女神の住む場所2
──── 驚く
という感情を人が持っているのは幸か不幸か。
いや感情があること自体は、とても幸福なことなのだと、マルスにだって分かっている。
人間なんだから感情が豊かな方がいい。
だが、しかし。
この驚くという感情については一日に一度で十分であるというのが、本日のマルスの結論である。
配属先の戦艦アトラスからエリダヌス。
エリダヌスから月。
月から地球。
一日に移動するには十分すぎる距離を、もちろん一日で移動したわけではないが、それでも体は疲れ、降下間際に突きつけられた現実に精神的な打撃を受けた。
いかに若くても蓄積された疲労は休まなければ回復しない。
だからディナル公国でまできて、コレはないだろう。
と思う。
最初は一枚の絵のようだった。
大きな月の、大きいと言っても地球のから見える月の大きさなど程度がしれているが、それでも地球から月を見たことのなかったマルスには、驚くほどの大きさだった。
その大きな月を背景に飛び出した高い崖の上に人を認識したのは偶然だった。
女性だと分かったのは、月明かりに照らされて海から吹き上げる風にスカートが舞い上がるのが確認出来たからもある。
同じように長い髪が舞い上がった次の瞬間、
墜ちたのだ、その女性が。
自殺者だ、と止まりかけた思考で考えているうちに、足が動いて浜辺に向かって走り出した。
走り出して海に入るため着ていた上着を脱ぎかけた二人は再び驚愕に目を見張り、そして自分の体から魂が一瞬、確実に抜けたであろう体験をした。
飛び下りたその女性が、全身びしょ濡れになりながら海から上がってきたのだ。
驚くなとか肝を冷やすなとかは無論無理な話である。
言葉も出ない、とはこのことだ。
向かって歩いてくる女性は、いや近づいてきて始めて気が付いたのだが、女性ではなく少女だった。
それもマルスやエドとそう変わらない年齢の。
月を背に浮かぶその姿は、濡れた服が体にまとわりつき、体の線をはっきりと浮かび上がらせ(それはもう見とれるくらいのナイスな肢体。 特に細くくびれたウエストや豊かな胸が!)両手で長い髪の水滴を絞る姿は驚くほど絵になっている。
是非とも明るい太陽の下で顔を見てみたい、と普通の一般男性、いや少年ならば思うはずだが(下手をしたらその場の勢いで、押し倒す事もありえるが)生憎マルスもエドもそういう方面に関しては、あまりにも性少年らしからぬ潔癖さとストイックな面を持っていたため、驚きのあまり半ば硬直状態だった。
先に理性を取りもどしたのはマルスだった。
「あの、お怪我はありませんか?」
「ここは一般の拝礼者は立ち入り禁止の場所よ」
マルスの的を外れたような言葉に特別気分を害したわけではない少女が、マルスの質問に答えることなく逆に問う。
問われて自分たちがどうしてここにいたのかの理由を思い出し、少女が墜ちたことで動揺し、浮かんできた事で驚愕したことをとりあえず忘れることにして何故、この場所にいるのかを告げる。
「ディナル公の公邸に向かいたいのですが、道に迷ってしまったらしいのです。あの、ディナル公国の入国管理より、許可も頂いているのですが」
「ディナル公の公邸は海とは逆。この手前に道が分かれていたでしょう? それを左ではなくて右」
許可カードに浮かび上がる地図を確認し、礼を言おうと顔を上げたとき少女はすでに背中しか見えなかった。
結局二人は、何故少女が飛び下りたのか墜ちたのか、最大の謎は解けずじまいで。
とにかくこれ以上、驚くことはゴメン蒙りたいというのがマルスの心情だった。
だったが。
もっと驚愕することが、この先に待ち受けているのをマルスもエドも全く気がついていなかった。