表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
わたしを見つける物語  作者: なづなゆめか
2/16

母の日 瑠璃ストーリー

1 母の日 瑠璃ストーリー


時々、何もかもに逃げちゃいたいって思うことがある。

……恵まれた環境にいる筈なのに何かを求めているように

その何かが何なのかはよく分かってる。

でも、どうしようもできない事だと知っている。

……誰かが私を包み込んでくれたらいいのに

……あの微笑みさえは私の心のどこかにずーっと刻まれていた気がして

 

「もう朝か〜」

スマホから陽気な音楽が鳴り響く。もう少し静かなアラームに設定したい所だけど、耳の奥まで煩いぐらいじゃないと二度寝しちゃいそうだから敢えて明るめな音楽を選ぶ。けど、やっぱり眠たい。昨日、お弁当の下拵えをしていたせいで寝るのが遅くなってしまった。

私の毎日は忙しいの連続だ。朝は五時起きでスマホをパパっと弄りながらカーテンを開けて憂鬱な朝を迎える。そして、お父さんのお昼のお弁当と私のお弁当を作る。朝ご飯作りも忘れない。パンをトースターで温めている時とか野菜を茹でてる間を使って、掃除と洗濯を終わらせる。その後に朝ご飯。一口五回は咀嚼すればオーケーというマイルールを実行しながら食べ終え、制服に着替えて、時間があれば授業の復習と予習を済ませる。今日はなんとか全てを片付けられた。

疲れたーと思った頃には学校に行かなくてはならない時間になっている。急いで準備しないと。朝はゆっくりしている時間がない。

「ふわぁ」

さっき起きてきたお父さんが今日も朝から大きな欠伸をした。ちゃんと睡眠取れてるのかなぁっていっつも心配になる。テーブルの上にあった新聞紙を広げ、忙しなく動く私を横目でジロジロ見ていた。

「瑠璃、今日もありがとう。でも、たまには休むってことも必要だぞ。お父さんにも仕事を設けてくれよ」

「いいのいいの。私の心配より自分のことを心配してよね」

お父さんは近所のスーパーに勤務していて、社員として働いている。あまり仕事の話はしないけど、いつも大変そう。普段は九時出勤だから私よりは朝がゆっくりだけど、電話が掛かってきて、早朝に入ることもあるからお父さんがいつでも家に出られるようにお弁当はなるべく早く作り上げる。お父さんは、いつも私の体を心配してくれている。そりゃあそうだよね。朝から家事して毎日バタバタで本当に大変。

だけど、お父さんは仕事に集中していてほしい。

だってお父さんまで居なくなったら……私は一人になる。

だからお父さんには家事を任せられないよ。

この十八年間、ずっと二人で過ごしてきた。それが当たり前だったからなんとかやれてこれたんだとは思う。

幼い頃はお父さんが仕事の間はおばあちゃんの家に居ることが多かったっけ。

おばあちゃんの家に居るのは嫌じゃなかったけど、やっぱり家にいる方が何倍も楽だったな。

……だっておばあちゃんの家に行ったら、お母さんのことばっかりで寂しくなっちゃうから。

……おっと。いけないいけない。私何ボーッとしてるの。

早く学校の準備しなくっちゃ。私は急いで自分の部屋に入った。

「よし。ゴミ出しも完了。学校だー」

洗面所で軽く前髪を整え、早足で玄関まで向かった。

「行ってきまーす」

重い荷物を全身に纏い、さあ今日も出発。

ドアを開けると、眩しい太陽が今日も人間達を見下ろしていた。

まだ五月なのにもう三十度越えなのが有り得ない。夏場は暑すぎて毎年畳に寝転がって死にかけの蝉のような状態になっていたけど、今年もそうなりそうだな。あー。今でも結構しんどいなぁ。でも、憂鬱なことを考えてちゃダメだよね。前向きに前向きにっ。だって今日はまだ始まったばかりだもん。今から落ち込んでちゃどうするの。

そう言い聞かせながら歩いていると、

「るーりー」

と声が聞こえた。後ろから視線を感じる。だんだん近づいてきて、私の肩をキュッと持った。元気な声、小さな手。そして独特なあだ名。これだけで誰かは直ぐにわかる。私はサッと後ろを振り返った。可愛い可愛いあいながいた。

「るーりー、暑いよぉ」

「あ。ちょっ、あいな。重い重い」

フラフラと私の肩に身体をそのまま倒してきた。凄くしんどそうな顔をしているけど、いつものことだろう。あいなの身体には汗が纏わりついていた。

「はいこれ。ハンカチ、これで汗拭きな」

私はポケットからタオルハンカチを取り出してあいなの首元や頬の辺りを優しく摩った。

「あのねっ。今日ねっ。全力で走ってきたんだよっ」

「あ。また起きられなかったんだなぁ」

悪戯っぽくそう言うと、あいなはムッとこちらを見てきた。

「違うよー。風が私に話しかけてくれたから」

「またそれー」

「もーう。毎日のことなのー」

プクッと頬を膨らませてたけど、その後直ぐにまた表情を変えてニコッと笑うあいな。いつも感情を豊かに表現してくれるから凄く分かりやすい。昔から一緒にいるから、顔を見ただけでなんとなく気持ちが読み取れてしまう。本当に見ていて愛おしく思う。


「るーりーには見えない何かが見える?」

あいなは時々、おかしな事を言う。

「何も見えないよ」

「えー」

「今日はどんなのが見えたの」

「えっとねー」

あいなは、両手を大きく広げて、私に話してくれた。

「こーんな感じの雲にー、お目目が付いていてー。とにかくすっごーい可愛い子が見えたの。わたあめ王国のお姫様だったのかも」

「へー。その人はあいなのことを知ってるの?」

「うーん。わかんにゃい。けど、みんなのこと、見守ってたよ。だからあたし達のことも見てくれてるのかも」

「あ。ほら」あいなは人差し指をピンと伸ばして雲を指した。

「あの子なんてー。私の事見て笑ってるよ」

「……私には見えないなぁ」

あいなワールドには今日も入り込めなかった。

「でもるーりーもいつかきっと見れる日がくるよっ。さぁっ、今日もレッツゴー」

あいなは手を上にあげ、ルンルンにスキップをして走った。

「あー。もうっ。急に動くんだからー」

私はあいなの後ろを必死で追いかけた。

クラスメートの子達は、彼女のことを”変わっている子”と言っていた。

あいなは少し、いや、かなり変わっている、と思う。だけど、その言葉は未だに私の中で刺さってしまう。

本人の前でも、同じことを言ってないよね?大丈夫、だよね?

ううん。私がそうならないようにしなきゃ。いつでもあいなの傍に居てあげないと。

「るーりー、遅いよぉ」

ハッとなった。もうあいなは学校門まで着いていた。そして、私に元気よく手をあげてブルブルしている。はーい、今行くーと適当に返して、あいなの元まで走った。

完璧な私でいなくっちゃ。そう心に入れながら、今日も学校門を潜った。


「瑠璃とあいなちゃんおっはよー」

教室へ入ると、クラスのみんなが今日も私とあいなを囲むように集まってくる。

おはよっ。あいなは目をキラキラさせながらみんなに笑顔を振りまいている。私もその横でおはよと返す。

「瑠璃ー。宿題教えてぇ」

「後輩から瑠璃にって手紙を受け取ったよ」

「ヒーロー。シャーペン忘れたから貸して」

こうやってみんなが集まってくるのは、いつの日からか当たり前になっていた。

「はいはい。みんな順番順番」

私は常に笑顔でみんなの期待に応える。これが私の思う完璧だと思っている。人に喜んでもらえるといい事をしているみたいで嬉しくなるんだ。

……みんなを助けられる人になりたい。

あの出来事をきっかけに、私の思いは増していったんだ。


ランチタイムの時間になった。毎日色々な人と机を囲んで食べるのが日課なんだ。

いつもの他愛もない話が始まる、筈だった。

「ねえ。もうすぐ母の日じゃん」

一人の子がそんなことを言い始めた。胸の奥がキュッと苦しくなる。それは私の前で一番話題にして欲しくない事だった。

「みんな、何をプレゼントするの?」

「母の日と言えば、やっぱりカーネーションじゃない?」

「私は実用的な物かなぁ。ハンカチとかっ」

「へー。いいねいいね」

「私、お母さんの好みよく分からないから、焼き菓子とかにしようかな」

……お母さん、か。

みんなが目の前で盛り上がっている。

何か反応しなくちゃ。そう思ってはいても言葉が出てこない。ここで私が合わせると言うのがベストだろうけど、どういう風に反応すればいいのかが分からなかった。

「ねぇ。あいなちゃんは?」

一人の子があいなに問いかけた。あいなは私が黙っているといつも黙ってる。今の話、付いていけなかったかな。……説明、した方がいいかなと思ったけど、うーん。考えてないっ、といつもの笑顔で返答していた。

もしかして、私が黙ってたから?あいなも話さなかったの?

