一途な愛に塗れたカニバリズム
[ K市N町成人男性食人事件 : 被害者【白山賢治】容疑者【白山彌生】 事件発生後2回の公開捜査が行われたが、未解決・・・ ]
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「ただいまぁ」
冷えたドアノブを回し、俺は駆け込むようにしてリビングの中に入った。
やはり12月の中旬ともなると、寒気が槍のように体に突き刺さってくる。末端冷え性の人間には拷問でしかない。
「貴方?おかえりなさーい」
俺の愛妻、彌生の声が聞こえてきた。だが、今日の声はなぜか枯れている。昨今流行っている悪性の風邪だろうなと俺は少し心配した。
しかし、俺にも愚痴というものがある。今日のところはこれを聞いてもらわねば気が済まない。
「疲れたよ、今日も。客さんの接待は」
「まぁそんなもんじゃん、仕事なんてものはさ」
彌生は俺の意見に反対するように声をかけてきた。さっきの枯れ声が嘘のようにはっきりと聞こえてくる。
あいつは仕事の愚痴をいつも聞こうとしないのが悪い癖だよな、と考えながら俺はソファーに座り込んだ。
「ビールちょうだいよ、ビール。今日はとことん飲むって決めたんだ。」
彌生に声をかけたが、台所でなにかやっているようで俺の声は届いていない。仕方なく、俺はソファーから腰を上げ、冷蔵庫の方向にゆっくりと歩いていった。
俺は亭主関白ではないつもりだが、いつの間にかそうなっているのかもしれないな。昨今は女性の方が強いらしいし、優しくしといた方が身の為か。
俺は台所の包丁棚で何かをごそごそと探している彌生に向かって、「手伝おうか?」と声をかけた。普通の女房であれば、手伝いを要求してくれる事だろう。
しかし、彌生は「別にいいよ。」と冷たい口調で言い払ってしまった。
俺はしょんぼりしながら、まるで彌生の性格のように冷たいビールと枝豆を冷蔵庫から取り出し、だらっとソファーに寝転んだ。
ソファーで寝ながらビールを飲み、枝豆を飢えた獣のようにむさぼる。こんな惰性に満ち溢れた事をするのは、俺に極端にストレスがたまったときだけだ。
ストレスの原因は彌生ではなく贔屓にしていたプロレスラーが負け越してしまったことだが、もしかしたら彌生が助長しているかもしれないなぁと、不毛な考えを巡らせた。
しかし彌生は元々あんな性格だったであろうかと、ビールをガブガブ飲みながら回想にふけてみる。いや、高校の時からあんな冷淡な性格だったな。
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彌生と俺は、丁度夏休みまで一週間前の頃、高校のプールサイドで出会った。
俺が屋上からプールにダイブした時に、タオルを差し出してくれた女子が彌生だったのだ。
そもそも、俺はなぜ屋上から飛び降りたのか。それはまったく覚えていない。おそらくその時に上映されていた、コクリコ坂から影響されたのだろう。
俺がプールから上がって「ピンピンしてるぜ」と彌生にアピールすると、「あんた次はないわね」と辛らつに言われたのだ。それが、彌生とのファーストコンタクトだった。
とても恋物語が始まるような会話ではなかったが、なぜか俺は彌生に一目ぼれしてしまった。
俺が彌生に惚れた理由を簡潔に表すと、見た目である。
出会った時の彌生の印象はまさに、黒髪ロングの美少女だった。
目は狐のように細く、和風な顔立ちが更にそれを引き立てていた。
しかし、彼女の性格は俺にかけられた言葉から察するに、そうとうキツかった。初対面の相手に「次はない」なんて言えるのは、RPGの黒幕ぐらいのもんだろう。
だが、性格はともかく、正直言って彌生はかなりタイプの容姿だった。胸は貧相だが。
その時の俺は恋愛経験も無く、純粋に、何のやましさも無く彼女のことを好きになってしまったのだ。形容するなら純愛だろう。
それから俺は、彌生にかまわれようと、屋上から決死のダイブを何回も繰り返した。その度、彌生は俺が落下した地点まで近寄り、「そろそろ死ぬんじゃない?」と10回も笑われた。しかし最後は、「大丈夫?」と優しく声をかけてくれた。
足が折れた時に。
しかし、俺はそれでも飛び込むことをやめようとしなかった。
