第40話 魔王様と秩序(潔癖)
「秩序」という言葉は、本来であれば安寧や平和を意味する尊い響きを持っているはずだ。
しかし、今のダルクにとって、それは胃に穴を空けるための呪文でしかなかった。
「……対象ダルク・ゼルグ。右袖口から覗くシャツの面積が、左に比べて3ミリ過剰。左右の不均衡による視覚的ノイズを観測。秩序の乱れを確認」
窓口の背後、もはや定位置となったパイプ椅子から、アルヴィスの無機質な声が飛ぶ。
ダルクは住民票の発行ボタンを押そうとした指をピタリと止め、ゆっくりと振り返った。
「……勇者よ。我は今、この街の平和を守るための神聖な事務手続きの最中なのだ。
貴様のその『3ミリ』の指摘は、我の集中力を削ぐ以外のいかなる秩序も生み出しておらんぞ」
「是。だが、個の乱れは全体の崩壊を招く。
袖口の乱れは精神の弛緩の表れであり、それはやがて行政文書の誤植という大いなる混沌へ繋がる」
アルヴィスは表情一つ変えず、手帳に「対象、指摘に対し反抗的態度」と書き込んだ。
ダルクはこめかみに浮き出た青筋を指で押さえ、何とか怒りを飲み込んだ。ここで声を荒らげれば「発声のデシベルに微小なムラを確認」と言われるのが目に見えていたからだ。
しかし、アルヴィスの「研修」という名の嫌がらせは、それだけでは終わらなかった。
午後になり、窓口の合間にダルクが溜まった申請書類のファイリングを行っていた時のことだ。
ダルクが使い慣れたホチキスで、三枚綴りの書類をパチン、と手際よく留めていく。それはこの数ヶ月で身につけた、熟練の事務処理スキルだった。
だが、その一束をトレイに置こうとした瞬間、背後からアルヴィスの手が伸びてきた。
「却下する。秩序が保たれていない」
「……何だと?」
アルヴィスは、ダルクが留めたばかりの書類を、まるで呪われた遺物でも見るかのように指先で摘み上げた。
「ホチキスの針の角度を確認。用紙の長辺に対し、15度の傾斜。隣の書類は17度。累積する角度の不一致は、重ねた際の厚みに0.4ミリの誤差を生じさせる。これは保存庫における空間秩序の冒涜である」
「空間秩序の冒涜……ッ!?」
ダルクが絶句する中、アルヴィスは懐から自前の「定規」を取り出し、書類の角と針の距離を測り始めた。
「理想的な角度は45度。マージンは正確に5ミリ。……ダルク=ゼルグ、全て打ち直しを命じる。このままでは、区役所の記録が数百年後に塵と化す可能性がある」
「…なってたまるか……!貴様の言う秩序は、ただの潔癖だ! この潔癖勇者がッ!」
ついにダルクの咆哮がフロアに響き渡った。
隣で静かに電話対応をしていた佐藤が、受話器を収めながら「あはは……」と力なく笑う。
「あの、アルヴィスさん。気持ちはわかりますけど、そこまでこだわると今日中に書類が終わらなくなっちゃいますよ。効率という名の秩序も大事ですから」
佐藤のフォローに、アルヴィスは僅かに首を傾げた。
「効率……。佐藤、貴殿は、速さと正確さがトレードオフの関係にあると主張するのか。私は秩序の執行者だ。
最速かつ完璧以外は、すべてノイズとして排除するよう定義している」
「定義されてるんだ……」
佐藤が引き気味に頷くと、アルヴィスはダルクのデスクの「ペン立て」に目を移した。
「……バグを観測。ボールペンのクリップの向きが揃っていない。なぜ赤ペンが中央に配置されている。
使用率に基づけば、訂正色の赤色は端に配置し、緊急時の誤使用を防ぐのが秩序ある配置だ」
「勝手にいじるな! 我には我の使い勝手というものがあると言っておろうが!」
ダルクが必死にペン立てを死守しようとするが、アルヴィスの動きは素早かった。
瞬きする間に、ペンは色ごとに、かつインクの残量順(と彼が推測したもの)に並べ替えられてしまった。
「完了。これにより、ペンを手に取る際の迷いという無駄な時間が0.2秒短縮される。秩序は守られた」
「貴様ぁぁぁ……!」
ダルクは、あまりの理不尽さに机に突っ伏した。
かつての宿敵が、これほどまでに面倒な「意地の悪い小姑」みたいになるとは、誰が予想しただろうか。
そこへ、お茶を飲み終えたらしいリィナが、空いたカップを持ってパタパタと通りかかった。
「あ、ダルクさんのデスク、めっちゃ綺麗になってるですー! さすがアルヴィスさん。整理整頓の神ですね」
「……リィナ殿。これは整頓ではない、侵攻だ。我の聖域が、あやつに侵略されたのだ……!」
ダルクの恨みがましい声を無視して、アルヴィスは今度はリィナの足元に視線を落とした。
「リィナ。左足のサンダルのストラップが、許容範囲を超えて緩んでいる。歩行時のリズムに0.3秒の遅延。
修正しろ。さもなくば、廊下の秩序が君の足音によって乱される」
「えっ、あ、ハイ。すみませんなのです……」
勇者の無機質なプレッシャーに、リィナまでがピシッと姿勢を正してしまう。
「ふふふ……ダルクくん、賑やかでいいですね。若者が切磋琢磨する姿は、実に微笑ましい」
どこからともなく現れた区長が、混乱の極みにあるフロアを満足げに眺めている。その眼鏡の奥の瞳は、明らかにこの状況を愉しんでいた。
「区長か……
この者を、早く区長室に引き取ってくれ…… この者の存在が、我の業務に支障をきたしている。
それと我は若者という年齢ではない」
「おや、ダルクさん。自分の背後を任せられる相手がいるというのは、戦場では一番の幸運でしょう?
仲良くやってください」
区長はそう言って、アルヴィスの手帳にチラリと目をやり、「いい記録ですよ」と頷いて去っていった。
秋の午後の日差しが、異常に整然としたダルクのデスクを照らしている。
ダルクは、ミリ単位で揃えられたホチキスの針を、殺意の入り混じった目で見つめながら、次の一通を手に取った。
背後からは、再びカリカリ、というペンの音が聞こえてくる。
ダルクの平穏な公務員生活は、勇者という名の「精密すぎるノイズ」によって、新たな試練を迎えていた。
「……監視、継続中。ダルク・ゼルグの呼吸リズムが不安定。精神の再構築を推奨する」
「黙れと言っておるのが聞こえぬのかぁぁぁ!」
オフィスの喧騒は、今日も閉庁時間まで続くのであった。
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