破談書の破られたその後に
「ママママックス様何を!? そそそれ破談書ですよ!? いいんですか!?」
「フェリシアはこれを望んでいたんだろう?」
「それはそうですけど、まさかあなたが破るなんて想定外です。私からも訊きますけど、後悔はしないんですか?」
「するわけがない」
きっぱりハッキリ宣言した彼は清々しいような表情だ。
それはつまり、私と婚約継続でも構わないって意思表示よね。でも婚約者でいる意味を本当に理解しているの? もしかしたら真面目で責任感が強過ぎて、あと堅物過ぎて彼はそこまで考えが及んでいないんじゃないの?
「マックス様、お忘れかもしれませんが、婚約を続けたら私と結婚もしないといけないんですよ?」
「フェリシアは心配性だな。そんな重要な点を忘れるわけがないだろうに。名実共に君を愛せるんだから」
私は暫し異国の古僧がとんちをするように悩んだ。ポクポクポクチーン。
「え、あの、まさか……マックス様は私を女として見てるんですか!?」
彼のお前マジ信じらんねえ的なその衝撃顔を私はきっと生涯忘れないと思う。
この話の流れで悟れなかった私は相当鈍ちんみたいね。
「俺は好きでもない相手と結婚など望まない」
ご機嫌斜めのマックス様がトスンとベッドの端に腰かける。私もお行儀良く隣りに座った。あらやだわ~、口元がどうしようもなく弛んじゃう~。
「えへへへっ、それは私もですよ」
思わず淑女としては些か品のない笑い方で笑っても彼の目は窘めたり引いたりはしなかった。それどころかとっても優しい眼差しなんですがっ。何て不意討ちなのっ。照れ臭くて思わず俯いちゃった。
「え、えっとマックス様、次の舞踏会からはまた一緒にダンスしましょうね!」
でも避けたって誤解されるのは嫌だったから、素直に嬉しいって気持ちを前面に押し出して微笑んで見上げると、向こうは先にこっちを見つめていたようでバッチリ目が合った。そしてふわっとした微笑みで頷いてくれる。
またもやの不意討ちと、そして案外近い距離にドキリとする。
そう言えばそうだった。
考えてみれば私達が最後に会った時って――
「……イチゴ味」
無意識に声に出してしまって細部を思い出したら猛烈に恥ずかしくなってきた。だってあの時の彼は普段とは違っていた。
あんな風に衝動的に甘やかで危険な熱をぶつけてくるなんて思いもしなかった。キャラ違い過ぎない~っ?
私の呟きと表情の変化に向こうも察したようで、少し照れたようにする。
「マックス様、今日の馬車での事なんですけど。中和薬を飲ませてくれた際のあれはつまり、私を好きだからしたと……?」
「あ、あー、あれか、まあそうだが、やはり覚えているのか。そうか、そうなんだな、なるほど。……あの惚れ薬は元からその相手に好意を寄せている者が飲んでも、記憶は消えないのか」
彼は気まずそうに質問の答えにならない台詞を言い訳染みてして、後半の方は最早独り言を口に珍しくもやや落ち着きなく手を額に当てたり髪を掻き上げたりした。
「記憶とかって、それもしかして惚れ薬の効能の話ですか?」
「ああそうだ。あの時のあれはだな、君ともうおしまいなんだと思ったら凄く辛くて、惚れ薬が中和されたらそれまでの暗示ごと記憶が消えると聞いていたから、最後だからとつい出来心で……済まなかった。最低だった。俺のこの悪行に対しては君の気の済むように殴ってくれていい……!」
「え、ええ? それはでも……」
「俺のような卑劣な奴に躊躇うなフェリシア」
彼はさあ叩けと言わんばかりに頬を差し出すけど、むしろ最高だったと言ったらどんな顔をするかしら。
「マックス様、暴力は良くないです」
「う……」
「でもそうなんですね、記憶が消えるなんて作用もあったんですか。知りませんでした。なら張り切って飲ませても結局は無駄ですよね。仮に中和薬を飲まなくてもどうせ自然と薄まっていくんでしょうから、いつかは偽りの恋から目が覚めますよね。そんなの虚しいだけです」
「そうだな。あれは子供騙しなんだろう。大体、人の感情を魔法薬一つでずっと縛り付けるなど、およそ不可能だ」
「褒められた事でもないですしね」
「……そ、そうだな」
この時何故か彼はらしくなく目を泳がせたんだけど、彼も実は惚れ薬を買っていたなんて、そんなわけはないよね……?