あいなはいつも明るくて子供っぽくて結構マイペースな所もあるけど、私のことや周りのことをしっかりと見ているように思う。

私がお母さんのことで気にしていることをあいなはよく知ってくれているし。

そんな事を考えていたら遂に、ねぇ。瑠璃は?と言われてしまった。

「さっきから黙ってるけど、大丈夫?」

みんなの視線が一気に私の方に向いた。

「あ?私?私も悩んでるー。けど、やっぱり手料理?とかかな?」

適当に答えてしまった。

手料理、は得意だからであって実際にこれまでお母さんの分まで作ったことなんてない。

お母さんの誕生日とか命日の日はおばあちゃんの家で何かしらご馳走を食べたことはあったけど……やっぱり何処か引っかかってた。

……結局作ったって受け取って貰えないと知っている。

……だってお母さんは、私の傍に居ないんだから。

「うわぁ。流石瑠璃。瑠璃のご飯美味しいもんね」

「絶対喜んでくれるよっ」

目を見開いて笑う友達。

「うん。ありがとう」

顔が少し引き攣った気はするけど、みんな多分気づいていない。けど、隣にいるあいなから少し視線が向けられているような気がする。目がこちらをジーッと見ているような感覚。やっぱり、あいなはあいななりに見守ってくれてるのかな。

それからも母の日の話は続いた。みんな、お母さんに喜んでもらいたいと張り切っていた。そして私は私なりに話を盛り上げようと頑張った。

やっとランチタイムが終わり、五限のチャイムが鳴った。

……ハァ。私は大きな溜め息を付いた。いつもは楽しい筈なのに、今日はかなり疲れてしまった。

昔みたいに、本当のことを言うと、みんなどう思うんだろう。


小学校の時。確かあれは授業参観の時だ。友達が私をお母さんに紹介したいって言い出して、何人かの人と話をしたことがあった。みんな家に帰って私の話をしていたのだろう。大人達からもあだ名で呼ばれることがあったっけ。私に駆け寄って貴方が噂のヒーローなのね!なんて言いながらやってきたのだ。

基本人見知りをしない私は、同世代とか先生とか大人とか関係なく挨拶はするし、他愛もない会話だってできる。そんな姿をお母さん達はよく褒めてくれた。うちの子もこうだったら良いのにーとか言いながら口々に笑うのだ。それが偉いのかはよくわからなかったけど。

一度だけこんなことを言われたことがあったんだ。

『そういえば瑠璃ちゃんのお母さんは今日来ていないの?いつもお世話になっているから挨拶をしたいの』

少しだけドキッとした。だけどしっかりとした口調で話した。

私、お母さんいないんです。

ただ、それだけ、だった。

余裕気な表情を、作った。悲しくない、言われても平気、みたいな顔を態と作った。

当時の私は、お母さんが居ないことを話すということが嫌でも恥でも無かった。ただ、少しだけ戸惑うし悲しくなるのは本当。だけど、嘘はつかない。付く必要性なんてないじゃない。絶対向き合わなきゃいけないことなんだから。

そうやって素直に答えただけだったんだ。

友達のお母さん達はみんな目を見開いていた。そして思ってもみないことを言われた。

『え。お母さんいないの』

それだけで、よかったのに。可哀想にとか大変ねぇとか何も知らない筈なのに平気でそう言ってきたのだ。

……それは求めていた言葉じゃない。明らかに冷たい目をしていたような気がした。無意識に辛くなって俯いてしまった。

それを察したのか大人達は急に慰め始めた。

『でも、瑠璃ちゃんはしっかりしているからお母さんが居なくても大丈夫よ』

『そうよね。常にニコニコしてるんだもの。お母さんが居なくても幸せそうじゃない』

私は言葉を失った。

『……あっ。用事があるの忘れてましたっ。今日はもう帰ります。ありがとうございました』

私は笑みを浮かべながら逃げるようにその場を去った。

……そりゃああの人達が驚くのも当然だろう。

じゃあ私は、あの人達になんて返してもらいたかったの?

そうだったんだ、だけで終わらせてもらいたかったのか、へーって軽く相槌を打たれたかったのか。

よくわからなかった。

だからこそ、思ってしまった。

お母さんがいないと素直に言えば、自分が傷つくだけなんだということを。


ランチタイムの母の日の話題のせいだろう。五限の授業に集中できない。

先生の板書をノートに写しながら、お母さんを頭に浮べる。

私のお母さんは偉大な人だったらしい。親戚の家で集まる時、いつもその話になる。

長谷真月。お母さんの名前だ。お母さんは、明るくて、前向きでいつも笑顔だったらしい。困っていたら直ぐに駆けつける。私とおんなじヒーロー。近所では有名だったらしく、とても眩しい存在だったのだろう。

私にお母さんが居たということを知った時は驚いた。そもそも、お母さんってどういう人なの?という根本的なところから始まった。

だって私は、お母さんとの思い出なんて何一つ無いんだから。

初めて知ったのは三、四歳くらいだった。

親戚はお母さんのことをみんなヒーローと呼んでいたことから始まり、色々なことを教えてもらった。私を生んでくれたお母さんは凄い人なんだと聞いていてワクワクした。

『瑠璃ちゃん。瑠璃ちゃんもお母さんみたいに人から頼られる人になりなさい』

『うんっ。私、お母さんみたいな完璧な人間になりたいっ』

いつしか、そう思うようになった。

それは、凄く簡単なことだった。幼稚園では前に立ってみんなを笑顔にしたし、愛嬌良く振舞って人を喜ばせていた。

すると、お母さんを知っている人達から、私を見ていると、真月ちゃんを見ているようで嬉しいと口々に言い始めたのだ。

そして、私にまでヒーローと言うあだ名が付けられて、近所では一躍有名人になった。

小学校に入っても、常にヒーローとして強く優しくを心がけた。気がつけば、師匠やら大将やら男の子達からも賞賛されて、最初は良かった。

……良かったのに。

友達のお母さん達からあんなことを言われると、モヤモヤしてしまったのだ。傷つかないわけがない。

次の日、昨日の授業参観の話でみんなが盛り上がっていたんだ。

『手を挙げて発表してたから、ママが昨日褒めてくれたの』

『私も。ねぇ、今度ママ達で食事に行くんだって』

『どこ行くんだろうね』

みんな凄く楽しそうで、私は聞きたくなかった。

『瑠璃ちゃんのママはおやすみだったの?』

ドキッとした。仕事だったって嘘付こうかな、なんて思ったのに、言う暇もなく、瑠璃ちゃんってお母さん居ないんだって。昨日ママが言ってたと一人の女の子から事実を言われてしまった。

全身が冷たくなった。胸がドキドキして止まらなくなって、この場から逃げたい一心だった。

『ちょ、ちょっとトイレ!』

逃げるように教室を出て行った。息が苦しくて、数分トイレに籠ることにした。それで一度、気持ちを落ちつかせるために、お母さんと向き合うことにした。勿論数分では無理だった。

私はお母さんに会えないのかな。

これからも、ずっと。

……何言ってるの。私。

こんな所で蹲ってちゃダメじゃない。こんな事でへこたれてたらいけないわ。こんなの誰も望んでないもん。もちろんお母さんも。

だから、これからも強く、完璧な私で居なきゃ。

辛い時は少しでもポジティブな言葉を見つけては自分に投げかける。その時は、それでなんとか立ち直ろうとしていた。

ギュッと辛夷に力を入れて、再び教室へ戻った。

それからも私は、これまでの私を辞めなかった。辞められなかった。

完璧な私を、みんなに見せている限り、ずっとヒーローで居なくちゃ、そう思った。そして、変わらず楽しく学校生活を送ろうと心がけた。そのせいでなのか、より一層周りのことが気になって、敏感に反応するようになってたっけ。

