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第三話『引越し』

 一夜明ける。

 夜に比べればささやかながら陽光が部屋に差し込む。孫子は青年が起きる前から目を覚ましており、昆虫記は布団に篭っている。


「孫子。昆虫記を起こしてくれるかな。私はパンを焼いてるよ」

「良かろう。さぁ、起きよ! 昆虫記!」


 布団をバサっと上げると寒さに身震いする昆虫記がそこに居た。


「ふむ。起きているではないか」

「ふしゃー……ふしゃー……」


 布団を剥ぎ取られた昆虫記は昆虫を自分の周り纏わせて暖を取り、さらに孫子を少し威嚇していた。


「全く。それほど寒くもなかろう」

「寒いよ……寒い……」


 温度計は13℃ほどを記録していた。昆虫の活動気温といえば25℃程度がちょうど良く、13℃は活動できる気温ギリギリである。昆虫記は昆虫のように冬眠などは行わないが寒さには結構弱い。

 青年はキッチンから網で焼いたパンを何枚か持ちながらリビングに足を運ぶ。


「パン焼けたよ……って、おぉ、急に虫の大群が部屋の中にいるのを見ると結構びっくりするね」

「そう……じゃあね、虫さん……またね……」

「いや、大丈夫だよ。虫が特別苦手というわけでもない。ただ、そんな大群を見ることがほとんど無いからね」

「……そう。おいで……虫さん」


 昆虫といえども、能力で制御している以上、その昆虫たちにも意志がある。いや、意志があるというより、昆虫記の意志の下で動いている。

 突然飛んだら跳ねたり這い回ったりはしないから、そういった点で心配はいらない。


「では、食べようか」

「しかし、アレよの。昨日も思ったが、机が幾分か狭いな」

「そう……だね。少し……窮屈……」


 机もそうだが、新しく迎えた昆虫記と孫子と青年で住むには今の家自体が少々手狭である。

 それもそのはずで、青年は本来一人暮らしで十分なサイズを目安に借りたからだ。


「じゃあ今日、引っ越ししようか」

「ふむ。引っ越しとな?」

「この辺りは私が割と調べてるからね。元々、物語姫を迎えられたら引っ越そうと思ってたんだ。自給自足にはここは向かないからね」


 ただのアパートでは作物を育てることもできないし、こうも周りがコンクリートだらけだと、魚なども取れやしない。圧倒的に食料が不足している。今は何とかスーパーやコンビニなどから賄っているが、それも賞味期限や在庫などの関係で長くは持たないのは目に見えている。


「ふむ。確かにこの先連日カップ麺やパンだけとなると食生活にも偏りが出よう」

「うん……お野菜も……食べたい」

「余は魚を食したいものよ。酒があれば尚良い」

「酒は喉が渇くからダメだよ。水分も大事な資源だからね」

「ふむ……致し方あるまい」


 酒は生憎と嗜まない青年は禁酒の辛さというのがいまいち分からないが、孫子の心底残念そうな顔を見ると何故か居た堪れない気持ちになる。


「お引っ越しって……どこにいくの?」

「そうだね。海がいいかな」

「海……まぁ塩も取れるし、水分も有り余るほどあるが……海か。うむ……」

「安心してほしい。そんなに海が近くにあるわけじゃないし、水を運ぶのは私がするよ」

「それなら……いいかも……」

「では、水を運ぶ際は余の兵を連れて行くといい」

「ありがとう」


 とにかく、海の近くに引っ越すことに決まり、朝食を摂り終え、準備を済ませると、全員孫子の兵士たちの輿に乗った。


「とりあえず海を目指すのだ。何か異常があれば知らせよ」

「はっ! では、周囲の警戒を怠らずに海に進め!」


 軍勢というほどではないがそれなりの数の兵士が一斉に海へと動き出す。

 ここから近い海は湘南や茅ヶ崎、といったところだが、歩いていくには結構な時間がかかる。


「ふむ。久しぶり乗ったが、なかなか狭いな。おい、昆虫記もっと離れぬか」

「……むり。狭い……」

「まぁ元から一人用故に仕方あるまいか。そなた馬には乗れるか」

「馬? 乗ったことないかな」

「まぁ、であろうな。この現代で馬に乗った事は無かろうな。ふむ。では、余は馬に乗る。そなたと昆虫記で親睦でも深めておれ」


 そう言うと孫子は一時輿を下ろさせ、自らは馬に跨った。その馬は白く、蹄が黄色であった。見惚れるほどに美しい馬体をしており、他の馬とは持っている資質が違う事がすぐに分かる。