病院を退院したら、またやってやろう。そう考えていた。
だが、病院に見舞いに来た友人らや家族からは「阿呆・馬鹿・間抜」と罵られ、俺の心はボロボロに砕け散っていった。「故郷」で見た寂寥の念を感じる、というのはまさにこのことだと身に染みた。
だがしかし、俺の心を晴らす救世主、彌生が病室に現れたのだ。しかし、見舞い用のお持たせはなく、少しがくりとした。
「まだ生きてたんだ。死ねば助かるのに。」
「酷い台詞だな。」
「バカにはちょうどいい台詞でしょ、これ。アカギから引用したんだ。」
彌生は俺の知らない漫画か小説だかの台詞を言い捨てて、窓際にぽつんと置かれた背もたれのない椅子に座り込んだ。
「なんでさぁ、屋上から飛び降り続けたの?」
「それはいえない。秘密。」
「私にかまって欲しかった、そうじゃない?」
彌生は折れたほうの足をつんつん触りながら語りかけてきた。
こいつは痛いところを的確についてくる。二つの意味で。
「今、痛いところをついてくるって考えたでしょ。」
本当に痛いところをついてくるな、こいつは。
「まぁそうだな、とりあえずその手をどけてくれないか。」
「そっちの意味じゃないよ、恋文的な意味の方は?」
俺は焦った。恋愛経験もないのに、こういう話をするのもほとんどなかったからだ。自分の不利な話題でマウントされては、元々無いような勝ち目が薄くなってしまう。
「けっこう積極的だな、お前。」
「早く言ってよ。」
相手の性格の話題にして適当にはぐらかすつもりだったが、ストレートに聞かれてしまった。こうなってしまったら漢らしく、素直に告白したほうが良いだろう。俺は決めたことはさっさと済ませるタイプなのだ。
「あなたのこと、好きになったの。初めて会ったときから。」
俺が言うはずだった台詞を彌生はさらっと流すように言った。
俺は破顔しながら、頬を赤らめている彌生を見つめた。いや、窓から射し込む夕日のせいかもしれない。
だが、彌生は気のせいか、恥ずかしがっているように見えた。こうしてみるとまだあどけない少女という感じがする。
「なんで好きになったんだ? 俺のことを。」
上ずった声で気恥ずかしがる彌生に問いた。というか俺のどこに好きになる要素があったのか、徹底的に問いただしたい。
「魅力的だもの、あなたの内面。」
告白の定型のような言葉に、俺はさっきよりも醜く破顔した。なぜなら俺の内面、というより性格はあまり人から見て良くないからだ。授業態度もいいとは言えない。
そんな俺の性格のどこに惹かれたというのか。俺ですら全くもって理解できない。
「俺の・・・どこが好きなんだ・・・?」
困惑を含んだ質問に、彌生は嬉々としながら答えた。
「もちろん、心よ。その強靭な。私がいつも来るとは限らないのに、毎日プールに飛び込んでたじゃない。そのせいで先生に何回も叱られたでしょ?だけど、それでもあなたは飛び続けた。これってすごいことよ。こんな下らないことに時間も労力も費やすなんて、チンパンジーでもしないわ」
「それは褒めてるっていうことで捉えていいんだな?」
「モチのロンよ。だからこそ、私はあなたに惚れたんだもの」
モチのロンの意味はよく分からなかったが、ともかく俺は、彌生と親密な関係になった。
それから、毒気を孕んだ蛇のような女とのセカンドライフが始まった。
最初の彌生とのデートは動物園だった。
彌生と腕を組み、パンダやキリン、ゾウなど、基本的に当たり障りのない動物ばっかを見て回るだけだったが、かなり楽しかった。なぜなら、彌生が今見ている動物の生態や雑学をことごとく教えてくれるからだ。特に、ゴリラとチンパンジーにおいては生物学者ぐらい詳しい。流石に、俺の揶揄に使うことだけはあるなと思ったのを覚えている。
次のデートは確か・・・そうだ、水族館でやったんだった。
その時も、俺は彌生と手を組んで、彌生が生物の知識を教示してくれた。前のデートと構成はまったく同じだったが、彌生の嬉しそうな顔を見れるだけで満足していた記憶がある。
特に彌生はイルカが好きで、「イルカは人間より賢いんだよ。多分あなたの5倍ぐらいはね。」と毒を吐かれた。だが、彌生の口調は俺がプールサイドに落ちた時よりも柔和になっていた。
最後のデートは映画館だ。