やっぱり家族の話になると、気持ちが重たくなることに変わりなかった。


……はぁ。

部屋に籠って大きなため息をついた。

今日は調子が悪かった。自分では何も気にしてないと思っていたのにな。家に帰ってからも、脳裏にお母さんというワードが引っ付いて離れてくれない。

食欲も湧かなくて、夜ご飯を抜いたらお父さんに心配されちゃったし。

あーあ。ダメだなぁ。

光の無い部屋で、布団に被ってグズグズしている私。

それにしてもこんなにも疲れきっているのに、どうして眠れないのだろう。いつもならぐったりなのにな。

敷布団の上で仰向けになって天井を見つめる。

……

真っ暗。今、何時なんだろ。

考えれば考えるほど目が冴えちゃった。

……ここまで眠れない夜は初めてだと思う。

夜中って静かだなぁ。

誰にも邪魔されない、一人の時間が送れている気がする。

学校ではみんなと一緒だし、家に帰ってからはお父さんが居るし、やらなきゃいけないことだってある。

やっと自分の時間だと思えば、夜遅くになっちゃって眠りにつかなければならない。

それなのに今日は何故か寝つきが悪かった。

「……落ち着かないなぁ」

部屋から出たくなってフラフラとリビングへ向かってみた。

ふと見ると、ベランダに繋がるドアの網戸が開いていることに気がついた。最近は暑いからって少しでも風を入れようとお父さんが開けて寝ているのだ。そこから入ってくる風が凄く心地よくて気持ちよかった。日中は暖かいけど、夜はまだ体が冷えるなぁ。そんなことを思いながら、夜の風に癒される。カーテンがゆらゆら揺れて、僅かの隙間から夜の景色が見えた。特別綺麗な景色が見えた訳じゃないけど、なんとなく引き寄せられる。勝手に足が動く。そのまま、真っ直ぐ進んで、ベランダの柵を軽く持った。目の前には夜の街の風景。数箇所に設置された電灯が家々を灯していた。日中は賑やかだけど、夜はシーンと静かでどこか寂しげな雰囲気に包まれていた。昔は暗いのが大の苦手だった筈なのに、今じゃこんなの余裕だな。

ぼんやりと景色を眺めていた。

……

ふと、我に返る。

……寝なきゃいけないのに。

時々何もかもに逃げちゃいたいって思うことがある。

……恵まれた環境にいる筈なのに何かを求めているように。

その何かが何なのかはよく分かってる。

でも、どうしようもできない事だと知っている。

……お母さんはこの景色を見たことがあるのかな。

ふと、そう思った。

……あ。

どうしてだろう。どうして、こんな時でまで、お母さんを求めちゃうの。

まぁ。私には、きっと、お母さんが居て欲しいんだろうな。

……寝よ。

うつむき加減に家の中へ入って、そのまま自室に戻ろうとした時。

ある物が視界に入った。

……私は真っ直ぐにそこへ向かっていた。

そして、無意識に、仏壇の前に正座をしている自分が居た。

電気さえも付けず、こんな夜中に真っ暗なリビング。私は一体、何がしたいんだか。当たり前だけど、こんな状況下だとお母さんの写真がハッキリとは見れない。

それでも。

居たくなった。

「……ん」

……

寝なきゃ。

明日も早いし、 さっさと部屋に。

そう思って、立ち上がろうとした、のに。

……涙?

目から、液体が、勝手に、出てきた。

自分でもよく分からなかった。

……私、泣いてるの?

涙を流したのは何時ぶりだろう。しかもこんな夜中に。

いや、私が泣くなんて、初めてかもしれない。何処でだって弱音を吐かず、カッコイイ自分を見せていた。

中学の限界だったあの時でも、泣くほどではなかったし。

高校ではあいなを守ることを最優先にもっともっと完璧な私で居たはずだ。

私、とうとう限界を超えちゃったのかな。

よくわからない、けど、胸が苦しい。

「だって私は……!」

周りが言うように恵まれていて、友達も沢山いる。みんなから頼りにされてるんだよ。勉強も学校も苦じゃなくて、お父さんとだってやっていけてるしさ。お母さんが居なくても十分幸せの筈じゃん。なのに……何泣いてるんだろ。ほんと私らしくないな。私は必死で涙を拭った。だけど、収まる気配はなく、どんどん溢れ出てくる。

その時だ。

「瑠璃」

耳の奥の方から囁くような声が聞こえた。

「え?」

誰かが私を呼んでいる?いやいや。何を言ってるんだか、私は。とうとう頭がおかしくなっちゃったのかな。

そう思った。けど。

「ヒーローが何泣いてるのよ」

……え?

今度はハッキリと聞こえた。

……ヒーロー?それって私のこと?

「ほら。こっちよ」

……ついに幻聴が聞こえるようになっちゃった?

いや。流石にそれは……

静かに顔を上げた。目の前には仏壇、その上にはお母さんの写真が置いてある。

特に変わった様子はない。なんだ。誰も居ないじゃん。一瞬、そう思ってたのに。

「ここだよ」

それでも声は聞こえ続けた。……怖い。

「だ、誰?」

もしかして、お父さんが驚かしてる?こんな夜中に?しかもこの声、明らかにお父さんみたいなおっさん声じゃない。

どちらかと言うと、女の子……?

「ほら。ここだって」

「キャッ」

つい、悲鳴を上げてしまった。

だって、だってだってだって……。目の前に……人が、いた。動揺して口元が震えている。

「ちょちょちょ。誰?」

この状況が、理解できなくてテンパってしまう。一旦落ち着こう。……いや、落ち着けないわっ。心臓からドクドクと変な音が鳴って、おさまってくれない。

……もしかして泥棒?でも、どうして私の名前を?

暗くて目がハッキリとは見えないけど、シルエットからだと明らかに人間だということはわかる。

「瑠璃、一旦外に出ましょ」

訳が分からないまま、見えない誰かが私の腕をギュッと掴んだ。

「え?え?ちょっ。離してよっ」

私は、必死に抵抗する。

「シーッ。静かに。りゅうくんが起きちゃうでしょ」

……りゅうくん?りゅうくんって……お父さんか。

だとしたら、お父さん絡みの人間?なんでこんな夜遅くに……

「とにかく、外に出ましょ」

「待って待ってちょっと待って」

玄関前で勢いよく腕を振り払った。

……よし。冷静に話そう。人を叱り付ける時と同じような口調で話し始めた。

「泥棒?なら、お金はないわ。それともお父さんの知り合いですか?お父さんに許可取りました?取っても取らなくても人の家に勝手に入ってくるなんておかしいでしょ。しかもこんな」

「ちょっ。声が大きいわよ」

さっきよりも急接近で私の目の前に来て、手を私の口にそっと置いてきた。一体、なんなの?

「落ち着いて。落ち着いて聞いてほしい」

「私は落ち着いてるわよ」

「嘘。さっきめちゃくちゃ怖がってたじゃない」

「……違うしっ」

……あれ。私、なんでこんなに普通に喋れてるんだ?

こんな夜中に勝手に家に入ってきて、動揺しながらも必死に冷静になって、訳の分からない人間と会話までしてる。

それでも、肝心の顔が見れないと意味が無い。家の電気を付けるべきだけど、なんとなくお父さんが起きてきそうな予感がした。

あ。そうだ。靴箱の中に懐中電灯があることを思い出した。探してみよう。

私は急いでガサゴソと探し始めた。

「お願い信じて。私は泥棒でもなんでもないの」

私の行動を止めたいのか、凄く戸惑っている泥棒。いや、人の家に入ってる時点でおかしいからっ。

懐中電灯はなんとか手で探り出した。暗くて探すのに億劫だったけど、これでもう大丈夫。

「正体を明かしなさいっ」

懐中電灯を取り出して、犯人に光を当てた。

「キャッ」

「え!」

正体は、制服姿の女の子だった。一番最初に目に入ったのはセーラー服。しかも超見覚えのある制服……私と同じ学校のだ。よく見るとかなり色褪せている。

泥棒は眩しい光に恐がっていたものの、慣れたのか直ぐに平静を保った。

私の方はと言うと……信じられなくて驚愕している真最中だ。

見覚えのある人が目の前に居るのだから。

信じられない。同じ学校の人が、悪戯で家に侵入して来たと思った。でも、流石にそこまでする人なんて普通じゃ考えられない。しかもこんな真夜中に……

それでも、私は彼女の顔に見覚えがあった。だけど、それは写真だけであって実際に会ったことはなかったのだ。

くるんとした瞳。ぷっくりした唇。髪は一つに束ねていて上からだらんと綺麗に垂れ下がっている。彼女が動く度に微妙にポニーテールが揺れている。

目の前にお母さんにそっくりな人がいて動揺しない人なんて居るのだろうか。


お父さんが起きちゃうかもということで、私は彼女と一緒に外へ出ることにした。こんな夜中に家の前で人と会話をしたことなんてない。

「驚いた?」

彼女はニコッと笑いながら私に問いかけた。

「……うん」

……私は夢を見ているの?それとも現実?

「……とりあえず、名前教えてよ」

「私は真月よ」

ハッキリとした口調で応えてきて鳥肌が立つ。

「ま……つき?」

「えぇ」

「本当にお母さんなの?」

「……驚かせてごめんね」

驚くも何も……どうしてお母さんがこんな所に?

