第30話 記憶
午後の区民課は、独特の静けさに包まれていた。
窓口の呼び出し番号が表示される電子音と、キーボードを叩く乾いた音だけが、規則正しく空間を満たしている。
来庁者の数は多くないが、相談一件あたりにかかる時間は長く、職員の集中力は途切れない。
開放された窓口の一つに、一人の男が腰掛けていた。
年齢は四十代半ばほど。白髪はなく、顔色も悪くない。
着古したジャケットとスラックスは安価なものだが、きちんと洗濯されており、靴にも目立った汚れはない。
いわゆる「生活に困窮している人」の典型像からは、わずかに外れていた。
「……現在のお住まいは、こちらの住所でお間違いないですか?」
「はい。今はそちらに住んでいます」
担当職員の問いに、男は即座に答えた。声は落ち着いており、語尾も揺れない。
説明を遮ることはなく、質問が来るまで口を挟まない。
制度説明は淡々と進む。申請条件、資産調査、収入申告の義務、不正があった場合の対応。
どれも、この窓口では日常的ではないものの、過去繰り返されてきた内容だ。
――そう、男は生活保護の受給の申請に来ていた。
男は、職員の説明を静かに聞いていた。
理解できない様子はない。かといって、過剰に同意することもない。ただ、必要なところで短く「はい」と返す。その間の取り方が、妙に整っていた。
その様子を、少し離れた位置からダルクは見ていた。
本来、視線を向ける理由はない。自分の業務に集中していればいいはずだった。
それでも、男の声が耳に入った瞬間から、意識が引き寄せられていた。
声の高さ。抑揚の付け方。言葉を選ぶ速度。
――慣れている。
そう感じた瞬間、ダルクは無意識のうちに男を観察していた。
書類を差し出す手つきも無駄がない。説明を聞きながら、すでに次に必要な書類を把握しているような動きだった。
初めての申請者にありがちな戸惑いや、質問の多さがない。
生活保護制度に対して、一定の知識がある。
それ自体は、何もおかしくない。
だが、ダルクの中で、わずかな違和感が積み重なっていく。
同じ頃、リィナもまた、その男を視界に捉えていた。
別件の書類を届けるためにフロアを横切った際、ふと目に入っただけだった。
だが、申請書の上に並ぶ文字が、なぜか目に残った。
丁寧で、読みやすい字。
癖がなく、崩れもない。
それなのに、機械的すぎるほど整っている。
(……淀みが無さすぎる、です)
そう思った瞬間、リィナは自分の考えを打ち消した。
筆跡など、人それぞれだ。そこに意味を見出すのは、考えすぎだろう。
男は、住所と氏名を告げる。
担当職員が復唱し、申請書にチェックを入れる。
名前は、ごくありふれたものだった。
それでも、リィナはその音を、耳の奥に留めてしまった。
説明が一通り終わり、男は深く頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます」
その言葉も、どこか整いすぎていた。
男が立ち上がり、窓口を離れる。出口へ向かう途中、ほんの一瞬だけ、ダルクと視線が交差した。
感情のない目。
敵意も、焦りもない。
ただ、こちらを「見た」だけの視線。
男はすぐに目を逸らし、そのまま庁舎を後にした。
空気が、元に戻る。
担当職員が椅子にもたれ、軽く息を吐いた。
「最近、こういう落ち着いた相談者、増えてきましたね〜」
「制度をちゃんと調べてから来る人も多いようですしね」
職員間でそんなやり取りが交わされる中、ダルクは何も言わなかった。
リィナが、小さく近づいてくる。
「……ダルクさん」
「覚えたか?」
リィナは一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「顔と、声と……名前もです」
「私もだ」
それ以上の会話はなかった。
この時点では、男はただの申請者だ。制度上、何の問題もない。
誰もが、今日の業務の一つとして、すぐに忘れるはずだった。
だが、ダルクの中では、すでに一つの“記録”が完成していた。
名。
顔。
声。
筆跡。
態度。
それらは静かに保存され、消えることはない。
区役所の日常は、滞りなく進んでいく。
この男が、再びここに現れるまで――。
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