華麗なる姉妹の逃避行2
───── 信じられないことを聞いた
と、ばかりにマルスの歩みが止まる。
どれほど信じられないかと言えば、その一言を聞いた後からゆうに五分間は考え込んでいたことを思えば、いかに驚愕の事実であった。
天気の全てを完全に管理されたこのコクーンで、それこそ突然として雷雨がくるとか、台風が襲ってくることくらい有り得ない事実だ。
だから、確かめずにはいられない。
「それは本当なのか?」
「同じ事を何度、聞けば気が済むんですか、マルス様。これで三回目ですよ」
少女の声には明らかに嫌気が混ざっている。
しかももう、いい加減にしてくれという意思表示なのか、わざとらしく名前に様がついていた。
いつもなら、らしくないだの、止めてくれというマルスも動揺さめやらぬ状態だ。
この邸を混乱の渦に落とし入れ、上へ下への大騒ぎを巻き起こした、ローダリール家史上最大の親子ゲンカを、少女は目の当たりにした数少ない人間で、その原因もよく理解し、そこに行き着くまでの過程も知っている。
ローダリール家のお手伝いとして、そしてマルスの数少ない幼なじみとして接してきた少女は、考え込んだまま、窓ガラスとにらめっこをしている我が主人が、暫くは誰の言葉も耳に入りはしないだろうと理解すると、マルスを放り出して、そっと部屋を後にした。
***
「お父上の命令です。本日から二日間の休暇はご自宅でお過ごしください」という、恭しい一方で威圧的な態度で、ルイス秘書官に命じられた。
あれは絶対に命令だったと、未だにマルスは納得できないのだが、その秘書官が現れたのはエドと別れて、宿舎に向かおうと、軍専用車をつかまえようとしたときだった。
どこかで見たことのある趣味の悪い黒塗りの専用車を見て、咄嗟にイヤな予感が頭をかすめ、逃げ場所か隠れる場所を探してしまったのは致し方ないことだ。
昔から、父のこの専用車が近づくとロクな事がない、この専用車に乗ったときもロクな目に遭わないのだ。
隠れる場所も逃げられる場所もないと悟り、無視を決め込んで、歩き始めたマルスの目の前に回り込むように車が止まったときには、その車を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られた。
道をふさがれ、仕方なしに最大限の理性を発揮して立ち止まり、相手の出方を待つことにした。
車から降りてきたのはマルスの想像とは違う人物だったが、ルイスの代理であると聞かされたときにはやっぱりかと思いつつ、あきらめの境地にもいた。
(また新しい女でもできたのかよ)
マルスが知る限り父の恋人はすでに八人に上る。
ただし、一年以上続いた女性と問われると殆ど消去の対象となる。
その八人のうち父と同棲をしたのは四人。
マルスが最後に父の恋人を紹介されたのは一年と少し前のことだ。
自宅に戻る気もなければ、父の恋人に会う気もなかったマルスは秘書官に「宿舎に泊まります」と伝えたのだが、そんなマルスの言葉をすべて聞き流すと、もう一度「お父上のご命令です」と今度は威圧的に告げてきた。
その言葉には「逆らうようでしたら強引にでも連れて行きます」という態度が見え隠れしていた。
どう強引なのか考えるだけで疲れ果ててしまったこともあり、渋々といった風情で趣味の悪さ全開の黒塗りに乗り込み、ローダリール邸に連行された。
玄関に立ったときには、前日に遭遇したというか訪れたディナル公邸を思いだし「やっぱり家はこうでないと」等と失礼極まりない事を思ったのは秘密だ。
帰りたくないと思っていた自宅でも、戻ればそれなりに感慨のあるもので、マルスを出迎えたのは、マルスが生まれる前からローダリール邸で執事として切り盛りしているトリアスとその妻のマーガレット、そして二人の娘で三歳年上のルシアーナだった。
物心付いたときにはすでに母親がなく、父親も仕事で殆ど自宅に居なかったマルスには両親と同じ存在の二人。
そしてルシアーナは、こんなことを本人にはとても言えた事ではないが、とにかく乱暴者で、すぐに手が出る少女だった。
かけっこをして負ければ後ろから突き飛ばされたし、逆に負けてやるとわざと負けたなどと言いがかりを付けられては殴られ、本当に大変だった。
でも、嫌いになれなかったのは、姉に近い感覚を持っていたからだと思う。
それに初恋の少女でもある。
その初恋もわずか二時間で消え失せたが。
今から思えばマルスは五歳にして、百年の恋も冷めるを実体験したのだから、ある意味では人生の厳しさを知るきっかけを与えてくれた人でもある。
その三人に出迎えられて自宅に足を踏み入れた時、屋敷が静かで、調度品も戻っていたことが意外だった。
一年前に軍の配属が決まりルイスに報告をと思い自宅に帰ったとき、屋敷には父の恋人として一人の女性が暮らしていた。
その女性の趣味なのか、屋敷中がまるで劇場のような状態で目眩を覚えた。
マルス記憶の中にある限り、屋敷内の調度品は母が結婚当時に自らが選び揃えたもので、上品で柔らかな雰囲気を醸し出していた。
その調度品のすべてを取っ払って、新しい物を揃えた女性に怒りよりも呆れが先立ち何も言う気にもなれなかった。
母の調度品がどこに捨てられたのかが気になりトリアスに問いただしたら彼は微笑みながら告げたのだ。
「大切な奥様の調度品に、別の女性の手あかを付けるわけにはまりませんので、責任をもって保管させていただいております」と。
この屋敷内における権力分布図の一番上に存在するのは、マルスの父ルイスではなく、このトリアスだ。
トリアスは先代であったマルスの亡くなった祖父が、これと見込んで屋敷の維持と財産の管理とを任せた人物で、若輩ではあったが、本当に有能だったと聞く。
一人っ子として自由に育ったルイスが兄とも慕う人物で、若い頃は放蕩と無法をしたたかに行っていたルイスが唯一頭の上がらない人物だとも聞いている。
「去年いた、あの女性は?」
「若が軍籍を頂きましたおりに、こちらを出て行かれました。旦那様はお一人です」
「トリアスが追い出したのか?」
とんでもなく失礼な言い方が出来るのも、トリアスだからだ。
問われた彼は、これまた柔らかく微笑むと「違います。旦那様のご決断です」と告げた。
その言葉の裏には本当に何も含まれていないから信じてるに値するのだろうが、だがしかし、父の派手な交友関係と、自分を襲ったその交友関係のツケを知っているだけに、トリアスの言葉でも俄に信じることができない。
自分にお茶を持ってきた幼なじみの乱暴者、いや姉同様の少女に聞いたところ、彼女もトリアスと同じ事を答えた。
どちらかといえば、ルシアーナの方がもっと辛辣で容赦がなかったが。とくに相手の女性を言うときには。
で、やっぱり聞かずにはいられなかったのだ。
「それは本当なのか?」と。