「瑠璃。行きたい場所があるから私に付いてきてね」

彼女はまたもや私の腕を持って、歩き出した。

「ちょ。待ってよ。え?どうなってるの?ま、まぁいいか」

そうやって混乱してはいるけど、様子を見てみよう。もしかしたら、夢かもしれないし。夢なら何処かで目が覚めるでしょ。それに、少しだけ付いていきたいという好奇心も芽生え始めた。

だって、今、私の前に、ずっと会いたくて話したくて堪らなかった人が居るんだもん。

お母さんの手を握りながら、着いていく。

……温かいなって思った。


「え?」

辿り着いたのは、学校だった。夜の学校なんて初めてだ。何処か不気味な雰囲気が漂っている。学校名の書かれているプレートが暗くてよく見えない。静かで風の音しか聞こえない。

「入りましょ」

「え。入るの」

「いいからいいから」

お母さんは私の手をギュッと握ったまま、学校門を潜った。

それにしても色々と不思議。お母さんがここのセーラー服を着ているのも、私の学校に行きたがるのも。……もしかして母校だから?

「そもそもなんで門が開いてたのよ」

「私が開けた」

「お母さんが?」

「凄いでしょ」

エッヘンと自慢気な顔をしたお母さん。それに釣られてこっちまで笑っちゃう。

状況的には全然大丈夫ではないけど、このままずっとお母さんの手を握ってたい。そう思った。

学校に入って、エントランスまで来た私達。やっぱり中は真っ暗で電気は一つも付いていない。これは、いつお化けが出てきてもおかしくない。流石の私でも、お化けを倒すことは無理そうだ。

「瑠璃。行こうっ」

明るく笑いかけるお母さんは、どんどん前へ進もうとしている。私は立ち止まった。

「こんな暗い中何をするつもりよ」

「学校見学よ」

「学校見学?」

「そ。久しぶりの学校だから。瑠璃、案内よろしくね」

お母さんは私の持っていた懐中電灯をシュッと取って光を当てながら再び歩き出した。

「はい。瑠璃が先頭ね」

背中をポンッと押され、お母さんの前に立った私。……何時になれば家に帰れるのだろうか。いや、でも、これは夢の中だ。絶対にそう。だって私の隣にお母さんが居るなんて、おかしいんだから。それなら、まだこの夢の時間を存分に堪能しよう。

「どの教室が見たいの?」

「うーん、全部!」

「いやいや、広すぎる広すぎる」

「なら、第一理科室とかが見たいな」

「今は第二理科室しか使ってないよ」

「えー。ないのー?」

「うん。かなり前に潰れされちゃったし」

「え?昔の校舎って全部無くなっちゃったの?」

「一つだけならあるけど」

「なら、そこ行ってみたいなっ」

「はいはい」

私はお母さんに学校を案内することになった。

この学校は中学も高校もくっついていて、他の学校とは違って、少し特殊な仕組みになっている。話すと長くなるから省略するけど、とにかく面白い学校なんだ。

この辺の人口が多いことから生徒数が多くて学校全体がかなり広い。だから、入学当初は全然慣れなくてよく迷ってた。

あ。そうそう。私、この学校は中学の時から通っているの。私立でお金も掛かるから別に公立でも良かったんだけど。普段の生活態度が良いからとかお母さんが元々ここの学校だったからとかで学費が殆ど免除されるって話になったのが始まりだった。正直、小学校の子達にお母さんが居ないことを知られてしんどくなっちゃってたし。単純に環境を変えたい気持ちもあったからみんなとは中学から違う方へ行ったんだ。……まぁそれからも色々あったんだけどね。

でも、今ではこの学校に入って良かったって思ってる。

小学校の時から変わらず完璧でヒーローな私になれている筈だから。

……ううんっ。あの時よりもっともっと強くなってるんだからっ。


旧校舎へ向かう途中、お母さんとの会話が弾んだ。

瑠璃はここへ通っているの?

通ってるよ。お母さんと一緒だね。

ねえ、お母さん呼び恥ずかしいから辞めてよ。

え?なんで?

今、私も女子高生なんだもの。

女子高生?お母さん、大人でしょ。

まぁ、そうだけど。気持ちは女子高生なのっ。

ははっ、何それ。

暗くて表情はよく見えないけど、懐中電灯を色々な方向に当てて、楽しそうな様子だ。それは私も同じだった。さっき会ったばかりなのに……不思議。

「それにしても、本当に変わったなぁ」

学校の中を見て、お母さんはしんみりした顔で言った。

「でしょ。お母さんは昔と今、どっちが好き?」

「うーん。今の学校も素敵だけど……やっぱり昔かなぁ」

数年前に殆どの校舎を取り壊して、新校舎になったと前に先生が話していた。だから、お母さんが通っていた頃とはかなり違うからそりゃあ思い入れがあるんだろうなとは思う。

「着いたよ」

旧校舎に到着した。色々な教室を通り、新設された当初から唯一残ってある棟だ。だから旧校舎と行ってもほんの一部分に過ぎない。引き戸を開け、ここで初めて部屋の電気を付けた。新校舎には防犯カメラが付いているから、電気をつけたら泥棒が入ると直ぐにバレてしまうけど、旧校舎まで来たら監視されていないから大丈夫。まぁ、夢の中だから関係ない事だと思うけど。一応、念の為だ。静かな空間にパチッと地味な音が響いた。お母さんの顔がハッキリと目に入った。それを見て直ぐには言葉が出なかった。ポニーテールでセーラー服を着た高校生姿のお母さん。私はただただ、お母さんを見つめていた。それは、お母さんも同じだった。けど、数秒後に「瑠璃」と私の名前を読んだから、私はそれに返答せず、”笑い”という表情で表した。

……本当のお母さんが目の前に居る。なんとも言えない不思議な光景だ。

校舎の中に入るとすぐ目の前に階段がある。旧校舎は二階まであって、一階は二、三個の教室。二階は小さな屋上のような場所がある。屋上というには小さすぎるだろうか。家のベランダの二つ分位の大きさだ。まぁ、うちの家は他の家と比べると狭いからそこと比較するのもどうかと思うけど。

新校舎は全てコンクリートで出来ているのに対し、旧校舎は全てが木で出来ている。アスファルトに足を付けると、ガキガキっと音がしたり、木の独特な匂いが漂っているから私はここが好きなんだ。休憩したい時の避難所のような場所。それに、ここを必要としている人だっているんだから。

「うわぁ。懐かしーい。やっぱりいいなぁ。ここの棟全部が隠れ教室みたいな所だったし」

「え。その時から?」

「その時からってことは、今も?」

「うんうん。だってここ、適応指導教室の場所だし」

「何それ。はじめて聞いた」

「ほら。ここに書いてあるでしょ」

私は、お母さんに教室の引き戸に貼ってある看板を見せた。

「それってどういう場所なの?」

「訳あって教室に入れない子の居場所みたいな感じかな」

「へーぇ。そんな場所ができたんだね」

「うん。先生、かなり説得大変だったみたいだけど」

「説得?」

「こんな場所、必要ないって言われたらしくてね。今じゃフリースクールとかエヌピーオー法人とか色々な支援があるから、そこら辺に任せとけばいい、態々学校でやる必要はないって凄い怒られたんだってさ」

「フリースクール?エヌピーオー?」

お母さんは不思議そうな顔をした。

「あー。話混乱させてごめんね。お母さんの時、そういうの無かったよね」

きっと、お母さんの時代の頃は、学校が凄く厳しい時代だったんだろうな。

今はそれが改善されてる世の中になってきていて、みんなが少しでも生きやすい場所へと変えようと頑張っている人がいる。その一方でそれに乗り気じゃない先生が多いのも現状。だから、先生は、この居場所を壊さないで欲しいとかなり説得したんだと思う。

私は軽くお母さんに説明した。

「そうなんだ。先生っていうのはここの担任みたいな人?」

「そうそう。養護教諭だよ。日々多忙って感じ。色々頑張ってるよ」

「へぇー凄い人なんだね。私達の時にもこういうのがあれば、いきやすかったのかな」

最後の言葉に少しだけ引っかかる。お母さんのことはかっこいいヒーローとしか知らなくて、欠点とか悪い印象は、一切聞いていなかった。もしかしたら、お母さんもそうなるがために毎度頑張ってたのかな?頑張りすぎて、自分が分からなくなって、周りのみんなが嫌いになっちゃって。それで、いきにくくなったのかな。……中学の頃の私のように。

お母さんは一瞬だけ寂しげな表情をした。私がそれを隣で見ていたことに気がついてか、直ぐにハッとしてニコニコの笑顔に戻った。

そして思い出すように「屋上も懐かしいな」と階段を掛け上がった。

「ちょっ。待ってよ」

私はお母さんを追いかけようとしたけど、立ち止まってしまった。そして、目の看板を見つめた。

適応指導教室とハッキリとした文字で書かれている。

そっか。

お母さんの頃には無かったのか。

お母さんもここを必要としていたのかな?