ちょうどその時やっていた、「It」を見たのだが、このデートはあまり盛り上がらなかった。映画の内容ではなく、彌生が終始不機嫌だったからだ。
俺が「なんでそんなに機嫌悪いの?」と言ったら、「わたし、ああいう人を大切にしないストーリーは、あんま好きじゃないからかな。」と彌生は言っていた。
確かに、彌生は動物博愛主義者なのだから、こういう反応をするのも当然か。
悪くしてしまった雰囲気を直そうと、俺は「なぁんだ生理かと思っちゃったよ」とおちゃらけた。この冗談で雰囲気は和んだが、代わりに俺の両頬は血よりも真っ赤に腫れてしまった。
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今思い返すと、ろくな想い出がないもんだな。
しかし、こんな下らない想い出でも、俺は生涯大切に保管しておくだろう。
かけがえのない、大好きな人と幸せに過ごしていたのだから。
「なにやってるの、呆けたじいさんみたいな顔して。すごーく気持ち悪い。まるで交尾を覚えたてのチンパンジーみたい。」
かけがえのない大好きな人は、俺の心情に泥を塗るようにずけずけと俺の真横に座り込んできた。
前言撤回だ。こいつがかけがえのない存在なのは確かだが、ついでに愛想もないみたいだ。というか結婚してからも、こいつの性格から棘が抜けない。。まるでハリセンボンだ。
「いま、私のことハリセンボンみたいだなって思ったでしょ。」
彌生に告白された時よりも醜く、俺は破顔した。
本当にこいつは人間なのかとたまに思う。過去の痛いところをついてくるの時はまだ脈略があった。だがしかし、今回は前提のゼの字もないのに、ピタリと的中させてきた。なぜ分かったのだろう・・・。
「なんで、分かったんだ。」
「あなた、水族館でハリセンボン見てた時と同じ表情だったからよ。頬が少し膨らんで鼻の穴が広がってる。」
なんて洞察力だ。半年間同棲しているが、こいつの性格、というより性根はまだ掴み切れずにいる。
俺は自分が徹底的に敗北したことを認め、飲みかけのビールを持って寝室に戻ろうとした。
しかしその時、彌生が俺の手を抱き、耳元で静かにささやいた。
「今日は一緒に居たい。あなたの場所で。」
俺は驚き、手に持っていたビールを危うく落としそうになってしまった。
「いやに突然だな。俺が恋しくなったか?」
俺がニタニタ笑いながら彌生の頭をこづくと、「そうね」と短く返した後「先に行ってて、準備するから」と言い残し、台所の方へ小走りで向かっていった。
こういうときも彌生はなぜだか色気がない。
俺が見たあいつの色気のピークはおそらく病室で顔を赤らめた時だろう。
しかし、今夜は期待してもいいんじゃないだろうか。奴の色気に。
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俺はどきどきと高鳴る胸と奮い立つものを抑えて、軽くスキップしながら寝室に向かった。それと少し緊張もしていた。なにしろ彌生との夜は今回が初めてなのだ。半年間も誘わなかった俺にも非があるだろうが、なにしろ俺にだってプライドがある。
いつも勝気で冷静な彌生が、顔をあのときのように赤らめて「今日・・・どう?」といかにも新妻らしく誘ってくるのを見たかったのだ。その願いは地に落ちてしまったが。
ベッドに座り、俺はYシャツとネクタイをそそくさと脱いだ。ズボンも脱ごうかと思ったが、彌生にずり落とさせる方がいいのではないかと下衆なアイデアを考え付いたのでやめにした。初めから剥き出しだと浪漫がないもんな。
ベッドの中央で大の字に寝転がり、彌生をひたすらに待った。その間、俺は妄想を膨らましていたので、時間が15分も過ぎていたことに気づかなかった。
さすがに遅いなと気づき彌生を呼びに行こうとしたが、ペタペタと足音がこちらに向かってくることに気づいた。俺は「いよいよか」と呟き、切腹を覚悟した剣士の如くはっきりと目をつむった。目の前は真っ暗で、何も見えない状態だ。
足の音がだんだんと近づいた後、急に途絶え、足元のシーツがめりこんでいった。そして、おそらく彌生の手らしきものが太ももに触れたのだが、少しびくりとした。
なんだかゴワっとしていて、パサパサとしている。少なくともこれは女性の手ではない!
