第37話 ✕✕、襲来
その日は、朝から妙に静かな一日だった。
窓口を訪れる市民も少なく、午後の陽射しがフロアの隅々まで穏やかに届いている。コピー機の動く音と、誰かが書類をめくるカサカサという音だけが、平和なBGMのように流れていた。
佐藤は、山積みになっていた書類の最後の一枚をクリアファイルに収め、思い切り背伸びをした。終業のチャイムまで、あと数分。
「……よし、これで今日は上がりですね」
佐藤がデスクの上の文房具を片付け始めた、その時だった。
ドーーーン!!
「っ! なんだ!?」
突如として、静寂の広がる待合所に轟音と激しい閃光が走った。
爆風がフロアを猛烈な勢いで駆け抜け、窓口のパーティションが激しくガタガタと震える。佐藤は思わず机の下に身を隠した。
煙が漂う中、ゆっくりと顔を上げると、区役所の入口にあったはずの頑丈な自動ドアは、粉々に砕け散っていた。
舞い上がる埃と、目に焼き付くような白い光の中から、一人の人影がゆっくりと姿を現す。
かつてのダルク――魔王が降臨した時は、禍々しい黒鎧と圧倒的な威圧感がその場を支配した。
だが、今そこに立っているのは、その記憶を塗り替えるほどに異質な存在だった。
眩いほどに磨き上げられた、純白の甲冑。
陽光を反射して青白く輝く、一本の聖剣。
その姿は神々しくすらあるが、そこから放たれるのは救いではなく、凍り付くような「無」だ。
煙が引いていく中、その若者は一切の表情を浮かべることなく、瓦礫を踏み越えて一歩前へと踏み出した。
奥にいる職員ですら腰を抜かし、手に持っていた書類がパラパラと床に散らばる。
若者の瞳には、光がなかった。
喜怒哀楽のすべてを削ぎ落とし、ただ一点の「目的」だけを投影している、空虚な硝子の瞳。
若者は番号札も見ず、驚き叫ぶ市民たちの間を縫うようにして、まっすぐに「3番窓口」へと歩いてくる。
その一歩ごとに、床に散らばったガラスの破片がパキパキと無機質な音を立てた。
「……佐藤殿、下がっていろ」
隣で、ダルクの低い声が響いた。
見れば、ダルクはペンを握ったまま、かつてないほど鋭い眼光でその白銀の若者を見据えていた。
「ダルクさん……これって…」
「……ああ。我がかつての世界で、最も合い目見えた男だ」
若者は、カウンターの前でぴたりと止まった。
佐藤の鼻を突くのは、焦げた匂いではない。冬の朝の空気のような、ひりつくほどに澄んだ、冷たい「秩序」の匂いだ。
「対象、ダルク・ゼルグ。生存を確認」
若者の口から漏れたのは、若々しい外見とは不釣り合いな、起伏のない声だった。
「座標のズレを修正。これより、任務を継続する」
「……相変わらずだな、勇者。貴様、ここがどこだと思っている。公共施設への不法侵入、および器物損壊。この世界の法律では、重罪だぞ」
ダルクの皮肉にも、勇者は眉ひとつ動かさない。
「理解不能。秩序を乱す存在がある。ならば排除する。それ以外に、私の思考回路に優先すべき事象は存在しない」
勇者が、ゆっくりと聖剣の柄に手をかけた。
その瞬間、フロアの気温が数度下がったかのような錯覚に陥る。
彼にとっては、魔王を倒すことも、この区役所という建物を壊すことも、同じ「事務作業」に過ぎないのだ。感情を介さない、最も純粋で、最も残酷な「正義」がそこにあった。
「……待て。外へ出ろ、勇者」
ダルクが、カウンターの仕切りを力任せに押し広げて前に出た。
「ここには、貴様が守ろうとする『秩序』よりも遥かに繊細な、我らの『日常』がある。……器物を壊された分の請求書は、後で我の給料から引かれる必要があるからな。これ以上、被害を増やすな」