「瑠璃ー」

「はいはーい。今行くー」

私はお母さんの後を追って階段を駆け上がった。

夜の屋上。何かいい景色を見つけられるかもしれない。少しだけワクワクしていたけど、私が思ってたよりは特別なものは感じなかった。……殺風景というか暗いというか。まぁ、夜だから仕方ないけど。

「思ってたのと、ちょっと違うな」

昼間だったら快晴だし、雲がいい感じに写って映えてるし。

「うわぁ。いい眺めだねぇ」

隣で私とは正反対の言葉を述べているお母さん。

「お母さんには、そう見えるんだね」

「えー。瑠璃にはそう見えないの?」

「……落ち着くなとは思う。けど、光が見えないというか。現実を突きつけられてる気がする」

「どうしてそう思うの?」

「……どうして」

どうして、だろう。

いざ言われると言葉が出ない。

「そういう風に、見えるから、かな」

それが、一般的で言う普通、みたいな。みんなが綺麗なら綺麗で暗いと思うから暗くて。

……

そういう風にしか答えられなかった。

「みんな、か」

ボーッと眺めてる私を、心配しているのか、隣に居たお母さんは私の手をギュッと握った。

「……何?お母さん」

「瑠璃は本当に誰かのヒーローになりたいの?」

「えっ」

唐突にそんなことを聞いてきたから驚いてしまう。

……

言ってることが分かるような分からないような微妙な気持ちになる。何故だか凄く突き刺さってまた涙が出ちゃいそう。苦しくなってきた。

「ちょ。急すぎない?どういう事よ」

笑って必死に誤魔化した。

「……立派な大人になる、のは、私のため?それともみんなのため?」

「……」

そんなこと、急に言われても……

お母さんの真っ直ぐな瞳が私から離れてくれない。制服を着てて、顔も声も幼くて、超女子高生で、全然お母さんって感じじゃないけど。なんか、どんな姿をしていても、お母さんはお母さんな気がする。その瞳からは、お母さんの気持ちが沢山詰まっているのかもしれない。

……どんな思いなのかは、何一つ分からないけど。

「答えられないってことは、迷ってるってことだよね」

「お、お母さんって凄いんだね。私の悩みを読んでるみたいで」

「当たり前でしょ。それで、何に悩んでるの」

「なんだろう。よくわからないなぁ」

何か、何か、話さなきゃ。話したくない話題が出たら、いつもそうやって考えようとしてた。

誰かのヒーローに……か。でも、普通に考えてみたら、急にこんなことを言われて、即座に答えられないでしょ。そもそも初っ端からずっと気持ちか追いつけていないし。

何か他の話題を出さなきゃ。

「お、お母さん。母の日何が欲しい?」

思ってもみない言葉が、出てきてしまった。

「母の日、ね。あぁ、もうそんな時期かぁ」

「う、うんうんっ」

どうして、こんな言葉が口に出てきたんだろう。母の日でみんなの話聞くの辛かったのに。あぁ。ダメダメ。あの時のことを思い出してしまうから考えないでおこう。

でも、母の日にプレゼントをあげることを一度はやってみたいものだった。まぁそれは、自分にもお母さんが居るんだとみんなと盛り上がりたかったからに過ぎないだろうけど。でも、もし本当の本当に現実にお母さんが居たら。私は毎年あげていた筈。それでみんなで盛り上がれてた、筈。

『……可哀想』

その言葉が頭に過った。

お母さん居ないんだ。

瑠璃ちゃんしっかりしてるし大丈夫。

お母さんが居なくても幸せそうじゃない。

……!

「……ごめんね」

囁くような優しい声が耳元から聞こえてきた。

「……相当疲れてるわね」

「つかれ、てる?」

私はお母さんを見つめながらそう言った。

「え?」

泣いてる。また、泣いた。今日で、二回目だ。

今日はよく泣くなぁ。

「そう、なのかな」

「えぇ。ヒーローにも休養は必要よ。ずっと手助けできるはずがないわ」

「……でも、私は、」

私は、助けないといけない。立派な大人になるために。だから、休むなんて、出来ない。休む余裕なんてないから。一部だけのヒーローなんかじゃない。誰もが、いや、みんながカッコイイって思える人にならなきゃ。特にあいなには……けど。

「……お母さんっ」

気がつけば、ポロリと口から吐き出していた。

「私ってちゃんとヒーローになれてる?」

「え?」

「私、分からないの。確かに私はお母さんみたいになりたいんだよ。本当にずっと憧れなの」

こうやって自分自身のことを出せたのは久しぶりだった。

「お母さんの話は、周りから聞いたことがあるだけで直接会ったことは無かったから、私はちゃんとお母さんに近づけているのか不安だったの。人に優しく明るく。そして、誰かを直ぐに助けられる。私の中ではそれがお母さんだって思ってるよ」

涙が止まらなくて、同時に手足が震え始める。

「でもこの気持ち、ちゃんと持つかなぁ」

「……」

隣を見ると、お母さんは少し俯き加減になっていた。

「お母さんのこと、言われるのが辛くてさぁ。特に母の日。毎年この時期なるとみんなお母さんの話になるの。お母さんが居ないことを可哀想って言われるのが怖い。自分自身はお母さんになれても、私にはお母さんが居ない。だから、ありがとうって言えなくて、何も、できなくてっ」

やっとずっと奥底で思っていたことを話すことが出来た。

「……そっか」

掠れた声のお母さん。隣を見ると、お母さんも涙を流していた。

「……ごめんね。私のせいで苦しめちゃってたよね」

「そんなことない!お母さんは、お母さんは何も」

「話をしてくれてありがとう。でも、まだ、何かに迷っている感じがしたわ」

「……迷ってる、か」

確かにそうかもしれない。最近はかなり疲れていたし、こんな自分で居ていいのかがよく分からなくなってた。

ヒーローで居ることが普通、だったからかな。

「瑠璃」

静かに、私の名前を呼んだ。

「私ね、完璧って言われるの好きじゃなかったのよね。だってなんでもできるって思われるんだもの。だから、期待に応えようってみんなの思う完璧をキープしていた時期もあったわ」

「キープ、か。それ、何となくわかるかも。なんとか保とうとしてる」

「傍から見れば完璧な人って思うのかもしれないけど、私の中ではまだまだ未完成だったのよ。なりたい自分になるために頑張ってたのは本当だけどね。それでも、上手くいかなくて辛くなっちゃう時があったな」

「辛くなった時、お母さんはどうしてたの?」

「瑠璃と一緒で、溜め込んでた」

「……!」

「今の瑠璃は無理をしているようにしか見えないの。過去の私の時と少し似てる」

「……本当に分かっちゃうんだね。私の奥底の気持ちが」

「えぇ。だからこそ、幸せに生きてほしいの。その為にはこれから先どういう風な人間になりたいのか一度、考えてほしい」

「私は、完璧に……」

「普段の生活を、より意識して行動してみて。どこかにヒントが隠されているかもしれないから」

「……ヒント、か」

「答え、母の日に教えてくれないかな。それがプレゼントでいい」

「……分かった」

そう言うと、私は顔を上げて目に入る景色を見つめた。

「ねぇ。瑠璃。この景色だって角度を変えてみれば綺麗に見えたりするのよ」

「……どういうこと?」

「ほら。色々な所に光が灯っているでしょう」

「光?あぁ、電球ね」

「瑠璃にはそう見えるのかも。でも、此処から見たら、イルミネーションみたいでしょ。真っ暗な中で僅かに灯してくれている希望みたいな」

「結構想像力豊かなんだね」

お母さんって自分に似てるところもあるけど、あいなにも見えるな。

あいな、よく空想してるし。空想しすぎて見えなくなっててこっちが焦ってる時もあるけど。

「そうかな?」

「うん」

私には、よく分からなかったけど、胸の奥が少しだけ、温かくなった気がした。

気持ちの面で、ネガティブなことをポジティブに捉えるだけじゃなくて、物とか背景でもそんな風に受け止められるんだなぁ。

私は手で涙を拭ってお礼を言った。

「話、聞いてくれてありがとう」

「ふふ。どういたしまして」

屋上にある唯一の光は、古いからか光が弱くて今にも消えちゃいそうだけど、僅かの力で私達を照らしているように思えた。

彼女の笑みがハッキリ見えた。

その時だ。

目が、おかしくなって、目の前の視界が急に白くなっていく。

「え?」

お母さんの声が、徐々に遠くなって、やがてお母さんの姿が見えなくなってきた。

……どういうこと?何が起きているの?

「キャー」

つい、悲鳴が上がった。

「瑠璃。どうした!」

聞き覚えのある声。でも、これは明らかにお母さんではない。

瞼を開けると、上からお父さんが、驚いた顔で私を見下ろしていた。

「ふぇ?お母さんは?」

「お母さん?」

お父さんは驚き、首を傾げている。

「あ。なんだ、夢、か」

「急に話し出すからびっくりしたぞ」

「あぁ、うん。ごめんごめん」

顔を上げて外を見る。眩しい太陽。晴れ渡る空。もう、朝じゃん。

なんだ。やっぱり夢だったのか。

お母さんがこの世に存在してるわけないもんね。

じゃあ、夜の出来事は……?あれも夢だったの?

