0 ???
『生きて』
彼女の言葉を、今でも覚えている。
小学校時代の私に戻りたくない。そんな思いで中学校では変わろうとした。心機一転したくて、中学受験をした。そこでは前の私じゃない、新しい自分になろうと思った。……だけど、間違った方向へ行ってしまったようだ。高校生になっても、何もかも上手く行っていない。
……そんな私も、あの有名な、ヒーローに出会ってしまったのだ。
『あの子って頭が良さそうに見えて、中身は空っぽだよね』
同級生にそんなことを言われたことがある。最初は、そんな風に思われていたことにショックを受けたけれど、彼女達の言うことは正しかった。
空っぽだけど、真面目なら、大丈夫。
空っぽだけど、一生懸命なら、大丈夫。
空っぽだけど、基準に従えていれば、大丈夫。
時々、そんな風に思う自分に嫌気が差してしまうけど、そうしておかないと、誰からも拾ってもらえないと思ったんだ。
私、周りの子よりは馬鹿じゃないんだ。悪口なんて言わないし、人の話はしっかり聞くし。基準、若しくはそれ以上だ。この学校へ通うようになってからは、先生から褒められることが増えたんだから。
だけど、相変わらず同級生からは嫌われている。
浮いてるのは自分が一番わかっているし、少しズレているところも、自覚はしている。これから先、そうやって汚してくる人達のことを無視して生きていきれたらな……その道の方が私にとっては気が楽だと思う。けれど、本当の答えなのかは分からない。
……私は、これから先も、変わっていけないんじゃないかなって思う。
本当の私がよく分からなくなっているから、将来のことなんて想像もつかない。
これから先も苦しみながら生きていかなきゃ行けないの?だったら、私に未来なんて無い方がいいのかな。
いつの日かそう思うようになっていた。
あの日は特別な日だった。
この世界から消えようとした日。
孤独だった私は、いつも屋上で空を眺め、夢を見ていた。学校の屋上は出入りは禁止なのだけれど、一度ひっそりと中へ入ってしまってから自然とそっちに足が進むようになってしまったのだ。それからずっと先生や生徒達にバレないようにと屋上へ行くことが日課になった。
私の学校は校舎が広く、生徒数も多いから、廊下や教室は常にガヤガヤしていて、落ち着く場所がないんだ。教室の中で、朝から夕方までみんなと同じ空間で授業を受けるのは、とても窮屈に感じる。そして最も嫌いなのが、休み時間やランチタイム等の空き時間。
小学校とは違ってここは女子校だから、少しはマシになるかもしれないという期待は、一瞬で無くなってしまった。共学は共学で辛いし、女子校は女子校で女子特有のいざこざがあると知った。
煩い廊下を逃げるように走りながら、私は今日も一人、屋上へ向かう。
今日は、この世界とお別れをする日。ずっと耐えていた我慢からやっとの思いで開放されるのだ。
私のことを期待しすぎていた担任も、冷たい目で見てくるクラスメート達も、全てが嫌になったんだ。
私は、誰からも必要とされていない。空っぽな人間は、これから先も空っぽな人生を歩むことになるだろう。
それならもう終わってもいい。そうでしょう?