「多少はゆとりもできたであろう」

「あぁ。ありがとう」

「何、礼をする必要はない。そもそも主人はそなたなのだ。余が馬を持ちながら輿に乗ったのか間違いよ」


 孫子はさっと軍団の先頭に駆けていった。

 昆虫記も青年も自分から話を振る性格ではなく、沈黙が流れた。それは別に普段であれば苦ではない。

 けれど、狭い輿の中では互いの体は少しの揺れで重なり合う。それが年頃の昆虫記にとっては少しの気まずさを感じさせた。


「あっ……ごめんなさいね……」

「いや、いいんだよ。気にしないで」


 青年は笑顔を見せる。青年の外見は至って普通だ。特別整った顔立ちをしているわけでも、特別筋肉質なわけでも、洗いは逆に特別醜い顔立ちでも、特別太っていたり痩せているわけではない。普通の顔立ちに標準体型。背だってそこそこだ。それでも、何か魅力的に見えるのは青年には清潔感があった。それは、服装や何か後天的なそれではなく、元から備わっている清潔感だった。


「そういえば昆虫記の虫たちは普段はどこにいるの?」


 何の脈絡もなく青年が口を開いた。


「えっと……自由に、させてるから……分からないわ」

「そうなんだ」


 それだけ言うとまた沈黙に戻った。

 触れ合うには十分な距離。それが昆虫記の心臓の男をうるさくさせた。

 静かで小さな空間では少しの音が響いてよく聞こえるものだ。しかし、その小さな音を消すような大きな爆撃音が鳴り、輿が大きく揺れた。昆虫記の体は青年に向かって倒れ込み、昆虫記を抱き留めたがそれに押されるように青年も壁に体を預けた。


「危なかった。大丈夫かな?」

「あっ……あぁっ……えっ、と……うん。だ、大丈夫よ……?」


 青年の胸板に耳が当たる。どうやら青年もどこか心臓の音がうるさい。それは輿が急に倒れたからなのか、これのせいなのかはわからない。


「そなたら! 怪我はないか!」


 孫子が輿に急いで戻った。そして馬から降り、倒れた輿を持ち上げ、その隙間から青年と昆虫記は這い出た。

 輿が倒れた原因はどうやら、急襲を受けたらしいとのことだった。


「昆虫記を操っていた者らだろうか、とにかく襲撃を受けた。敵は姿を隠している。見えぬ敵とは厄介よな」

「見えない敵か」 


 子猫が一匹駆け寄ってきた。口元には檸檬を咥えている。


「こんなところに猫……?」


 周囲はほとんど形骸化したコンクリートで荒地となっている。生物がいるとも思えない。それでも猫がしかも檸檬を咥えている。とても不自然なものだった。

 猫は檸檬を置くと、そそくさとどこかへ消えていった。


「レモン……? なんだこれは」


 青年は手を伸ばそうとするが、微かな火薬の匂いを感じた孫子が身を挺して青年と昆虫記を突き飛ばし守りに入った。そしてその瞬間檸檬は爆発した。


「ぬっ……。なるほどな。姿が見えぬわけではない。相手は猫であったということか。全く。人外ばかりが相手とは余の兵法を活かせる機会が少なくて困るものよ」


 武装していたため、致命的な怪我を負うことはなかったが、それでもかなりの怪我を負ってしまった。


「大丈夫か。孫子」

「無論よ。防備を固め、レモンを咥えた猫を捕らえよ」

「虫さんは……空から探して」


 孫子は青年を中心に方円を組む。昆虫記は空から虫を飛ばして猫を探させる。防備と捜索を二冊で並行して行えるのは案外と相性は悪くない。


「ふむ、金城鉄壁。いつ見ても素晴らしいものよな。それに虫の知らせとやらも便利よな。余も蟋蟀(コオロギ)とか飼おうかの」


 孫子は悦に入りながらうっとりとしていた。


「……猫は……見つからない。もっと広げる……?」

「ふむ……たかが猫一匹、そう遠くにはいないはずよ。近くか……む、猫は? 他に何か見つかったのか?」

「なんか……いた……」

「めっちゃ重要そうではないか! それめっちゃ重要そうではないか!」


 南方の森の中に誰かがいるみたいだ。


「……む。しかし、あの猫が厄介よ。関係があるのかも分からぬしな。動くというのは軽率よな」

「虫さんだけでやってみる?」

「ふむ。争いとは最終手段よ。早まるべきではなかろう」

「そうだね。まずは猫を捕まえよう」


 引っ越しの最中に起きた突然の襲撃に動揺の色は隠せないが、大きな手がかりの一つになるかもしれない。

 そう思うと青年は一層身が引き締まった。

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