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ある不良野球部員の夏

作者: さく

狂っていた。

あの高校二年の夏、わたしは狂っていた。


長野県伊那市の、よくわからないうちに連れてこられた野球場の土の上で永遠に、ぼくはとにかくいつ終わるとも知れないダッシュを繰り返していた。半ば当てつけのように学生コーチに「俺がいいと言うまでだ」なんて言葉を吐き捨てられ、一ヶ月前、ぼくは後輩の家で氷結ストロングをしこたま飲み、便器にもたれながら一晩を過ごしていたことを思い出した。それがどうしたことか、いまでは模範的な、実に高校生らしい部活動とやらに勤しんでいると思うと、やはり昼間に食べた弁当と共に胃液が喉元まで戻ってくるような気がしていた。


夏合宿という名の、そこは生き地獄のような場所であった。


少し遠くホームベースのほうを見渡せば、クラスでは机を並べている同級生が日の当たるバッティングゲージで打撃練習に勤しんでいた。周りには代わりばんこでその球拾いに就かされている下級生がいる。打撃練習を行っているのはもちろんチームでもレギュラーになることを期待されている人間で、守備についている人間ははっきり言えばその添えものであり、それ以外の人間など、まるで賑やかし程度の価値しかないのだ。一握りのレギュラー選手でなければ野球をやっているというだけではもちろん女にはモテないし、誰も見向きさえしない。親だって自分の息子の未来に少しは期待していたはずなのに、そんな期待は木っ端微塵に打ち壊されるわけである。そして、日の当たる場所に立つことのできる学生はほんの一握りなのだ。とんだ残酷物語だと思う。


高校野球をやる上で、あるいはそれが遠い遠い夢物語であろうとも、甲子園を目指す、とかいうチームの目標がある中で、ぼくはその添えもの、賑やかしにすら達していない一介の三軍部員であった。有無を言わさずグラウンドの端から端を走らされ続けているぼくは、まったく、そうしたまともに野球をやらせてもらえている人間以下の扱いを受けていたのだ。


それも致し方のないことである。ぼくは冬にさして重病というほどのものでもないが病気にかかり、それにかこつけて入学から続けていた部活をいったん休部した。無期限の休部という建前で、ぼくの中ではもちろん戻る気持ちもなかったし、チームメイトにだってこいつは戻ってこない、そんな思いがあったことは想像に難くない。


いちおう小学生からなんとなく野球を続けていたのだから、いちおう高校野球に対する憧れはあったはずだ。ただ、続けていくうちに日の当たる場所というのはぼくにとって遠い、あまりにも遠すぎる場所なのだということを高校に入学しての一年を通して思い知らされたのだった。とにかく、ぼくは努力というものに対して堪え性がなかった。何かにつけて練習をサボったし、自主練習と名のつくものは一切行わず、いの一番にグラウンドをあとにした。


冬から続いた休部が長引き、やがて高校に入って2度目の夏になった。彼女ができ、成績も落ちるところまで落ち、そして悪い友人とつるむようになり、生活は荒廃した。日ごとに酒を飲み、二日酔いの状態で土曜の授業に出ることは日常茶飯事だった。そんな予定調和のもと、野球部を辞めるつもりだと大人たちに話した。しかし、大人たちはそれを頑として撥ねつけた。仕方がなく、ぼくはチームメイトたちの冷たい視線を受けながら野球部に戻ることになった。彼らはぼくの荒廃した生活をクラスでよく見ていたのである。なんでこんなやつが、そう思ったに違いない。でもぼくだって戻りたくて戻ったわけではなかったのだ。


さあ、あと何時間走らなければいけないのだろう。昼に食べた弁当はとっくのとうに便器に吸い込まれている。ちょっと前は酒を吐いていたおかげで、メシを吐くのも得意になってしまっていた。走って、止まって、また走る。その繰り返し。無限地獄。嗚呼。憎悪。頭が回っている。脳が掻き回されている。マネージャーの鳴らす笛の音がする。走る。また走る。水を飲む。飲んだそばから吐き散らかす。ぼくはどう、と倒れる。三軍の仲間たち、いや下級生たちは今更戻ってきやがって、と汚物を見るような目でぼくを見ている。


そんな日が幾日か続いた。宿に戻っての夕食も、まるで喉を通らない。見込みのあるレギュラーの茶碗には米が山盛りになっている。ぼくは誰からも見向きもされず、それでも気付かれないように隅っこで小さくなっていた。五泊六日の夏合宿、最終日の前日であった。翌日は朝からチーム内での紅白戦を行い、そのまま学校へと帰ることになっていた。まともに野球をやった記憶はない。ぼくは誰よりもただ走らされていた。ギリギリのところで食事を完食し、ボロ雑巾のように足を引きずりながら、そのまま自室へ戻ろうとしていた。そのとき、監督が寄ってきて思いもよらぬ言葉をぼくに告げた。