「なんだ彌生、この物体は。」
「ちょっと待ってね、縛るから」
「!?」
俺は彌生の突飛で物騒な言動に驚き、閉じた瞳をこじ開けた。そうするのも無理はない。自分の愛妻が、しめ縄で愛する夫を束縛しようとしているのだから。
俺は湧いてきた複数の疑問から一番先に聞くべき問いを切り出した。「なんでこんなことするんだ」と問いかけ、俺は両足に巻かれたしめ縄を振りほどこうとした。
しかし、彌生は俺を見つめ、俺とは対照的な冷静沈着な態度で「あなたのためよ」と言い、少しほどけた縄をきつく結びなおした。
俺はこの言葉の意味が理解できず、しばし考えた。
思考の末、「彌生は俺のプロレス趣味とM性感を既知していた」という結論に辿り着いた。
彌生は伝え方が本当に不器用だなぁと、心の底から思う。せめて結ぶ前に魂胆ぐらいは説明したらどうなのだ。
そう俺が思考している間に、四肢にしめ縄がガッチリと結びついていた。少し手足を動かしてみたが、到底ほどけそうにない。
「外すときはどうするんだ?」と疑問を口にしてみたが、彌生は全く反応することなく、ベッドから降りた。今から熱情の夜を始めようというのに、何をしているんだろうか。
「少し、待ってて・・・」
そう言うと彌生は、ベッドの下から、どこか見覚えのあるモノを取り出した。
それは、包丁だった。しかも常用するものではなく、中国の料理人が使うような長方形の刃身だ。
俺はこれを見て、自分の置かれた状況を完全に把握した。いや、縄で拘束された時から気づくべきだった。もしかして殺される?いや、品の悪いジョークかもしれないのか?
二つの思考が俺の頭の中を目まぐるしく交差した。
そして、結論した。
流石にジョークだろう、こんなのは。メンヘラ女ならまだしも、相手は他ならぬ彌生なのだ。俺はベッドに張り付いたまま彌生を誘うように、高笑いをした。
しかし、彌生は笑わない。いつもの嘲りや冷笑も無く、只々、哀しい表情のままだった。それも、今まで見たことのない、マネキンのように。
俺は笑うのを止めた。
「ジョーク・・・だよな?」
「違う」
彌生の返答は、曇りのない真実だと分かった。分かってしまった。
俺は生まれて初めて恐怖を覚えた。体を動かそうとしたが、硬直している。金縛りを形どると、こうなるのだろうか。
彌生はそんな俺を見つめ続けていた。恐らく、10秒は何も起こらなかった。なぜか、この異質な空間で。
しかし、その静寂は俺の右腕と共に断ち切られた。
俺は叫んだ。上げられた声は絶叫ではなく、断末魔だった。数秒前まで確かに付いていた右腕は、濁った血飛沫を噴水のように溢れさせていた。真二つに寸断された肩からどろどろと、ゼリー状のものが出てくる。
俺が赤ん坊のように泣き喚いているのを他所にして、彌生は俺の腹に跨り、包丁を床に投げ捨てた。
そして、笑った。
いつもの冷笑でなく、只々口を大きく開けて、笑っていた。電球の光が彼女の口元を照らして、明確に、露になる。
彼女の空笑を見た俺の恐怖心が肥大化していく。
なんなんだこいつは。俺の知っている彌生じゃない。もしや、彌生ではなく、面が同じなだけの偽物なのか。
化け物か、狂人か、はたまた愚者か・・・。現実逃避としか思えない考えが脳内を駆け巡る。
俺はまだ生きている左手を支えにして、目の前にいる醜悪な女を、突っ伏しながら見つめた。
「誰なんだ!お前は・・・」
精一杯声を張り上げたつもりだが、声が通っていない。だが間違いなく聞こえている筈だ。しかし、彌生だと思われしきモノは俺の言葉に答えず、代わりにとでも言うように耳元で囁いた。
「これが、本当の私なの。悲しいけどね・・・」
「そんな訳がない!誰なんだお前は!」
つい激情して、俺は声を荒げた。当然だろう、こんな惨いことをする奴は俺が愛した者ではないと確証できるからだ。
俺はそいつの太ももを強く掴んだ。爪を立てて、頑強に握りしめる。俺の爪皮膚に完全に食い込んだ。黒ずんだ血が溢れ出て、指の第二関節まで伝ってゆく。
しかし、奴が痛がることはなかった。
俺は更に爪を皮膚に埋め込んでいったが、血の噴出速度が加速するばかりで、一向に奴が声を出す気配はない。
一体何故なのか、朦朧とする頭で思考しつつ、奴の表情を見た。
その表情は、さっき俺に見せた笑いとは違っていた。
笑っているには違いないが、目が笑っていない。表現するならば、哀笑とでも言うのだろうか・・・?
