の王になろうとせぬ。いや、そもそも資格者がいない可能性だってある……
魔族たちは皆、貴方様がこなしていた施政という重圧を恐れ、ただ日々のルーチンを繰り返すだけの肉の塊に成り下がった! 魔界は今、緩やかな『虚無』に飲み込まれようとしている!」
アイゼンの言葉が、思考を真っ白に染めた。
活気に満ちていたはずの魔界が、ただ主を失っただけで腐敗している?
「……馬鹿な。我は世界との契約を失ったのだぞ? なぜ次の魔王は現れない……?」
「……摂理など、とっくに壊れていたのです。……王よ、貴方様はあまりにも完璧に、そして長く君臨しすぎたのです。
今の魔界では過去の魔王なんて忘れ去られている。皆、貴方様が指標となっているのです」
あまりにも完璧に。その一言が、心臓を直撃した。
「貴方様が思考し、決断してくださったおかげで、魔界は栄えた。その一方で貴方様に依存しすぎた結果、『考える』という能力を喪失した。私もその一人です。
……今や魔界の城では、一兵卒の食事の献立すら決まらず、誰もがただ『前例』を求めて彷徨っている。
……あれは、地獄です。争いさえない、静かな、腐った地獄なのです!」
(……ああ、そうか)
我がかつて魔界で築いた「秩序」は、名ばかりのものだったのだ。
すべての「決断」を背負い、部下たちの思考を奪い、「依存」を強めていただけだった。
彼らを、ただの「命令待ちの装置」に変えてしまったのは、他ならぬ我自身だったのだ。
「……解。決定者の不在による崩壊ではなく、思考の放棄による停滞か。
……魔王ダルク。貴殿の統治は、結果として世界を去勢したに等しい」
「……少し黙れ」
アルヴィスの冷徹な分析が、追い打ちをかけるように耳に届く。
自分の左胸を強く握りしめた。そこにあるのは、魔力に満ちた王の紋章ではない。安っぽいプラスチックの名札だ。
アイゼンは椅子から滑り落ち、足元に縋り付いた。
「ダルク様、戻りましょう。この、名札などという呪いの品を捨て、どうか!
貴方様がいなければ、魔界は死にます!」
アイゼンの叫びが、狭い会議室を埋め尽くす。
……戻らねばならない。だが、思考を放棄した魔族たちを、今の我が救えるのか?
それに今の我は区役所の職員としての契約で自己を保っている。果たして元に戻ったとして、我は何者になる?
その時、ドアが控えめにノックされた。
張り詰めた空気を切り裂くように、佐藤殿が静かに入ってくる。その手にはお盆に乗った三つの湯呑み。
「……すみません、失礼します。少し、熱いお茶でも飲んで落ち着きませんか」
佐藤殿は、アイゼンの絶望も、我の動揺も、すべてを包み込むような落ち着いた所作で、一人一人の前に茶を置いた。
アイゼンの鼻先に立ち上る湯気が、僅かに彼の殺気を削ぐ。
「……き、貴様……」
「アイゼンさん。大変な状況なのは、今の叫び声でなんとなく分かりました。
でも、混乱の中で出した答えは、大抵あとで後悔しますよ」
佐藤殿はアイゼンを諭すように言ったあと、我の方を向き、すっと一枚の書類を差し出した。
「ダルクさん。……今は、これを書くことだけに集中してください」
それは、先ほど壊れた自動ドアの『始末書』だった。
「全く、貴方と貴方のお知り合いだけで3回目ですよ。自動ドア壊したの。
代わりにこっぴどく叱られてきたんで……まずは、目の前のやるべきことを片付けてください。ね?」
佐藤殿の言葉は、酷く現実的で、それでいて慈悲深かった。
大きな決断に押し潰されそうになっていた我に、彼はあえて「小さな義務」という避難所を与えてくれた。
震える手でボールペンを握る。
魔界の滅亡という巨大な命題と、始末書の一行目。
そのあまりにも理不尽な天秤の揺れを、佐藤殿の置いた茶の香りが、静かに繋ぎ止めていた。
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