そう思った、時だった。

……私、なんでここに居るの?

てっきり、自分の部屋で寝てるのかと思ってた。

しかも、右手の手のひらに覚えのない文字が浮かび上がっていた。

「……何これ」

黒のインクで書かれたそれは明らかに手書きだと思った。

”また、今日の夜も会おうね”

この字って……もしかしてお母さん?

「どうした?」

戸惑っている私を心配そうに見ているお父さん。

不思議すぎる現象が起こっている……。

一体どうなっているの?

「ねぇ。お父さん、私、ここで眠ってたの?」

「あぁ。目が覚めたら、仏壇の前にいたからビックリしたよ」

私が、仏壇の前で?

そんなの、おかしい。え、夢、なの?じゃあこの文字は?どこからどこまでが夢なの?それとも夢じゃないの?

「時間、間に合うか?」

お父さんの言葉にハッとなって時計を見た。いけないっ。こんなボーッとしてる余裕なんてないっ。早くご飯の準備をしなきゃ。

私は急いでキッチンへ走った。

その時、ふと思った。

……なんだろう。いつもより少しだけ身体が軽い気がする。……お母さんに会えた、からかな。夜のことはまだモヤモヤするところが多いけど、学校でのことは昨日よりかは追い込まれていないような気がした。たまには話を聞いてもらえるのもいい事だな。

「よし!」

エプロンの紐をキツく縛って朝ご飯の準備を始めた。


それから数日間、夜に真月と会う頻度が増えた。いい加減真月と呼べと言われてしまい、最初は慣れなかったけど、気がつけばそう呼ぶのに馴染んでた。確かに制服姿の人を目の前にお母さんなんていうのは変だなと思うし。なんとなく身近に感じた距離感でもあったからそっち呼びの方が逆に良かったのかも。

目を覚ました時に手のひらに文字が書かれてあったら、真月と会う日ということになっている。それは二日連続の日もあれば一日おきの日などバラバラだった。指定された日に学校門を潜って旧校舎の屋上へ行くと、いつも真月が待っていてくれた。

真月と出会ってからは不思議な出来事ばかり起こる。手のひらに文字が書かれていただけでも怪しいけど、目を覚ますと真月との出来事を自分自身が明確に覚えていないのだ。目覚めた瞬間や、文字を見て気づいたり、学校の旧校舎へ行く際に思い出したりする程度で、間が開けば空くほど記憶が曖昧になっていた。真月と会った、という所まではハッキリと覚えていたけど、何を言われたかまでは忘れていたり。でも、真月の顔を見た瞬間に、怖いくらい記憶が戻ってくるのだ。連続で会えば日中も真月のことを心の片隅に置いておける気がした。

けど、連続で指定されるとは限らない。一度、何も書かれていない日にフラリと夜の学校へ行ってみた。だけど、不思議なことに、屋上どころか学校門さえも閉まっていて入れなかったのだ。……じゃあ真月はどうやって入ってるんだ?そもそも夢なのか夢じゃないのかもよく分かっていないのに。真月と会った日は毎朝仏壇の前で眠っていたり、逆に会えない日はそのまま家に帰ってベッドで寝て違う夢を見ている。

初めて会ったあの夜。朝はビクビクしながら学校へ行った。夜は夢中で何も考えていなかったけど、よく考えたら不法侵入だ。勝手に侵入した時点で退学になりそうで色々と怖かった。夜、学校門が開いていたらしいよ。なんて言う噂が立つのではと思ったけど、そんなことは一切なかった。

いつも通りで逆に怖くなってしまった。


「夢か夢じゃないのか。どちらが正しいのかは瑠璃次第」

ある日の夜、真月にそう言われた。

「それ、どっちを信じるのがいいのよ」

「うーん。瑠璃の好きな方で」

もしかしたら、夢と現実の狭間の空間なのかもしれない。ファンタジー小説で見たことがあった。少し不思議な場所でフィクションとノンフィクションで世界を変えるみたいな話だったがあったのだ。

……いや、まさか。

そんな事が起こるわけ……いや、でも。確かに可笑しいしなぁ。

「ま。あんまり深く考えない方がいいわね。なるべくここでは楽しんでもらいたいし」

真月は肩をポンと叩いて笑った。

「そう言えば、明日はいよいよ母の日ね」

「あ」

真月に言われ、ハッとした。

完全に忘れていた。

真月と出会って数日。母の日の話題になったのは初めて会ったあの日以来だった。

あれから、真月は私の悩みをつきつめようとはしなかった。ただただ旧校舎の屋上で景色を眺めながら私が来るのを待っていた。私が来た後は他の校舎も見たいと言い出して、会う度に他の場所を案内した。

真月とは話が盛り上がった。高校時代に流行ったものと、今流行ってるものを教えあったり、真月とお父さんの出会いだったり。とにかく色々。

時代は違うけど、本当の友達のような感覚だった。

日中の学校では、みんなは変わらず母の日の話をしていて合わせては居るものの疲れちゃう時もあった。けど、夜、真月に会いに行くと、寂しかった想いが一気に楽しいに変わって、不安だった未来がどんどん明るい方向に変わっていったような気がする。

でも、母の日のことを目の当たりにしてしまうとまた少し不安になる。

……これから先どういう風な人間になりたいのか一度、考えてほしい

……普段の生活を、より意識して行動してみて。どこかにヒントが隠されているかもしれないから

「……私、真月の言ってたこと、見つけ出せるかな」

「深く考えすぎちゃダメね。落ち着いたら見えてくるはずよ。答えは……自分の心の中にあるから」

「心の、中に?」

その瞬間、視界が急に白く濁ってきた。きっと、今日はもうここで終わりだろう。

「明日、待ってるから」

「うん、じゃあね」

その場でゆっくりと目を閉じる。そして僅かな光を感じながら瞼を開け、仏壇の前で朝を迎えた。


手のひらを確認すると、”母の日、屋上前に会いに来て”という真月の字。

今年の母の日は、特別な日だ。お母さんに直接、気持ちを伝えないと。だから、真月の、お母さんの、喜んでくれるような答えを見つけに……!

……あ。

また、誰かのためとか思ってしまった。いつも私は、人の顔色ばっかり……。

で、でも。母の日はお母さんの為のものだし……。いや、自分がどうしたいのかを見つけなきゃいけないんだから。自分自身の納得のいく答えを出してあげなくちゃ、なんだよね。

……

私にとってのヒーロー、見つかる、かな?

身体をゆっくり上げて立ち上がろうとした時だ。

「るーりー!」

玄関の方から大きな声が聞こえる。この声は……あいな!

時計を確認した。は、八時?

……え?もうこんな時間?

そっか。昨日お父さん夜勤で居ないんだった。真月に会う日はそっちに夢中で最近はお父さんの声に気がついて目覚めていた。だから、お父さんのお弁当も朝ごはん作りもギリギリで授業の予習復習とか、みんなへのメールの返信もできない日が続いていた。

……八時なんて遅刻寸前じゃん。

私は、玄関のドアを開け、ごめんと謝った。

「今起きたばっかりなのっ」

「ぷーっ。さっきからリンリン鳴らしても名前呼んでも出ないから心配だったんだよぉ」

頬を膨らませていながら、そこまで怒っている様子はなかった。

時々、あいなと学校まで登校する日を作っていて、いつも私があいなを迎えに行っていたのに、そのあいなよりも遅れているなんて今日が初めてだ。私は急いで準備した。

身支度は五分程で済ませられてなんとかなったものの、学校までの道のりが若干離れていて間に合うか遅れるかのギリギリのラインだ。

私の足でなら、何とかなりそうなんだけど……

「るーりー。待ってよぉ」

あいなは中々厳しそう。

「早歩きで行くのは難しそう?」

「うー。今日は荷物が多いから走ったら落としちゃいそうだよぉ」

「これ、なんの荷物?教科書は教室のロッカーに置いてるんじゃないの?」

「なーいしょっ。秘密の工作だよ」

「なんじゃそりゃ」

気持ちは焦りつつも、あいなの足に合わせる。

「雲ひとつないねー」

「最近、多いね。晴れてる日」

「あ。見て見てっ。おほしさまっ」

始まった、いつものあいなワールド。

「そんなことしてたら遅刻するよ」

「あたしは遅刻しても平気だよーっ」

「はなび先生との早起きの約束は?」

「大丈夫だってぇ」

「もーう。私が遅れちゃうし。置いてくよ?」

「あっ。だーめっ。そもそもるーりーが支度遅かったのが悪いもんっ」

確かに。あいなの言う通りだ。寝過ごしちゃったなぁ。あいなを置いて行くのは心配だし。今日は遅刻して行くしかないなぁ。

「……ま、一日くらいゆっくり行ってもいいよね」

「やったぁ」

るーりー遅刻初めて記念日だねっ。あいなは無邪気に笑った。

「全然嬉しくないけどね」

「えへへっ」

あいなと居ると、どうしてこんなに幸せな気持ちになるんだろう。他の子と少し、いや、結構違うけど、隣に居たら凄く安心感がある。変に気を使うことが無くて、ただただ楽しいんだ。

彼女がこうやって笑っていられる時間と居場所を大切にしたい。

今は、この瞬間は、素のままだよね?

