第36話 魔王様と秋空
区役所のロビーにある観葉植物が、空調の風でパタパタと鳴っている。
窓の外を見れば、銀杏が少しずつ黄色くなってきていて、半袖で歩いている人はもうほとんどいない。
秋の午後は、独特のまったりした空気がある。
午前中の激しい混雑が嘘みたいに引いて、番号呼び出しの「ピンポーン」という音も、どこか眠たげな間隔で響いていた。
「……ふぅ。やっと一息、ですね」
佐藤は、山積みになっていた書類の最後の一枚をクリアファイルに突っ込み、思い切り背伸びをした。首の骨がボキボキと鳴る。
「左様だな。だが佐藤殿、この『一息』の間に、次の波に備えてペン先のインクを点検し、付箋の在庫を補充しておくのが、一流の兵というものだぞ」
隣の席で、ダルクが真顔で言った。
その手元を見れば、自分の担当分を完璧に片付けただけでなく、共有スペースのクリップがサイズごとに軍隊のように整列させられている。
「ダルクさん、ここ戦場じゃないんですから。少しは肩の力抜いてくださいよ」
「……これでも抜いている。先ほども、リィナ殿から差し入れられた茶菓子を堪能したばかりだ」
「ああ、あの期間限定の『モンブラン大福』ね。ダルクさん、あれ気に入ったみたいで、食べてる時の目つき、完全に獲物を仕留めた猛獣でしたもんね」
佐藤が笑うと、ダルクは少しだけ決まり悪そうに視線を逸らした。
この数ヶ月で、ダルクの現代適応能力は凄まじいことになっていた。最初は「住民票ってなんだ」とか言っていた男が、
今や「区役所裏のコンビニは火曜日にスイーツの新商品が入る」とか、佐藤ですら把握していないローカル情報をガチで熟知している。
「お待たせしたのです! 午後の補充物資なのです!」
リィナが、コピー用紙の束を抱えてガラガラと台車を引いて戻ってきた。
彼女のネームプレートには、誰が貼ったのかカボチャのシールが揺れている。世間はそろそろハロウィンの準備らしい。
「リィナ殿、助かる。コピー機のトレイに補充しておこう」
「あ、ダルクさん。ついでにこの『窓口案内』のパンフレットも折っておいてほしいのです。来週の健康診断のお知らせで、いっぱい配るのです」
「心得た」
かつては世界を滅ぼす魔法を練り上げていたであろうその指先が、今は驚くべき精密さで、A4サイズの紙を正確な三つ折りに変えていく。
シュッ、シュッ、と規則正しい音が響く。ダルクの作る折り目は、定規で測ったかのように完璧だ。もはや職人の技である。
「……しかし、平和ですねぇ」
佐藤は、その音を聞きながらぼんやりとロビーを眺めた。
窓口の向こう側では、おじいちゃんとおばあちゃんが仲良くベンチに座って順番を待ち、自動ドアの近くでは、お母さんがぐずる子供をあやしながら、掲示板を眺めている。
怒鳴り散らすクレーマーもいないし、悪いことを企んでるような奴もいない。
ただ、今日という一日を普通に過ごそうとする人たちが、必要な手続きをしに来ているだけ。
「佐藤殿、どうした。手が止まっているぞ。平和を享受するのは自由だが、書類を溜めるのは怠慢だ」
「わかってますよ。……ただ、ダルクさんもすっかり馴染んだなぁと思って。
もう誰も、ダルクさんのこと『異世界の魔王』だなんて思ってませんよ。ちょっと背が高くて、死ぬほど真面目で、たまに変な言い回しをする、仕事の早い同僚ですね」
ダルクは三つ折りにした紙をトントンと机に揃え、ふと自分の掌を見つめた。
そこにはかつての紋様もないし、インクの汚れが少しついているだけだ。
「……同僚、か。悪くない響きだ」
「いいもんでしょう?」
ダルクが感慨深そうに目を細めていた。
そこへ、一人の腰の曲がったおばあちゃんが、おぼつかない足取りでダルクの窓口へやってきた。番号札は持っていないみたいだ。
「あの、すみません……。ちょっとお聞きしたいことがあって……」
ダルクは即座に椅子から立ち上がり、おばあちゃんの目線に合わせて少し腰を落とした。
「いかがされましたか。ここはご相談の窓口です。どのような小さなことでも、我がお聞きいたしましょう」
その声は、驚くほど柔らかかった。佐藤もリィナも、思わず作業の手を止めて見入ってしまう。
おばあちゃんは少し不安そうに、手にした古びた封筒を差し出した。
「これ、息子から届いたんですけど……私、目が悪くて。何が書いてあるのか、よく分からなくて。役所に関係あるものかしらと思って……」
ダルクは丁寧に封筒を受け取り、中の手紙を確認した。
中身は役所の書類じゃなくて、ただの私的な手紙だった。遠くに住んでいる息子さんが、孫の写真を送ってきたらしい。
普通の職員なら「これ関係書類じゃないですね」とだけ返すところだ。
でも、ダルクは違った。
「……これは、健勝を祝う文ですね。お孫様が運動会で一等賞を取られたとのこと。この写真は、その誇らしい瞬間を写したもののようです。……見てください、実に見事な走りではありませんか」
ダルクは、同封されていた写真を持ち上げ、おばあちゃんに見えるようにゆっくりと内容を読み聞かせ始めた。おばあちゃんの顔に、パァッと明るい笑みが広がっていく。
「まあ、まあ……そうだったの。あの子、足が速いのねぇ……」
「ええ。息子さんは、母上にもその勇姿を見せたかったのでしょう。この書類――いや、この手紙には、何ら不備はありません。極めて良好な、愛情の証明です」
おばあちゃんは「ありがとう、ありがとう」と何度もダルクの手を握り、満足そうに帰っていった。
一部始終を見ていた佐藤が、苦笑いしながら声をかける。
「ダルクさん。それ、完全に業務外ですよ。本来ならお断り案件です」
「……分かっている。だが、あの老人の不安を解消せぬまま帰すことは、この窓口の矜持に反する。それに、あれも一種の『照会』だ。内容が分からず困っている者に、正しい情報を提示する。我の役目と何ら変わりはない」
「さすまおなのです! 住民の心の闇まで晴らしちゃうなんて、もはや区民課の守護神なのです!」
「そのさすまおってやつ気に入ったの?」
リィナが囃し立てると、ダルクは「守護神などと、大げさな」と鼻を鳴らした。
そんな、どこにでもある平和な光景。
ハンコが押され、誰かの「ありがとう」が空気に溶けていく。
ダルクは今、この穏やかな川の流れのような日常の中に、確かにいた。
終業のチャイムが鳴るまで、あと一時間。
ロビーの時計は規則正しく時を刻み、ダルクのノートには、今日学んだ「期間限定モンブラン大福の入荷日」と「効率的な三つ折りパンフレットの重ね方」が、丁寧な字でメモされていた。
外はいつの間にか暗くなっていた。
少しずつ長くなる影の中に、一筋の冷たい風が混じったことに、気づく者はいなかった。
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