第42話 魔王様と屋上の風
秋の日は釣瓶落としというが、閉庁時間が近づくにつれ、区役所の窓口フロアには夕闇が濃く溜まり始めていた。
だが、その薄暗さの中でも、窓口の背後に座るアルヴィスの存在感だけは、発光する精密機械のように際立っていた。
「……不可解。極めて非論理的な事象が発生している。理解不能」
アルヴィスの口から、今日何度目か分からない呟きが漏れる。
彼の目の前には、一通の陳情書と、数時間にわたって窓口で繰り広げられた「近隣トラブル」の記録があった。
内容は、ゴミ出しのルールを巡る住民同士の諍いだ。
一方は「ルールが細かすぎて守れない」と主張し、もう一方は「ルールを破る者は排除すべきだ」と憤っている。
アルヴィスにとって、この問題は処理不能の猛毒だった。
どちらかが明確な「悪」であれば、彼は迷わず排除を宣言できただろう。しかし、ここにあるのは「どちらも少しずつ正しく、どちらも少しずつ身勝手」という、泥のような現実だ。
「アルヴィスさん、大丈夫? さっきから一文字も手帳が進んでないけど……」
佐藤が心配そうに声をかける。アルヴィスは顔を上げ、焦点の定まらない瞳で佐藤を見つめた。
「佐藤。この『事案』における、秩序の正解を提示せよ。どちらを排除すれば、このフロアの平穏は担保されるのだ。明確な定義がなければ、私のプログラムは次工程へ移行できない」
「あはは……。排除なんて物騒なことしちゃダメですよ。正解がないから、ダルクさんがああやって『妥協点』を探してるんじゃないですか」
佐藤の視線の先では、ダルクが窓口の向こう側で、疲れ果てた表情の住民を相手に、淡々と、しかし粘り強く話を続けていた。
「いいですか。ルールを厳格化すれば貴殿が苦しみ、緩和すれば街が汚れる。ならば、収集日を増やすのではなく、ネットの形状を変えるのはどうでしょう? これは『仕組み』の変更だ。貴殿らの善悪を裁くものではないです」
ダルクの提案は、絶対的な勝利でも敗北でもない、薄暗い和解だった。だが、それによって住民たちは毒気を抜かれたように、肩を落として帰路についた。
その光景を見届けたアルヴィスは、椅子に座ったまま、まるで電源を切られたかのように動かなくなった。
一時間後。
閉庁後の静まり返った屋上に、ダルクはいた。自販機で買った缶コーヒーを啜りながら、フェンスに背を預けている。
そこへ、幽霊のような足取りでアルヴィスが現れた。
「……ダルク=ゼルグ。貴殿はなぜ、あのような『曖昧な処理』で納得できるのだ」
アルヴィスの声は、ひどく掠れていた。そのスーツ姿は相変わらず端正だが、内側にある「勇者」という柱が、根本から揺らいでいるように見えた。
「納得などしておらん。我とて、一撃で全てを平らげられたらどれほど楽かと思うことはある。
……だが、勇者よ。貴様は何に絶望している? 秩序が守られたのに、なぜ死にそうな顔をしているのだ」
「……私は、悪を討ち、秩序を維持することが至上命題だ。だが、この世界には、討つべき『決定的な悪』が存在しない。正しさが霧散し、誰もが少しずつノイズを孕んでいる。
私は、何を基準に正義を振ればいい? 目的を喪失した装置に、存在価値はあるのか」
アルヴィスは自らの掌を見つめた。そこにあるのは、かつて聖剣を握っていた、淀みのない白皙の手だ。
だが今、その手は虚空を掴むことすらできずに震えている。
「ふん。ようやく気づいたか。所詮貴様は、我を殺せばすべてが解決すると教え込まれた、出来損ないの人形なのだ」
ダルクの言葉に、アルヴィスは反論しなかった。ただ、痛ましいほどの空虚が、彼の瞳に広がっていく。
「我がこの世界に来たばかりの頃も同じだった。王紋を失い、魔力を失い、かつての配下たちもいない。
我はただの『無』になった。
役目を失ったただのダルクだと、自身で認識してしまった時、我は自らの存在理由を定義できずにフリーズした。貴様と同じだ」
ダルクは缶コーヒーを置き、胸元を指差した。そこには、少し斜めになった「区民課:ダルク」の名札がある。
「だが、佐藤殿が、区長が、そしてリィナ殿が……我に『区民課職員のダルク』という新たな定義を与えた。それは天から降ってきたものではない。
我があの日、職員としての生き方を取ったときに、我が自ら選び取った『役割』だ」
「選ぶ? 役割は、世界との契約によって与えられるものではないのか」
「この世界は違う。誰も貴様に、勇者であれとは強制しておらん。区長も、ただ『監視しろ』と言っただけだ。
……ならば、その監視の果てに何を見るか、何を守るかは、貴様自身が決めればいい。
勇者としてではなく、アルヴィスという一個の人間としてな」
アルヴィスは言葉を失い、夜風に吹かれながら立ち尽くした。
彼の中にあった「絶対的な秩序」という名のプログラムが、初めて「自発的な意志」という名の未知の変数に衝突し、熱を帯び始めている。
「ダルク=ゼルグ。貴殿の言動は、私の理解の範疇を超えている。だが……」
アルヴィスが何かを言いかけた、その時だった。
――ズ、と。
鼓膜を直接揺さぶるような、不快な「歪み」の音が響いた。
二人の間にあった空気が、一瞬だけ水面のように波打つ。
ダルクは即座に身構え、アルヴィスは無意識のうちに聖剣を掴む動作――今は空を切るだけの動き――を見せた。
「今のは……」
ダルクが眉を潜める。周囲を見回したが、そこには夜の静寂が戻っているだけだった。
ただ、先ほどまでの平和な空気とは何かが違う。まるで、完成されていたジグソーパズルの数枚が、見えない力で無理やり剥がされたような、奇妙な喪失感。
「……ノイズを観測。空間の連続性が、一時的に損なわれた。
私のセンサーは、これを『外部からの干渉』と定義する」
アルヴィスの声から、先ほどまでの迷いが消え、戦士の鋭さが戻る。
ダルクは空になった缶を握りつぶし、闇の向こう側を睨みつけた。
「……嫌な予感がする。我を捨てたはずの因縁が、どうやらこの世界の平穏を放っておいてはくれぬらしい」
勇者という「バグ」を抱えたまま、魔王の日常は静かに、しかし確実に、未知の激動へと飲み込まれようとしていた。
屋上のフェンスを揺らす風が、心なしか不気味な熱を帯びて吹き抜ける。
ダルクは名札を指で真っ直ぐに直すと、背後の階段へと歩き出した。
「行くぞ、勇者。明日は可燃ゴミの日だ。
また貴様に『秩序が乱れている』と言われるのは、真っ平御免だからな」
アルヴィスは無言で、その魔王の背中を、昨日までとは違う複雑な眼差しで追いかけていった。
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