第39話 魔王様、監視される
昨日の事件が嘘のように、区役所の朝はいつも通りに始まった。
……と言いたいところだが、一つだけ、明らかに「いつも通りではない」光景がそこにはあった。
区長室のドアの前ではなく、一階の区民課フロア、その窓口のすぐ後ろ。職員用の通路を塞がないギリギリの場所に、一脚のパイプ椅子が置かれていた。
そこに座っているのは、昨日の白銀の甲冑を脱ぎ捨て、サイズがぴったり合った紺色のスーツに身を包んだ若者だ。勇者ーー本名はアルヴィスと言うらしいーー、昨日この街の平和な空気を物理的に粉砕した張本人である。
「……先輩。あの人、昨日の……です?」
リィナが、隣のカウンターからひょっこりと顔を出して小声で尋ねてきた。その瞳は好奇心で揺れている。
「うん、そうみたいだね。アルヴィスさん。今日から区長の秘書として働くことになったらしいよ。
今は研修中だってさ」
佐藤が答える。本来、区長秘書という役職の人間が、一階の雑多な窓口フロアでパイプ椅子に座って過ごすことなどあり得ない。
だが、朝礼の際に、アルヴィスを伴ってこのフロアに降り立った区長から、穏やかな、しかし拒絶を許さない笑みでこう告げられた。
『彼はアルヴィスくん。本日から私の臨時の秘書として働くことになりました。
秘書の本分は区の全体像を把握することです。しかし彼はまだこの世界に来て間もない。
まずは一日数時間、現場の空気を肌で感じてもらいます。
……そうですね。良き“視察対象”として、ダルクさんの後ろに付いてもらいましょうか』
その結果が、この光景だ。
アルヴィスは膝の上に手帳を置き、微動だにせず、眼の前を見据えている。
その視線の先には、常にダルクの背中があった。
スーツのシワひとつ、髪の一房にいたるまで、まるで計算されたような完璧さを維持したまま、彼は瞬きすら忘れたかのようにダルクを注視し続けている。
「ダルクさん、昨日あの人と服買いに行ったんですよね? どうだったんです?」
佐藤が隣に目を向けると、そこには、いつにも増して深い隈を刻んだダルクがいた。ペンを握る手が、微かに震えている。
「……思い出したくもないのだがな」
ダルクは吐き捨てるように言い、昨日、紳士服店へ彼を連れて行った際の出来事を語りだす。
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区長に命じられ、半ば無理やり同行させられた紳士服店にて――。
『――この布地の防御係数は? 魔法耐性は? そもそもこの結び目は、左右対称ではない。
一ミリの誤差がある。秩序が乱れている』
アルヴィスは一事が万事その調子だった。
ダルクが店主に申し訳なさそうに頭を下げている間も、アルヴィスは鏡に映る自分を「個体としての適合性」を確認するように無機質に見つめ続けていた。
最終的にあの店主が「あの子、お顔は神様が作ったみたいに綺麗なのに、中身は精密機械か何かなのかしら?」と匙を投げたのだった。
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「それはまた……
大変でしたね」
「ベルちゃんを困らせるなんて……なかなかやるです」
昨日の様子を聞いた佐藤とリィナは、思い思いの感想を溢す。
一方のダルクは渋面を崩さず続ける。
「とはいえ、我の任務は『案内』までだ。今日からはあやつが何をしようと、我は知らん。……監視対象に監視されるなど、不愉快極まりないだろうからな。
それに、あやつはただの装置だ。感情もなければ、空気を読むという概念すら持ち合わせておらん」
ダルクが乱暴に書類にペンを走らせる。その時、すぐ背後でカリカリ、という硬質な音が響いた。
アルヴィスが手帳に何かを書き込んだ音だ。
「……何を書いた」
ダルクが渋面を隠さず問う。
「対象ダルク・ゼルグ。ペン先の筆圧に異常を検知。感情の昂ぶりによる筆記速度の乱れ。
業務効率が三・五パーセント低下したと推測。……監視、継続中」
「……っ、貴様……!」
ダルクの額に青筋が浮かぶ。
アルヴィスは表情一つ変えず、ただ事実を述べるように言った。その瞳には「敵意」すらなく、ただそこにある現象を記録するだけの虚無が宿っている。
「……あの人、ある意味ダルクさんより事務処理能力高そうなのです。 全く無駄がないっていうか……。
でも、さすがにあれじゃダルクさんが可哀想です」
リィナが、山積みになった完璧なファイルを見つめて呆気にとられたように呟く。
アルヴィスは「研修」の合間に、区長から預かったであろう資料の整理をこなしていたが、その手際は異常なほどに早かった。書類の角は、まるで剃刀で切り揃えたかのようにミリ単位の狂いもなく、配布資料はテーブルの縁と完璧な平行を保って配置される。
「……役割という名のプログラムをこなしているだけだ。
あやつには、窓口で市民と対話する『心』のゆとりなどない。……な、佐藤殿?」
ダルクは佐藤に同意を求めた。
だが、佐藤は答えに窮した。確かにアルヴィスの動きは機械的だが、その「徹底的な秩序」への執着は、ダルクが持つ契約という概念への神聖視と、どこか似ているように思えたからだ。
「あの、すみません。この書類、どこに判を押せば……」
窓口には、朝一番の相談者が訪れ始めていた。高齢の女性が、震える手で申請書を差し出す。
ダルクはいつもの丁寧な物腰で対応を始める。
「ああ、こちらでございます。この四角い枠の中に――」
ダルクが説明しようとしたその瞬間、背後からアルヴィスの無機質な声が届いた。
「発声のデシベルに微小なムラを確認。対象の緊張による交感神経の優位を検知。
非効率なコミュニケーションコストの発生……」
「……っ! 黙って見ておれ!」
ダルクがついに耐えかねて声を荒らげた。
女性客は目を丸くして、ダルクと背後のスーツ姿の青年に目をやる。佐藤は慌てて間に入り、女性客をなだめた。
「すみません、彼は今日から入ったばかりの研修中でして……少し熱心すぎるんです。
ダルクさん、続きをお願いしますね」
佐藤が苦笑いしながら割って入ると、ダルクは鼻から荒い息を吐き、アルヴィスを無視して業務に戻った。
秋の穏やかな陽光が差し込むフロアで、スーツ姿の二人の異邦人は、それぞれの役目を巡って静かに、しかし激しく衝突し始めている。
その奇妙な対立を、区役所の人々は遠巻きに、あるいは面白がって眺めていた。
静かな日常の裏側で、新しい変化がゆっくりと浸透していくのを、佐藤はただ見守ることしかできなかった。
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