何とそんなわけはあったんだけど、それはまた別の話。
「とりあえずあなたの言い分はわかりました。キスの件で私は怒っていませんし、その真逆です……実はと~ってもドキドキしました」
「えっ、そっ、そうか」
「あの、マックス様」
こほっと空咳をする彼のナイトガウンの袖をちょっと引っ張った。さっきから案外ちょいちょいチラ見せの鍛えられた胸元が誘惑してくるんだものー。
「これからはもう遠慮しなくていいですからね、キス。私もまたしたいです。私はあなたが大好きなんですもの、自棄になって惚れ薬を飲んでしまうくらいに」
「フェリシア…………ところで、あの惚れ薬は本当はどう使うつもりだったんだ?」
「ああ。ええと、自分で飲んで、マックス様を忘れて他の人を好きになろうと思っ――!?」
口を塞ぐように頭ごと抱き寄せられた。
「他の男をなんて、もう金輪際思わせない。どうか俺だけを見ていてくれ」
懇願の響きを孕んではいるけど、こんなのとても抗えない命令も同然よ。ううん、抗いたくない甘い蜜を内包している最高の報酬かもね。
「お馬鹿ですね、マックス様は。あなたが私を好きだと言ってくれたのに、どうして私があなた以外に目を向けるなんてするんです? そんな日は未来永劫来ません。今のは訊かれたから答えただけの以前の使用目的です」
私は両腕を伸ばすと彼の首筋へと絡める。
「ちょ、フェリシア?」
「ちゃんと仲直りした記念として、もう一度キスしませんか?」
彼は一瞬ポカンとした。けれどすぐに挑発的な笑みを浮かべた。
「おそらく長い一度になるが、それでも?」
「のっ望むところです」
マックス様は私の腰に腕を回してきた。
え、え~~、この体勢はちょっと、いやかなり危険なかほり! ドキドキよりも強いドッドッて心音が耳の奥に煩く繰り返してくらくらする。
「フェリシア」
「なな何ですかッ!?」
ああっ声が裏返った恥ずかしい~っ。マックス様は小さくくすりとする。
「ありがとう。俺を諦めないでいてくれて」
「――っ」
彼はすっかり私に心酔しているような顔ではにかんだ。救われた者があたかもその神を心から信じ切るように。
「……そ、その可愛さ反則ですよ」
「可愛さ?」
彼は自身に向けられる言葉としては大人になってからは初めて聞いたに違いないそれに怪訝にした。でも可愛いのは可愛いんだし他に表現しようがないんだからどうしようもない。
「何を言うかと思えば。可愛いのはそっちだろうに」
「な、うぅ、そのチャーム反則ですっ。罰としてキスの間はくれぐれも動かないで下さいね。さっきの……頬を殴ってくれの代わりですこれ。いいですね?」
「……」
「ね!?」
「……はー、わかった」
めっちゃ不満そうな彼を前にそれではいざ、と手始めに頬にちゅっと口付ける。
つっ次は口に、ちゅっと。
彼は観念したようにして罰の間は約束通り向こうからは何もしてこなかったけど、仄かな照明だけの二人きりの深夜の寝室は至福に満ちていた。
馬車の時より鮮明だからか幸せで全てが蕩けそう~。大満足っ…………て、あれ?