問いかけたって返答はない。うん。それでいい。私は、そういう運命なんだ。
……寂しくなんて、ないんだから。
自分を殺すと解釈して、自殺と読みます。
これから、それを実行したいと思います。
屋上に続く階段を上がり、ゆっくりとドアを開けた。……相変わらずの風景だった。雲ひとつない空に苛立ちを感じながらも、この景色を眺めながら死ねる、なんて思った。あぁ。なんて絶好の機会なんだ。澄み切った空に、体を託し、大きくダイブして、そのままドン!と落ちるのだ。落ちると、何も残らない。死体はあったとしても、私じゃない。もう、本当に脳味噌の欠片もなくなって、空っぽな死骸だけが残る。誰からも見つけてもらえず、自然と消え去っていくんだ。
あっはっはっはっはぁ。口角を思い切り上げて、笑う。こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。これから死ねる喜びを、生きている間、存分に堪能しておこう。
学校中がランチタイムで賑わう中、一人屋上に姿を現す私。私の姿に気づく人なんていない。もちろん今から死ぬという大イベントを知る人もいない。こんなレアなイベント、これから先死んでも見れないだろうに。……みんな勿体ないよ?でも、見られなくたって別にいいよ。死ぬのは、どうせ一人だし。イベント参加の中に、私の自殺を止める厄介な人が現れたら終わりだよ。ま。誰も止めないだろうけど。
とにかく私は、生きることに疲れたんだ。疲れたのに、これからどうやって生きろって言うのだろうか。
辛夷をギュッと握りしめ、真っ直ぐ進む。落ちる直前の所で足を止めた。真下を見ると、地獄の底。……少し気持ち悪いけど、私が落ちることを待っているような気がした。
笑っているのに、何故か手足がブルブルと震える。体全身に力を入れて、涙と痙攣を必死に抑えようとする。感情がごちゃごちゃしていると同時に、目に映る赤のリボンタイが邪魔くさくなってきた。……どうやらまだ、早かったようだ。要らないものは排除してから逝かないと。そう思って、少し後ろへ下がった。死ぬのにも、準備が必要なのだ。
ダラリと後ろに縛った髪を解き、要らなくなった髪ゴムを手に持った。次はポケットに入っている刺繍入りのハンカチを出した。その次にダッサイ白のソックスを脱いだ。最後に、若干汚れている焦げ茶色のローファーを脱いで、全てを順番に空に向かって投げた。自分が落ちる時は、最小限に抑えておかないと。最後の最後まで重いものを持って死ぬなんて。死ぬ前の私が、死んでからも引きずってきそうだもん。
終わったと思ったら、今度は足の裏が気になりイライラが募っていく。今日は晴れている且つ暖かい日だから、足が地面に付くと火傷まではいかないけれど、熱いのがへばりついていたのだ。”ほんのりちょいアツ”と表現するのがピッタリなアスファルト。だけど、これくらいで私は負けたらダメだ。死ぬ時の方がもっと熱いかもしれない。いや、逆に冷たいかも。あー。もういい。とにかく、苦しいのは分かっていたから。早く死のっと。
……よし。
また、全身に力を入れるように、辛夷を強く握った。準備は整った。私はまた、ギリギリの所で足を止め、立ち止まる。特別な力を入れている訳でもないのに、一つ一つの動作をするだけで息切れして、気持ち悪い。
……でも、今だけだ。
死ねば全部楽になれる。大丈夫。
注射される時のことを思い出した。医者がよく、チクッとしますよと言って、物凄く痛い衝動に駆られたけど、それは本当に一瞬だった。
それと感覚が同じだと思えばいい。
ここまで、耐えてきたんだ。これ以上、苦しむ筈がない。
ゆっくりと体を前に倒す。心臓がドクドクと気味の悪い音を鳴らす。後は、足を滑らせるだけ。
心の中で、数字を数える。
三、二。
怖い。けど、目を瞑れば、大丈夫。あとはそのまま、流れに任せればいい。
ありがとう、私。
一。
私は、思い切り体を前に倒した。だけど、意識はまだ、ハッキリと残ったまま。
落ちて、ない?
……右手が、誰かに掴まれている?
確実に足を滑らせた筈だけど?……あれ。なんで?足はブランブランに浮いたままだ。
落ちて、ない?
私は、ゆっくりと瞼を開けた。そのまま首を上げると、人の姿が見えた。
……嘘だ。
ゆっくりと落ちて逝くはずだった。
怒りが、込み上げてくる。
……これじゃあ死ねないじゃない。このまま手に力を入れて、無理矢理にでも落ちないと。首を上げて、顔を見たけど、掴んでいる人が角度的に誰だか分からない。
……誰だろうと、止めた人を許せない。
「……っ。やめて。やめて。やめてっ。やめてよっ」
思わず、叫んだ。こんなに声を上げるなんて初めてだ。いつも小さくなって、自分の気持ちを言うことが出来なかったのに。
誰が私を止めたのかも、分からないのに。ただただ叫んで、必死に腕を離そうとした。
……楽に……させてよ。もう、誰の顔も見たくなくて、この決断になったというのに。
「ダメだよ」
ボソッと呟いたような声が上の方から聞こえてくる。
「やだよ」
「暴れないで」
冷静でとても聞き覚えのある声。
「いい?絶対抵抗しないで」
「……」
芯があって、ブレない声。その瞬間、何故か一気に力が、入らなくなった。死にたいのに、なんで?
彼女は先生ではなかった。顔立ちは整っていて、セーラー服が学年一似合っていて、目がハッキリしていて、ポニーテールがトレードマーク。
みんなの、ヒーローと呼ばれている人だった。
そんなヒーローが今、死ぬ直前の私を……頭が追いつかなくて、力も入らなくて、何故か凄く涙が溢れ出て。これはどういう感情?苦しいの?辛いの?