その表情を崩さぬまま、奴は血と俺の筋繊維が付着した中華包丁を拾い直し、俺の腹の上部に置いた。
そして間髪入れずに、千切れた俺の右腕を、奴は口元に吸い寄せた。
同時に、奴の表情は一変した。さっきまでの哀しい顔が嘘のようで、快楽に支配されていた。口に皺を寄せ、俺の右腕をまじまじと舐めまわすように観賞している。
俺は今おかれている状況が理解できず、一つの疑問を叫ぶように提議した。
「何がしたい・・・?」
「私の愛を・・・確かめてもらうためよ」
そう言うと奴は俺の右腕に喰らいついた。皮膚が千切れ、もう既に枯れたと思っていた血が、奴の口元に付着した。それでも奴は喰らう事を止めない。
がつがつと鈍い音を立てて、奴の胃袋に落ちる。
「狂ってる・・・狂ってる・・・誰だお前は。彌生を何処に連れ出したんだ!」
「顔も声帯も、まるで同じじゃない。狂ってるのは貴方じゃないの?」
「違う!仏頂面で、何考えてるか分かんないけど、こんな惨い事を平気でする奴じゃなかった・・・!」
俺の叫びに気圧されたのか、奴はびくりとした表情を見せた。そして、俺の返り血で汚れた顔を下に向けた。赤黒い雫がぽたぽた落ちる。
「平気なんかじゃないよ。人を殺すんだから・・・」
そう言うと、奴は涙を落とした。垂れている血とは全く異なる、透き通った雫を。
「私、貴方が出勤してからずっと、泣いてた・・・。愛した人と別れるのは、寂しいから。しかも永遠に・・・」
「だったら何故だ、お前の行動は矛盾してるよ・・・」
「矛盾してなんかないよ。私は真実しか、言わないもの」
この発言で俺は切れた。脳に血が上ることはないが、顔が歪んでいくのが分かる。
「お前・・・映画見たときにさ、言ったろ?人を大切にしない物語は好きじゃないって!言っただろう!」
「私は貴方を、大切にしてる。だから、殺す・・・」
「意味が分からない!内面が好きなんだろう、俺の心が、性格が!」
俺はもう、半狂乱状態になっていた。意味不明な言動に賛同できるほど、体の状況は良くない。血が、さっきまで右肩だった部位から噴出し続けている。
俺は叫び疲れ、支えていた左腕を崩して仰向けになった。その瞬間、これは現実なんだ、と耳打ちされたような気がした。実際、その方向に俺の思考は傾いている。こいつは彌生なんだと、脳はとうに理解していた。
それを見て、俺にもう余力が無いことに気づいたのか、彌生は哀笑ともとれる微妙な顔で語りだした。
「内面の意味が、違う。私が言ったのは、心臓のことよ。貴方のは、今までに類を見ない、実に優良な心臓・・・。だって、灼熱地獄と化していた夏の屋上から水温22℃の水に飛び込んでも、心臓麻痺なんて一度も起こさなかったんだもの・・・。それでね、私、哺乳類が好物なの。イルカは少し柔らかくて、何とも言えない味だった。だけどね、チンパンジーは飛び切り、突き抜けて美味しかった・・・!あれ以上の美味を私、体感したことがなかったの。その中でも一番美味しかったのは、心臓。まだ脈打ってる時に喰べた。その血が、喉を通っていくのが、堪らなかった・・・。だって、今まで何をしても得られなかった興奮と気持ちよさがあるんだもの。」
話は、到底信じられなかった。あの清楚で冷静な彌生が、惚気ながら話しているからだ。俺の見たことのない表情が、次々と映る。
俺は少しばかりの嫉妬を屠り、気力を回帰させた。
「要約は理解出来た・・・。チンパンジーが美味かったんなら、人間はより素晴らしい食材だって、考えたのか?」
「えぇ・・・だから貴方を殺そうと思った。だけど、殺せなかった・・・。情が沸いてしまった・・・!」
血に濡れた女は懺悔の表情を露にして、急に泣き出した。もう枯渇しているのか、涙は出ず、嗚咽だけが室内に響く。
「病室で殺しておけば、寝ているときに殺してしまえば、貴方は苦痛を感じることなく安らかに眠りにつくことができた・・・」
「だとしたら、何故俺は今生きているんだ?」
彌生は返答に窮したようにシーツを掴み、波のようなしわを俺の方に寄せた。そして、肩を震わせながら質疑に答えた。
「貴方に私の愛を・・・形を知ってもらいたかったから・・・」
俺はその応答にどういう意味だと異議を唱えようとしたが、彌生は俺の口に人差し指を当てて、遮った。