私は、あいなを守らなきゃいけない。

あの出来事が頭の中に過ぎってきた。……ずっと引き出しの中に隠していたのに、複雑で、しんどかったあの日。

私は、ヒーローなのにも関わらず、彼女を守ることができなかったのだ。


小学校の卒業式。この日は私にとって最悪な日になった。

私は何も気がついてなかったんだ。あんなに身近に大切な友達が傷つけられてたってこと。

ヒーローとして、ずっと、人の目を見て行動することを心がけて生きてきた。だから、直ぐに気がついて駆けつけて。それが当たり前だった。

なのに、私の視界には見えてなかったんだ。あれは最初で最後の光景だった。

卒業式自体は無事に幕を閉じた。その後、友達や先生らと別れの挨拶を告げた。瑠璃ちゃん、本当に六年間頑張ったねって、色々な人からたくさんの褒め言葉とありがとうをもらった。みんなとは違う中学へ行くから別れるのは寂しかったけど、新たな一歩として頑張ろうと決めた。

ここまではまだ、よかったんだ。

その後、私はあいなを探しに行った。あいなのお父さんとお母さんには校門の前で会ったけど、その時にはもうあいなの姿は無かった。どうやら一人で最後の小学校をグルグル回ってくると言って誰とも話さずに校内に入っていったらしい。

あいな、学校がそんなに恋しいの?可愛いヤツめ。その時はそう思ってた。

本当にそんなくだらないことだったら、良かったのに。

『あいな何処いるんだろ』

その時の私はあいな探しにワクワクしていた。お別れだもん、一緒に学校生活の思い出を語り合いたかった。あいなとは本当に色々なことがあったなぁってしみじみ考えながら歩いてたっけ。

彼女とは低学年の頃に出会った。小動物みたいに可愛い体。クリクリの目。その頃からかなり幼かったと思う。そんな可愛い子がクラスの子達からからからかわれているのを見て、直ぐ私の身体が動いた。私がみんなを注意して払い除けたら、あいなは目をぱちぱちさせながらありがとうと言ってくれた。私のことをヒーローでも大将でもなく、るーりーと呼び続けていたのはいつもあいなだった。だから、るーりーと声が掛かる度にあいなだと直ぐ気づく。

あいなには苦手なことがあって、一つ一つを乗り越えようといつも一生懸命頑張ってた。その姿が愛おしくてついつい応援したくなった。それで、自然と一緒に居ることが増えてたっけ。

高学年で初めて同じクラスになって、あいなをからかってくる人は居なくなった。

そして、あいなとの距離はより親密になった。明るくて純粋で一生懸命で。日に日にあいなは笑顔が増えていって、この子と一緒にいると辛いことを忘れられる。そう思った。

だからこそ二人で楽しく終わりたい。

卒業式の日。

あいなを見つけたらすかさず隠れて後ろから驚かせてやろう。あ。もちろん校門の前でも写真を撮らなきゃ。そんな気持ちで、校内歩いてたっけ。

みんなは校庭に集まっていたけど、一階の校内はチラチラと人が居るぐらいでザワザワとした雰囲気だった。でも、一周回ってもあいなの姿は見つからず、そのまま二階へと上がった。二階には人の姿は無く、しんと静まり返っていた。もしかして、すれ違った?お母さん達の方へ帰ってたのかもとも思った。もしそうだとしたら戻らなきゃ。戻ろうとしたその時、奥の方からガサガサと言う音が聞こえてきた。凄く気になって音のする方へ歩いていくと、その音がどんどん強くなっていく。行き止まりになり、目の前には三階へと続く階段があった。その音は上から聞こえてきた。不穏な音で嫌な予感がした。

『……!』

あまりよく聞こえない。けど、怒号……?誰かが怒ってるの?卒業式当日に?

……人の声?

上へ上がってみよう。恐る恐る階段を上がった。

『……ふざけんなっ』

上がれば上がるほど声がハッキリと聞こえてきた。この声に聞き覚えがあった。同級生の女の子だ。確か、名前は……いや、そんなのどうでもいい。誰かと喧嘩してるのかな。止めなきゃ。でも、なんでこんな時に喧嘩なんて?

……え。

一人の人物が頭に浮かんだ。もしかして、と思った。か、絡まれてるわけないよね。

でも、私の予想は的中していた。

『ちょっとぉ、なんか言いなさいよぉ』

今度は違う人の声が聞こえた。やっぱり見覚えのある声。絶対同い年だ。

ドンドンドンドンドン。二階から聞こえた微かな音というのは靴の音だったんだ。ここは旧校舎で床が古いから静かで誰もいないと下まで音が響く。だから気がついたんだ。

……でも、数人じゃあここまで響く事はない筈……ということは?

三階に着いた。壁にひっそりと隠れながら教室を見る。六年一組から六組までの教室がずらりと並んでいる。……あそこか。一つの教室だけドアが開いていた。しかも、人が居るということが遠くからでも分かった。人間の背が窓やドアの隙間から見えていた。一番遠い六組の教室からだ。呆然とした。明らかに様子がおかしい。だって、見えているのが二、三人とかじゃないもん。

……え?

喧嘩、だとしたらおかしい。もしかして、喧嘩じゃなくて、虐め?……助けなきゃ。

そう思った時だ。

『ど、どうしてそうやってみんなで囲ってあたしを傷つけるの』

嘘であって欲しかった。

その声の主は、あいなだった。どういう状況なのかが分からず、混乱した。

低学年の頃に虐められてたことは知っていたし、私と一緒に居るようになってからは厳重に守ってきた筈だった。

それに、クラスの子達とも数人だけど楽しそうにお喋りしてた。気がつけば、るーりーと過ごすこの学校が楽しいと毎日のように言っていたのに。

遠くから、中の光景を眺める。そこに居たのは、七、八人の女の子達。しかもみんな話したことのある子達だった。状況が読み込めない。……あいなに何をするつもり?

あいなは完全に萎縮していた。……行かなきゃ。こんなの、酷すぎる。卒業式に、しかも、大切な友達になんてことを。怒りが込み上げて、教室に入ろうとしたその時だった。

『瑠璃も瑠璃だわ。守れば守るほど良いってもんじゃないのにさぁ』

……え?

足が、止まった。

『瑠璃って人助けするのは良いけど、弱い人に手を出して私らよりそっちのけだったよね』

『ねぇ。私達が陰でやってること、瑠璃に言ったでしょ?』

『い、言ってないもんっ』

『嘘つけ。じゃあどうしてずっと一緒にいたのよ。どうせ前のこともチクって守ってもらおうとか思ってるんでしょ』

……前のこと?

『ち、違うもんっ。るーりーには何も、』

前のことってどういう事よ。

……!

私の知らないところで、あいなは、虐められてたの?この子達に?え?私、何も知らないんだけど。この子達は、私ともっと一緒に居たかったってこと?普通にみんなとは挨拶交わしてたし、今日だって卒業式前にみんなでありがとうって言い合ったじゃん。あいなと一緒なのが気に食わなかったの?……意味がわからない。行かなきゃ。早く、あいなを。

『言っとくけど、アンタの瑠璃じゃないんだから。これ以上瑠璃にチクったらタダじゃ置かない』

その一言が私の体を麻痺させた。……もし、私がここでみんなに怒ったところで、あいなは助かるの?だって今、あいなは私に虐められてたことをチクったってことになってるんでしょ。だから、もっと痛い目に合ってる、ということは、今、もし私がこの中に割り込んだら……。恐らくみんな逃げるように去っていくけど。

これで本当に終わるのかとなると、わからないだろう。

……でも、この状況を見るのは辛い。

足は石のように固まってしまった。心臓がドクドクと怪しい音を立てている。ここまで動揺したことなんて無かった。

私は違う中学へ通う。あいなとみんなは同じ中学へ。今回のことでまた虐められたら助けに行くことが不可能になる。自分が動くことで余計に虐められるのではと思ってしまった。

私は教室の引き戸に背中を引っつけて隠れながら声を聞き続けた。……凄く苦しい時間だった。虐めっ子達は反対側から出て、校庭の方へ騒ぎながら出て行った。

教室に一人、残っていたあいな。

……その時だった。

『っ!』

あいなは声を上げて泣いた。胸がキュッと締め付けられて、早く、あの子を抱きしめてあげたいって思った。……でも、私は見て見ぬふりと言う最低なことをしてしまった。彼女に、合わせる顔がなかった。なんて、言ってあげるのがよかったのか、分からなかった。

だけど、あいなは暫くして私の方に気がつき、私が見ていたことがバレてしまった。

『……』

気まづい状況の中で、あいなは必死で手で涙を拭ってこう言った。

『えへへ。見られちゃった。でも、大丈夫』

彼女は、笑っていた。

それを見て、やっぱり何も言えなかった。だって。あんなに泣き虫だったのに。出来ないことがあると、泣いて訴える子だったのに。

……今の光景こそ、涙を流す所じゃないの?