勇者はわずかに首を傾げたが、ダルクの言葉を「提案」として処理したのか、静かに手を下ろした。
「……勧告を受け入れる。場所の移動を開始する」
二人は、粉々に砕けた自動ドアの向こう側、区役所の前庭へと移動した。
避難する市民たち、パニックになる職員たち。佐藤もまた、震える足でそれを追いかけた。
前庭の中央。
夕闇が迫る中、白銀の勇者が聖剣を抜き放った。
その剣身から溢れ出す光の奔流は、周囲の街灯を霞ませるほどに凄まじい。
「ダルク・ゼルグ。貴様の魔力が減衰していることは検知済みだ。だが、秩序維持のため、全力で排除を遂行する」
「……ふん。魔力がなくとも、我には守らねばならぬ『雇用契約』がある。無職に戻るわけにはいかんのだ!」
ダルクが、実体化した魔力の防壁を張ろうとした、その時。
「――そこまでにしてください。ここ、区役所の敷地内ですから」
二人の間に、一人の男が割り込んだ。
ネクタイを緩め、眼鏡を指先でクイと直した、ごく普通のスーツ姿の男。
この区役所の長であり、ダルクを雇用した張本人。区長だった。
「退け、現地住民」
勇者が無機質に告げる。
「これは世界の剪定作業だ。貴様のような矮小な存在が立ち入る領域ではない」
勇者は聖剣を振るった。
それは空気を引き裂き、概念ごと相手を断つ一撃のはずだった。
だが。
パシィン。
乾いた音が響いた。
佐藤は目を疑った。
区長が、素手で勇者の聖剣を真剣白刃取りしていたのだ。
それも、指先二本で。
「なっ……!?」
初めて、勇者の表情に微かな動揺が走った。
ダルクもまた、採用試験の際、自分が一瞬で組み伏せられた時の恐怖を思い出していた。
「不法侵入、備品損壊。さらに職員への暴行未遂。……公務執行妨害としては、少々度が過ぎますね」
区長の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光った。
その背後に、ダルクのものとは比較にならないほど巨大で、底知れない「闇」が揺らめいたのを、佐藤は見た。
それは、数え切れないほどの修羅場を潜り抜け、一つの世界を完全に「終わらせた」者だけが持つ、完成された暴力の気配だった。
「勇者くん、と言いましたか。君の理屈は、別の世界でなら通用したかもしれない。だが、この区の今の最高責任者は私です。私の管理下にある職員に手を出すなら、それ相応の覚悟はできているんでしょうね?」
区長が勇者の腕を軽く捻る。
それだけで、あの大質量を誇っていた白銀の鎧が、まるで紙細工のように地面に叩きつけられた。
「ぐ、あ……!?」
「暴れないでください、と言ったはずですよ」
区長は冷ややかに言い放つと、動けなくなった勇者の胸元に、一通の書類を置いた。
「全く、自分は最強だと信じてやまないお年頃なんでしょうけどね。
昔の、この世界にやってくる前の私を見ているようだ」
区長は、唖然とするダルクと佐藤に振り返り、いつもの穏やかな――しかしどこか空恐ろしい――笑みを浮かべた。
「ダルクくん。君の雇用契約には、『過剰なトラブルの持ち込み』に対する罰則規定もありましたよね? 今回の修理代、しっかり給料から天引きさせてもらいますよ」
「えっ、こやつが壊したのに我が払うのか??」
「なにか?あなたの知り合いでしょう」
「あ、う、うむ。心得ておるよ……」
ダルクは冷や汗を拭い、確信した。
(この男……やはり、ただの人間ではないな。我と同じ、いや、それ以上の存在感だ)
混沌の幕開けは、予想だにしない異物の流入によって、奇妙な緊張を保ったまま進み始めたのである。
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