第20話 魔王様、窓口に立つ
「む、今日は佐藤殿の方が早かったか」
先日のスーツ購入から早2週間、月曜を迎えた区役所に、もうすっかり馴染みとなった声が聞こえてくる。
「おはようございます。めずらしくギリギリですね」
「う、うむ…」
「どうしました?あぁ…」
ダルクは、どこか困ったような声音だった。
その様子を見て、佐藤は察したように頷いた。
「ネクタイ……うまく結べなかったんですね……」
佐藤がダルクの首元に視線を向けると、そこには――
完璧に仕立てられたスーツ姿の魔王が、
首元でネクタイをぐちゃぐちゃに絡ませていた。
「…スーツはとても良く似合ってますね」
「だからこそ、困っておる」
佐藤は静かに近づいた。
「結び方、ベルさんに教わってませんでした?」
「教わった。だが、いざ自分でやると布が従わぬのだ」
「意思を持ってるわけではないのですが…
意外と不器用なんですかね?」
「わからぬ。我のいた世界にはこのような文化は無かったゆえ」
(元魔界最強とか言っていた割に、これで詰まるんだよなあ)
佐藤はネクタイをほどく。
「貸してください。もう一回ゆっくりやりますよ」
「……頼む」
今朝の魔王様は、いつにも増して素直だった――。
佐藤は器用な手つきでネクタイを整えていく。
「ここをこうして……折り返して、締める。はい、完成です」
最後に軽く結び目を整え、ダルクに鏡を向ける。
黒のローブはない。
代わりに、落ち着いたグレーのスーツ。
金色の瞳だけが、相変わらず鋭く光っている。
「……やはり軽いな」
「軽い?」
「鎧を纏う時とも、ローブを羽織る時とも違う。
威圧ではなく、ただ形を整えただけの装いだ」
「区役所ですからね。威圧は不要です」
「うむ」
小さく頷く。
そのとき、始業のチャイムが鳴った。
「さ、今日も頑張りましょう。
しっかり窓口業務、お願いしますね」
「うむ、承知した。
任されよ」
やがて、最初の来庁者が現れる。
そして――
「あ」
佐藤が小さく声を漏らした。
三歳ほどの子どもを連れた母親。
ダルクも気づいたらしい。
わずかに目を細める。
窓口越しに、再び目が合う。
子どもは、固まった。
母親も「あっ」という顔をする。
(あの日の……)
一拍。
子どもは、ダルクの姿を上から下まで眺める。
今日は黒ローブではない。
整えられたスーツ。
きちんと結ばれたネクタイ。
ダルクは、ゆっくりと口を開いた。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか」
声は低いが、穏やかだった。
子どもは、母親の後ろに隠れ――
なかった。
じっと見上げ、
「……おようふく、まえとちがう」
「うむ。新しい服を、着てみたのだ」
子どもはしばらく考えるような顔をして、
「……かっこいい」
小さく、そう言った。
沈黙。
母親がほっと息をつく。
ダルクは、一瞬だけ固まり――
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……そうか」
低く、しかし確かな声音。
「本日のご用件を承ります」
子どもはもう泣かなかった。
ダルクには、それだけで十分だった。
母親が申請書類を差し出す。
「転入の手続きで……」
「承知しました」
ダルクは書類を受け取り、視線を落とす。
必要事項を確認し、抜けを見つける。
「こちらの署名が未記入ですね。
お手数ですが、ここにご記入願います」
「あっ、すみません」
母親がペンを走らせる。
その間、子どもはカウンター越しにダルクを見上げている。
「おじさん、なにしてるの?」
「区民課職員だ」
「くみんかってなに?」
ダルクは一瞬だけ考え――
「この町で暮らす者が、困らぬよう手続きを整える役目だ」
子どもは「ふーん」と頷いた。
「ヒーロー?」
「……いや」
少しだけ間があって、
「後方支援、だな」
ダルクはどこか誇らしげに答えた。
そして書類が揃い、受付が完了する。
「以上で手続きは完了です。
転入時の注意事項などについてはこちらの冊子をご覧ください。
わからないことがあれば、いつでもお越しください」
母親が微笑む。
「ありがとうございます」
子どもが、小さく手を振った。
「ヒーロー、ばいばい」
「ヒーローではない。魔王だ」
真顔で訂正する魔王。
それでも、子どもは笑ったまま、手を振り続けた。
二人が去ったあと。
しばらくして、様子を見守っていた佐藤がぽつりと呟く。
「泣かれませんでしたね」
「うむ」
ダルクは、自分の袖口を一度だけ見下ろす。
黒のローブではない。
威圧の象徴でもない。
ただの、グレーのスーツ。
「装いを変えたからだけではない」
「え?」
「我が、変わったのだろうな」
静かな声だった。
臨時職員としての初日――
あの日、魔王にとってそこは戦場だった。
そして、今日。
魔王は、窓口に立っている。
威圧ではなく、説明を。
暴力ではなく、手続きを。
「佐藤殿」
「はい?」
「やはりこの装い、悪くないな」
「でしょう?」
「……防備にしては軽いがな」
始業から一時間後。
区民課の窓口はいつも通り回っている。
そこに立つのは魔王だが、
魔王ではなかった。
ただの区役所の職員として、
番号札を呼ぶ。
「次の方、どうぞ」
その声は、以前より少しだけ柔らかかった。
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