……どうして必死になって受け止めようとしているの?

後からになって、気がついたんだ。私に、涙を見せたらいけなくて、あいなは見せなかった。卒業式、私と会うことが最後だったからこそだ。私があの光景を見ていたことは、本人も分かっていた筈。だけど、笑顔で、終わりたかったんだよね。

あいなは私が思っていた以上に確実に強くなっていた。


「るーりーのサボりデーだー」

絶対に遅刻確定なのに、るんるんのあいなと、それに釣られてかたまには良いかぁと半ば諦めている私。

あれからもう何年も経つのに、私はずっとずっと後悔が残ったままで、忘れる日は一日もないと思ってる。

あの出来事を見たことをきっかけに、私は絶対に見て見ぬふりをしないと決めた。あの涙を見てしまった以上、誰にも傷ついてほしくないと思った。

中学に上がってからの私は、小学校以上に確実にレベルアップできた。

そんな風になれたのは、良くも悪くもあいなのお陰だったと思う。

あれからもあいなの心の中では様々な壁があった。

中学に入っても、自分自身の事で悩んで、心を閉ざしていたけれど、高校で私と再会してから新たな居場所を見つけたのだ。

自分自身のことはあいな自身が苦しんでいることだから、私が触れる必要はない。だけど、サポートは全力でしたい、そう思っている。

私の中で、あいなは本当に特別な存在なんだ。

「るーりー。あたしの顔見て、どうしたのっ」

ボーッとしていたら、あいなに話しかけられた。もう、周りに歩いている生徒は居ない。こんなにのんびりと歩いていたら、一限の授業も間に合わないなぁ。

「なんか、平和だなぁって思っただけだよ」

「そう?……へへっ。私ね~、穏やかなるーりーが大好きだよ」

「え?穏やか?」

「うんっ。るーりーのいい所はね~、シャキッとしてる所もそうなんだけどね、こうやって自然な所も好きなんだよっ」

溶け込むような声に、私の心が暖かくなった。

「自然?」

「そう。ヒーローのオフタイムだね」

自然な所……それも完璧に含まれてるのかな。

そう言おうとしたけど、あいなはまた、あっ。唯一存在している雲の大軍だぁ~って自分のワールドに入ってしまった。

……これから先どういう風な人間になりたいのか一度、考えてほしい

ふと、蘇った言葉。

手のひらの文字を見つめた。


お母さんへ。

あのね。

私は。

私は、やっぱりヒーローでありたいの。完璧な人間でいたい。

でもね、今は、少しだけ違うような気がした。

私の中での完璧は、お母さんそのものだった。だけど、お母さん、言ってたよね。

私、お母さんに会えなくて、なりたくても何が正しいのか分からなくて。曖昧な気持ちでヒーローをやってた。

虐められた光景を見て、自分はより人を守りたいと思うようになった。特にあいなは、あいなだけは傷ついてほしくないってずっとずっと思い続けてた。

優しく、明るく。大人でも子供でも物怖じせず、愛嬌良しな自分。そして、親身になって話を聞く自分。人を傷つけない。だから、人を尊重して、合わせる時は合わす。そんな私が出来上がってた。

……言いたくないことは全部引き出しにしまって。

……しんどいなって時も、まだやれるって一人で抱え込んで。

……本当はお母さんがこの世に居ないことが辛いってことも、自分の中でそんなことないって思わしてた。

でも、隠してても、人には分かるものなんだね。表情とか、そういうので。

だから、あいなとはそういう所でシンパシーを感じたのかもしれない。あいなはいつも私のことを見てくれているの。

私が守ってるとか言いながら、私も守られてたよ。そういう友達、大切にするね。

それとね、お母さんも、気づいてくれてありがとう。だから、私の前に現れてくれたんでしょ?

お母さん。ずっと会いたかったんだよ。夢なのか夢じゃないのか。なんでお母さんと話せるのかとか全然よく分からないけどさ、見えてる限りは夢見させてね。

これが、私の答えです。

いつも見守ってくれてありがとう。

大好きだよ。

瑠璃より。

夜。私はお母さんに色々な話をすることが出来た。

毎朝、仕事が忙しいお父さんにお弁当を作ったり、家事をこなしていること。学校が忙しいこと。みんなに囲まれていること。でも、母の日が近くて少ししんどかったこと。昔、友達のお母さん達に言われた言葉を思い出したこと。お母さんと学校で会った次の日は気持ちが晴れやかだったこと。母の日のプレゼントのことで、あいなの引きづっていた過去が蘇ったこと。

色々なことがあった中で、違う視点で考えたり、日々の何気ないことが幸せだったのを知れたこと。

そして。このお手紙。

答えは、自分の中にしっかりと刻み込まれていた。

お母さんは私の話をしっかりと聞いてくれた。そして、暖かい拍手を送ってくれた。

「お母さん呼び、やっぱり照れくさいな」

「いいでしょ。今日だけだから。ね?」

「うん」

セーラー服姿のお母さんはやっぱりお母さんに見えないけど、それでも、温かく包み込んでくれる所がやっぱりお母さんだと感じた。

お母さんは涙目になっていた。それは私も同じだった。

夜の屋上はやっぱりいつ見ても変わらない景色。

だけど、お母さんが言っていたように角度を変えれば違う風に見えてくるような気もする。

今まではこれと決めたらこうだって執着してたけど、少しだけでも考えを変えてみるだけでかなり楽になれた。

「お母さん。正直これからも色々と不安なことがあるの。未来って今からじゃ見えないから怖いなぁって思っちゃう。けど、そんな恐怖にも負けじと頑張りたいんだ」

ガッツポーズをした。拳にギュッと力を入れる。強くなりたいって思いながら。

「なら、これをプレゼントするわ。ちょっとおいで」

「……え?」

お母さんが、制服のスカートポケットから何かを取り出し始めた。

それは、とても綺麗なガラスのペンダントだった。それを私の首にかけてくれた。

「ブルーで素敵」

「それはブルーじゃない。瑠璃色だよ」

「……え?瑠璃色?」

「えぇ。気に入っていて……お守りにして持ち歩いてたの」

「だから、私の名前……」

「ま。その時は何も考えてなかったけど。でも、なんか気に入ったのかも。瑠璃っていう名前がね」

ペンダントを見つめる。暗い夜に負けず、僅かに瑠璃色の光を放っているように感じる。

「このペンダントに、私が魔法をかけておいたよ」

「魔法?」

「楽しいこと、ワクワクすること、思いが全部ここに入ってる」

「こんな素敵なもの、貰ってもいいの?」

「いいよ。けど、約束事があるんだけど、いい?」

「……約束?」

お母さんの言葉に、首を傾げる。

「そのペンダント、今はお守りとして持っていればいいわ。未来のことで不安になったら、付ければいい。けど、もうこれがなくても、やっていけそうなら、困ってる人にプレゼントしてほしいの」

……プレゼント?

お母さんは話を続けた。

「私は今、瑠璃の世界には居ない。それが何処か引っかかっていたわ。色々なものを失って、みんなに会うことすらも出来なくなった。けど、このペンダントだけは私のそばにいてくれた気がするの」

お母さんは、真っ直ぐに私の瞳を見つめている。

「だから、瑠璃。これを持っていたら大丈夫よ。絶対に貴方のことを守ってくれる。導いてくれるから」

その言葉一つ一つが私のことを強く思ってくれているみたいで、凄く暖かい気持ちになる。

私は、お母さんの思いを受け取った。

やっぱり私のお母さんは、他のどのお母さんにも勝てないと思った。

現実には居ないお母さん。夜の学校に不定期で現れるよくわからないお母さん。セーラー服の女子高生なお母さん。どんな時でもここに行けば瑠璃って優しく呼んでくれる。

今日は、最高の日になった。

「これがあれば無敵よ、ヒーロー」

お母さんは私の背中を押した。体が揺れると共にネックレスも動いた。

「そうだねっ。よーし。新たな私、頑張るよ」

なんだか、前まで悩んでいたことが吹き飛んじゃいそうなくらい心と身体が楽に動いている気がした。

私達は、今日も旧校舎の屋上で空を眺めた。いつも、真っ正面から見ていたから、今度は違う方向から見てみるのもいいな。そうしたらまた、違う景色を見れるかもしれない。

そんなことを考えただけで、凄くワクワクした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