「お前、明日先発だから」


何を言っているのだろうか。思わず、はぁ?と声が出た。


「だから、お前、明日の先発だって言ってんの」


チームメイトたちの敵意のこもった視線が一斉に突き刺さった。


幸いというべきか不幸というべきか、ぼくは野球というスポーツの上で希少価値をもつ左利きの選手で、しかもかつて投手をやっていたことがあった。120km/hそこそこのストレートに、利き手方向に小さく曲がるシュート、どろんと曲がり落ちるスライダーを持ってはいたが、どれもここぞという場面でストライクを取りに行くにはどうにも心許なかった。そんな程度のピッチャーではあったが、一般的に多い右投手と左投手とではボールの軌道が異なるから、よい左投手という存在は敵にまわすととても厄介である。さらにチームには左利きの選手がおらず、まともな練習の機会もないことにはぼくも気付いていた。


ただ、先ほどまでまともにボールさえ触らせてもらえず、野球部なのか陸上部なのかわからなくなるくらい走り込みを続けていたのだから、まさかぼくは大会前の練習で仮想敵を務めて少しだけ脚光を浴びるくらいで、それでおしまい。なんて思っていたのだ。どうせやりたくもない野球なのだから、悪目立ちせず、空気のようにして消えることを望んでいた。


紅白戦といえば聞こえはよいが、実質は一軍二軍の対戦で、二軍で使えそうな選手がいれば上にあげてもらえる。そのかわり、一軍の選手は二軍に落ちることになる。だからそもそも二軍に負けるわけにはいかないし、あるいはぼくのような半端者に抑えられてはプライドが許さないのであろう。かつては同じグラウンドで共に練習に勤しんでいた一軍の同級生たちと、ぼくは二軍のピッチャーとして対戦することになったのだ。


久しぶりにボールを握った。変化球の投げ方がわからない。指のかかりも以前の感覚とはまったく違ったものになっている。そして何よりこの数日間の走りづめで、下半身がまったく言うことをきかない。これでは長くはもたなそうだ。ただでさえヘイトを買っているぼくが万が一活躍でもしたら、今までそれなりに矜持をもって練習してきた一軍メンバーにも立つ瀬がなくなってしまう。


ぼくはどこか浮ついた気分のまま紅白戦のマウンドに上がった。球も走っていない。変化球でひたすらかわし続け、なんとか序盤の三回を乗り切った。そして、この回は打席にも立たなければならない。


相手は右投げのオーソドックスなオーバーハンド、同じクラスの特にぼくのことを嫌っているやつだ。今更何しに戻ってくるんだよ、なんて陰口も聞いている。一軍でもこの秋からエース格と目されているが、なんせ性格がとにかく合わず、こいつだけは叩き潰したいと思っていた。入りは変化球のボール球が続いた。手を出すような球ではない。三球目、明らかに甘い外角高めのストレート。ぼくは脊髄反射のように強振した。


次の瞬間、ぼくは三塁ベース上にいた。いわゆるスタンディングトリプルだった。左中間真ん中を破った打球はフェンス際まで転々としていき、中継の処理がもたつく間に悠々と三塁へ到達できた。これまでの苦しみが晴れ晴れとした気持ちに変わった瞬間であった。次打者の内野ゴロの間にぼくはホームを陥れ、二軍チームに一点をもたらした。


それに比べて投球では毎回のようにランナーを出し、まるで褒められた出来ではなかったが、とにかく一軍に対して点をやることはなかった。二塁手のビッグプレーにも助けられ、なんとか七回までを零点で凌ぎきった。


ベンチに戻り、汗みどろのシャツを着替えようとしたら、監督から水とタオルが渡された。

「次からはファーストだ、よくやった。明日から一軍だ」


そんなわけで、春のセンバツに繋がる秋の地区大会、ぼくはエースナンバーを背負ってしまった。数ヶ月前まで退部することしか頭になく、二日酔いで登校してくるような人間が、である。


ちなみに地区大会は、初戦でエースナンバーを背負ったぼくがボコボコに打たれて負けた。ぼくのやる気も冬の厳しいトレーニングで完全にまた元の木阿弥となり、再度一軍のプレーヤーとして復帰することは二度となかった。たまの代走、二軍戦の敗戦処理、代打の三番手。それくらいがぼくの定位置だった。


そして夏の大会に負け、いわゆる「夏が終わった」とき、ぼくは一滴の涙も流すことはなく、ただこの地獄のような日々の終わり、そして喜びを一心に享受していたのであった。打ち上げには呼ばれず、服を着替えて繁華街へ酒を飲みに行った。


狂っていた。

今になっても夢に見るあの夏、灼熱地獄の中でマネージャーが鳴らす笛の音を、わたしは決して忘れることはない。

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