長~い一度じゃなく、いつの間にか二度三度と唇を合わせていて後頭部に手を回されて密着している。
きゃーっ嬉しい何これ何この濃厚なのって思う反面、今はここまでって息が上がって酩酊するみたいにのぼせる思考で焦った。ぐいっと彼の胸を押して顔を離した。ぷはーっ。確かに一度目は動かなかったけど、それ以降は解禁とばかりに彼の方からぐいぐいきた。ぐいぐい。離したのにまだぐいぐい。
「――っ、もうマックス様っ、これまでです!」
ピタリと動きを止め、やや頬を上気させた彼が艶を含んだ眼差しで囁いてくる。
「フェリシア、このまま帰すと思うのか? 危ないから夜這いはしないようにと言ったのに」
「……え? そこは帰りますよ? このままオールナイトラブしたいのはやまやまなんですけど、ちゃんとしたのは結婚式まで取っておきましょう。ふふふそれまではもっとデートをして親睦を深めませんと!」
「……なるほど」
マックス様は何だか一人落胆に耐えているみたい。こう言う婚姻に向かう手順こそきっちりしてそうな真面目な彼の性格に合わせたのに、うーん、不満なの? この人って時々よくわからないわ。
まあこっちとしても、ローブの下は動き易さを重視した可愛くない薄着だもの。見せたくない。
本当はもっと甘えたいけどこれ以上は私の頭がパンクしちゃうわ。
「マックス様、不束者ですが、明日からも変わらず婚約者としてどうぞ宜しくお願いします」
「ふぅ、フェリシアには敵わない」
不満そうなのを払拭してやりたくて意識して小悪魔っぽく囁くと、彼は小さく溜息をついて彼なりの落とし所に気持ちを落ち着けたようで柔らかく微苦笑した。
「本当に送らなくていいんだな?」
「本当に送らなくていいです」
「本当に?」
「本当に」
「……」
「……」
バルコニーに私を見送りに出てきてくれたマックス様は、とうとう溜息をついた。私はバルコニーから魔法具で庭まで下りるつもりでいる。彼には書斎の方から侵入した旨を告げて施錠をお願いした。あと忘れず謝罪も。
「……わかった。気を付けて帰るんだぞ? ああそれと、風邪を引くともしれないんだ、夜に薄着なのはやめた方がいい。いくらローブを上から着ているとは言っても、無防備が過ぎる」
「えっ、バレてました!?」
「まあ、そりゃあ抱き締めたりしたからな」
何て事っ。猛烈に恥ずかしい~っ。
「ごっご心配ありがとうございますっ。それでは今夜はこれで失礼しますねっ」
羞恥を圧し殺して小声で叫んでぱぱっと背を向けた。バルコニーの手摺に手を掛けた刹那。
「――フェリシア」
「――!?」
いきなりのバックハグ。
「本音は早く結婚したい。こうやって君を帰さないとならないのはすごく嫌なんだ。今夜は帰すが、次同じ事があったら帰す保証はないから」
囁いてくるマックス様の目は冗談じゃなさそうだったからちょっとドギマギした。こんな風に彼が少し不満にするのは、実はバルコニーに出るまで彼は私が一人で帰るのを案じてか、何度も何度も送っていくって主張していたのよね。それを却下したのは他でもない私。仕事がある彼の休息をこれ以上邪魔できないでしょ。
「うーんと、その時はその時です。結婚を早めましょう」
「え……いいのか?」
「はい。まあ臨機応変にと行きましょう。では改めて今夜はこれで失礼しますね。ご機嫌よう、親愛なるマックス様」
これ以上また甘く引き留められる前にと素早く魔法具を発動させた私は、ひらりと夜のバルコニーから飛び降りた。
明日からの新生婚約者ライフはきっと一味も二味も違うんだろう。ううん、私が同じになんてさせないわ。
赤く火照った頬がまた可愛らしいフェリシアが、艶やかな笑顔でバルコニーからまるで怪盗のように颯爽と去り一人取り残された感のあるマックスは、恋人を名残惜しげに見送る深窓の姫君宜しくバルコニーの手摺に手を置き暫し佇んでいた。