「物を食べるということは、そのものを吸収し、自分自身の糧にするということなの。糧というのは私に宿り続ける・・・いわば魂のような物。
私にとってその魂というのは、誰にも見せてこなかった、一番大切なもの・・・。貴方の心臓は私の体に宿り、共に永遠の生涯を過ごす。これが私の愛・・・」
彌生は狂気に満ちた恋愛論を語り終えると、安堵したように視線を下に落とした。
俺は納得した。彼女の言い分ではなく、自分が殺されることに。
やり方が傲慢で、愚直で、人とは思えない。だが、それが彌生なりの愛の答えだったのだろう。本当に、不器用だ。不器用すぎる。
俺は何かを欲しがる子供のように号泣し、顔を涙で濡らした。血と混じって、薄赤色の雫が数滴、シーツに滴り落ちていく。
「お別れしていいかな。もう、辛くなっちゃって・・・。」
彌生は言った。哀しげに俺の顔を伺って。
俺はうなずいた。どちらにしろ死ぬのだから、早急に殺してもらった方が俺の為だろうと。
「遺言はある・・・?」
俺は「無い」と掠《かす》れた声で言い残し、左手を胸に置いた。
彌生はその行動を見て察したのか、身を翻して床に足をつけた。それと同時に俺の腹に置いていた中華包丁を、鞘から抜き取るように手にした。
彌生が血を弾ませて俺の真横まで歩いてくる。
喉元から切り落とすつもりなのか。彌生は俺の首の真上に包丁を構えた。
そのとき、俺はさっきついた嘘について思考した。
さっき、遺言は無いと言ったが、本当はあるのだ。愛の感情ではなく、過去に抱いた感情だが。
首を落とされる前に、さっさと言ってしまおう。彌生と会う事はもう無いのだから。
彌生が刃を振り下ろすのが見えた。
俺はその瞬間、体に残った全ての力を振り絞り、言い放った。
「愛してたよ、彌生」
これで満足だ。死ぬ事が出来る。
俺は余韻に浸りながら、もう一度だけ、彌生を見た。
その表情は、さっきよりも哀しく、歪んでいた。まるで懺悔しているかのような。
だが、彌生がたとえ後悔していたとしても遅いだろう。
ギロチンは、喉から頸までの行路を一直線に進んだのだから・・・。
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[ 『事件の詳細』
白山彌生は白山賢治を殺害後、中華包丁で手首を切り落として自殺したと見られている。切り落とされた手首の傍には、遺書だと思われる封筒が残されていた。
『白山彌生の遺言』
「あなた、ごめんなさい。私は今から、私を、殺します。何故と問われると、具体的には答えられません。ですが、一つだけ、大まかに分かるんです。それは、魂の喪失。
私は言いました。あなたが糧となり、私と居続けることが、愛なのだと。
しかし、それは相反した考えだと、今になって思うのです。
私は快楽に溺れながら、あなたを吸収した。だけど、食べ終わった後、残ったのは限りのなく広がる、虚無でした。
孤独に苛まれることは仕方がないと自負していたつもりでしたが、脳の中では、体感したことのない感情たちが、渦くのです。自戒、悲哀、消失、慈愛・・・。
全てが私を襲い、苦しめた。それも、生きていられないほど執拗に、残酷に。
私はこの感情の原因を、あなたの魂がこの世界からなくなったからだと、考えます。あなたの魂が、無いんです。心臓にも、内臓にも、脳にも!
あなたがいないと淋しくて、辛い・・・。
あなたは今、死の世界に居るんでしょう。身勝手ですが、私もそこへ行きたいと思います。
たとえあなたが天国にいるとして、私が地獄に行くのだとしても、きっと巡り合える。同じ世界にいるから。
それでは、またどこかで逢いましょう、あなた。 白山彌生」 ]
「死ねば助かるのに・・・」
この作品を読んでくれてありがとうございました。
処女作ということもあって、まだまだ稚拙な文章だと思います。なので、文の用法の間違いなどあれば感想で言ってください。
もし機会があれば、またこの作品を読み直してもらいたいです。構想を何回も練り直した末に完成した作品なので、読み直してみても新たな発見があると思います。
僕はなんとか新しい発見をすることができました。
最後に、この作品もあとがきも未熟な文章力でしたが、最後まで読み切っていただいて、本当にありがとうございました。