月夜には
「独りで飲むのも、悪くない」
僕は誰にともなく呟くと、小さなお猪口を満たした透明な液体をぐっと飲みほした。視界の端には、見事な満月が映る。
このご時世には珍しい小さな平屋建ての家の中には、僕以外誰も居ない。管理が面倒だからと、既に都会に所帯を持つ兄に半ば強引に押しつけられた両親の遺産だったが、なかなかどうして、僕はこの家が気に入っていた。元々都会は好きではないし、何より、この縁側が良い。
大して広くもない、月明かりに照らされた庭に目を遣れば、そこそこ大きな桜の木が、今は淋しいその枝を満月を背にして広げている。その足下では、背の高いススキが、月の光を受けて淡く、控えめに輝いていた。
聞こえてくるのは、虫の声ばかり。
僕はしばらく目を閉じて、その儚い命の歌声に耳を傾けた。そうして満足すると、脇に置かれた徳利に手を伸ばし、もう一度、空になったお猪口を満たした。
「美味い」
それをまた一気に飲みほしてから、僕はお猪口を脇に置こうと自身の手元に目を遣った。
コトリとお猪口を置くと、視界の中に、スッともう一つ別のお猪口を差し出す白い手が現れた。
「月見酒とは、よござんすねぇ」
手の持ち主はよく通る、透き通った水を思わせる声でそう言った。
その声に、僕はクスリと笑みを零す。
「今年もいらっしゃいましたか」
そう言いながら僕が顔をあげた先には、着流しを風流に着こなした若い男が居た。涼しい目元をしたその男は、その透き通るような白い肌の所為か、どことなく儚く見える。
「こんな良い晩は、この季節でないと拝めないからねぇ。美味い酒飲みたさに、ついね」
男はそう言うと、特に遠慮する素振りもなく、僕の徳利を自分の元へ引き寄せた。
「今日いらっしゃるなら、一言知らせてくださればよかったのに。おかげで酒の肴は何も用意していませんよ」
苦笑混じりに言いながら僕は立ち上がって、家の奥から酒を瓶ごと持ってきた。
「徳利から飲むから、風情があるんだろうに」
「貴方がいらっしゃると、毎年徳利では足りないので」
僕の反論を聴いているのか、いないのか、男はお猪口の中身をクッと飲みほした。
「美味いねぇ」
「美味いでしょう」
毎年僕とこの若い男は、この季節になるとこうして酒を酌み交わす。二人だけで飲むことがほとんどだが、ごく稀に男がどこからかふらりと客人を連れて現れることもあった。
「明日も見事な晩になりそうだねぇ」
「そうですね、月が明るいから。今年は気候も落ち着いていますし」
夜空を見上げるとそこには、やはり見事なまでの満月が静かに輝いている。
「明日は裏のお狐様を誘ってみようかねぇ。あの人もなかなかここが気に入ったらしい」
その言葉に僕は破顔した。
「お狐様と言いますと、去年一度だけいらっしゃった、あの博識な青年ですか。またお話したいと思っていたところです。是非にお連れいただきたい」
男は笑って一言、伝えておくとだけ言って、もう一杯お猪口を煽った。
「おやおや、今日は随分とペースが速いですね」
言いながら僕が男のお猪口を満たすと同時に、再度男は一気に酒をクッと飲みほした。
「今年までだからね、私は」
苦笑混じりに男は空のお猪口をコトリと縁側に置いてゆっくりと立ち上がり、今は淋しい桜の木を見上げた。
「嗚呼、それを言うなら僕も、ですよ。来年からはもう此処では飲めませんから。驚きましたよ、兄が此処の土地を売りに出すなんて」
寂しくなります、と小さく呟きながら、僕は桜の木を見上げる男の隣に並んだ。
「お前の父親は…」
「はい」
「私のことが、嫌いだったのだろうか」
少し苦しそうな声に、僕ははっとして男の横顔を見る。
「何故、そう思いますか」
「だって、私は来年の春を待たずして消えてしまう。ここ数年はお前が居たから良かったものの、もし予定通りお前の兄の手に最初から此処が渡っていれば、私は──」
父は、と僕は優しく男の声を遮った。
「貴方のことを好いていたと思います。僕らがまだ此処に両親と住んでいた頃、この時期台所には父独りで飲むには多すぎるほどの酒が用意してあったのがとても不思議だったんです。テーブルの隅には、いつも徳利とお猪口が二つ」
用意してあった酒の肴に手を出して随分叱られたこともありましたが、と僕は苦笑した。
「──ッ、ほんとうに」
「はい、本当ですよ」
泣きそうな子供のような顔で問いかける男に、僕は笑顔で応えた。
「そして父はあんなにも楽しそうだった──」
男の白い頬の上を、一筋の涙が滑って行く。
「──有難う」
そう言って男は綺麗に、けれど儚く笑った。
「忘れていたよ、これはあいつから貰ったのだったねぇ…」
男は自分のお猪口をそっと手に取った。
「私は初めて、酒の美味さを知ったんだ…」
僕らは無言のまま、また縁側に腰掛けると、互いに酒を酌み交わした。
それから僕らは、一言も言葉を発しなかった。それでも息苦しさは無く、寧ろその空気が心地よかった。
東の空が白み始めた頃、また晩に、とだけ言い残して男はするりと闇に溶けていった。
さて、一眠りしたら買い物にでも行こう。三人分の酒と肴を用意しておかなければ。
そんなことを想いながら、僕は白む空を眺めていた。
雪が舞うようになってから、僕はあの縁側があった家を見に行った。
そこは既に、家と言うよりも、跡地と言う方がしっくりくる場所になっていて、縁側があったはずの場所には、もう何も無かった。
幸い工事が休みだったようで、庭だった場所に足を踏み入れると、隅の方でそこそこ大きな桜の木の切り株が、うっすらと雪を被っていた。それを見下ろし、僕はふっと微笑んだ。口から吐く吐息が、柔らかく染まる。
「僕も、楽しかったですよ」
僕の足下、小さなお猪口が一つ、木の根に守られるようにしてそっと、土から顔を出していた。
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