屋敷近くに繋いでおいたと言う愛馬を走らせ始めたのか、風に乗って微かに遠くから馬の嘶きが聞こえた。
「は、何て無邪気。こっちは耐えるのに必死で全然足りてないってのに、フェリシアはホント罪作り……」
正直なところ彼はげっそりしていた。ガックリと項垂れる。
「はあぁ~~~~。死ぬかと思うくらいキツかった……。俺の自制心は神レベルだよ」
先程も罰と言われてそこそこ大人しくしていたが、そろそろ限界にきてあわや朝まで帰せないような方向に手を出しそうと言う矢先、彼女が狼狽気味に終了を告げたので暴漢の謗りを受けずに済み助かった。結構心底本気でそう思ったものだ。
それとは別に彼は今日までの数年、嫌われていると思い込んで勝手に拗ねていた自分にグーパンしたい気分にもなった。ざっと百回くらい。
彼女への愛情を素直に表現していたならもっと素敵な許婚ライフを送れていたに違いない。
結婚時期も曖昧にされて先伸ばしになどされず、今頃は同じベッドで仲良く朝のキスを交わすのが当たり前になっていたかもしれなかったのだ。
すれ違う以前も、相手方の両親への印象を良くしようと言うよりは、二つも下のフェリシアを無駄に怖がらせたくなくて節度ある男だと真面目ぶったのも失敗だったかもしれない。すっかり信用され本気で手を出すとかえって嫌われそうで下手に手を出せなかった。
本当のマックス・エバンズは世間一般の男よりも余程狭量で執着心の強い人間だ。沈着と言うよりは冷淡だ。
もしも婚約者がフェリシアではなかったならば、不仲だろうと親密だろうと何の躊躇いもなくとっくに跡継ぎの義務と婚姻し抱いていただろう。
フェリシアだったからこそ、こうも手こずっている。
「彼女はきっとわかっていないんだろうな。俺が彼女の人生最大の脅威であり、最高に厄介な男なのを」
一度は自分は嫌われていると思い込み彼女の幸せのために離れようとしたが、それは大きな誤解でしかも向こうからこの手を掴んで引き留めてより踏み込んできたのだ。たとえ意思を翻そうとももう遅い。
いつも真綿で包むようにして大事にして嫌われたくないと思うのに、この先もしも彼女が離れようとしたならば全力で捕まえて鎖で繋いででも共に居てくれと懇願しかねない。彼女が折れて頷くまで解放だってしないだろう。
「はあ……我ながら病んでいる。こんな自分が嫌になるよ」
軽くこめかみを小突く。フェリシアはそんな昏い感情など知りもしないだろう。
とは言えこれがマックス・エバンズと言う人間なのだから冷静に自分を受け止めて尚且つ律しつつ、彼女を大切に慈しんでいきたい。決して離れたいなどとは思われないように。
「俺はもう君なしではいられないんだよ、フェリシア。他の誰にも渡さない。それがたとえ神だろうと、君は俺だけのものなんだから」
つい先程までのプチ幸せ時間を思い出し噛み締めながら、さて明日からは心機一転とより甘やかして行こうと彼は改めての揺るがない決意と共にそよぐ夜風に背を向けた。
彼女には、この上なくもこの恋に耽溺してほしいと願う。
パタリと静かにバルコニーの扉の閉まる音だけが残った。
夜風に吹かれる帰りの愛馬の上で、私は堪え切れなくてによによと怪しく笑う。
「マックス様愛してるーっ! 覚悟してーっ! もっともっとどーっぷり私に首ったけにさせるんだからーーーーっ!!」
私はどこまでも続くキラキラした星空の下、訪れるだろうめくるめく、この星空も霞むくらいに輝く明日へのわくわくとドキドキに包まれていた。
余談だけど、双方の屋敷じゃ私達当事者以外はこの一連の出来事に気付いていなくて幸い騒ぎにはならなかった。
すれ違いからの無事の両想い。
それは私達二人の最初のゴールでもあり、新たな始まりでもあるんだと、そう思う。