それとも……やっとやっと私に助けが来たという安心の涙?
え?もう、私……死ぬって……決めていたのに。
「捕まって。いいからっ」
彼女は、さっきよりもボリュームを上げて私の腕を引っ張った。
「よいしょっと」
腕を離していたら、私は奈落の底へ逝くはずだった。彼女は私を引き上げた。彼女の力は強かった。
体に力が入らなくて、空気が抜けたみたいにスーッとアスファルトに手を置いて、そのまま横になって泣いた。
地面は変わらず熱くて、直射日光が私の体に当たって、額には汗がダラダラと出ていた。
彼女は私の背中を静かに摩ってくれた。
「今日は凄く綺麗な空だね」
気がつけば、彼女の手を握りしめている私。そして、屋上のベンチに座っていた。
「こんな暑い時に、自殺を考えるなんて」
「う、うん。ごめんなさい」
「どうして、死のうと思ったの」
彼女は、ド直球に聞いてきた。戸惑いながらもモゴモゴと口を開いた。
「何もかも、終わりにしたかったから、です」
「……そう」
「……あの。友達と一緒に居なくて大丈夫なんですか。私なんかと居ると、時間の無駄ですよ」
無の感情でヒーローに向かって言うと、彼女はプッと軽く吹き出して笑った。何が面白いんだろ。
「へー。とーっても優しいのね。いいよ別に。それよりも私は、貴方の隣に居たいんだもん」
「……どうして」
「私、困っている人を放っておけないから。ヒーローってそんなもんでしょ。誰かが困っていたら助けるの」
「……ヒーローの定義とか、私にはよく分からないです」
「私も分からないー」
「凄いですね。私なら、絶対何処かで心折れちゃいます」
「私、何かしてないと落ち着かないんだー。だから直ぐに体調崩しちゃうんだけど。でも少しでも前向きに行動したらね、辛いこととか忘れて楽しいことを考えられてる」
彼女の瞳は凄くキラキラしていた。どうしてこんな風になれるのだろう。
「……羨ましいです。強いんですね」
「うーん。私にも弱い所はあるよ」
「本当ですか?」
「うん」
「全然そんな風に見えません」
「……見えないだけだよ」
彼女の言葉は意味深だった。
彼女は,真剣な眼差しで私の方を見つめていた。そして、続けて強くこう言ったのだ。
「自分の命、ちゃんと大事にしないとダメだよ。死んじゃったら、周りも自分も辛いだけだからね」
……大事に、か。
「本当にそうでしょうか」
「当たり前でしょ」
……そんなこと、ないと思うけどな。
そう言いたかったけど、彼女の表情を見ると言いづらかった。
正直、死ぬのは凄く怖かった。今だって、心臓が変な音を立てているし、自分でもよく分からない不安が体全体で起きているような気がするんだ。
でも、本当に死んでいたらそんなこと一ミリも感じていなかったと思う。私は、死んでいない。……死ねなかった。
胸に手を当てる。心臓が動いている。意識もハッキリしてて、目も、口も、あって、今、ヒーローと話をしていて……
……生きてるって多分こういうこと。でも、私は本当にこれでよかったの?
「まぁ。とにかく。私が言いたかったのは、生きて。それだけ。生きてくれればいいの」
「……」
彼女の根拠の無い言葉に、何も反応出来なかった。
このまま気まづい空気のままだと思っていたら、暫くして彼女はあ!と思い出したかのようにこう言ったのだ。
「そういえばさ、二年生になったら私とおんなじ学科だよね?なら、同じクラスだね。より親密になれちゃうね」
「は、はぁ……」
「これからよろしくね」
彼女は私の手を勢いよく握った。
モヤモヤな気持ちを抱え込み中な私だけど、この人はさっきのことなんてなかったかのように、テンションが上がっていた。
本当に、誰とでも気さくに話せるんだな。
だけど、不思議な子だなって、少し思った。
まさか、それからヒーローとの仲が、どんどん深まっていくなんて。……この時の私には全く想像できなかったな。
今の私がいるのは、ヒーローのお陰。
……きっと、この出来事が無かったら、繋がれなかったかもしれない。
……私を、見つけ出せなかったかもしれない。
これが、私を見つけるきっかけになった大きな出会いだった。
???