功蓋天下者不賞《功天下を蓋う者賞されず》
短編書くなら長編書け? ははは、そのとおり。まぁ気が向けば読んでください。
戦国時代、魏国にある公子がいた。戦国四君と称される四人の、諸国の偉大な公子に名を連ねながら、しかし彼だけは何故か、『史記』列伝に魏公子としてとしか記されていない。
当時、秦では范雎という男が宰相であった。この范雎は、かつて魏におり、魏の宰相である魏斉に大いに恥辱を受け、それがために魏を恨んでいた男であった。范雎の性格は、一飯の恩にも必ず報い、一睨の怨にも必ず報いたと称されるほど、清爽であり凄烈であった。そのため、魏では秦への憂慮を深めていたが、しかし、秦は魏に対して派手に手を出すことはしなかった。それはひとえに、彼の公子が魏にいたからこそである。
その公子は、当代の魏王の異母弟であり、名を無忌、号して信陵君と言った。賢明であり胆勇に優れ、仁愛、謙虚、礼儀正しさと、人の上に立つ者としての素質が十二分にあり、多くの食客を養っていた。しかし哀しいことに、信陵君は王ではなく、王弟なのであった。加えて、当代の魏王とは暗愚と猜疑心が凝り固まってできたような男であり、有能な異母弟を重用して国難に当らせることをせず、かえって、王位を脅かす者として遠ざけていたのである。
しかし信陵君はこれを嘆いたり不平に想ったりすることもなく、日日、賢人を求め、これを敬うことを続けた。その光景はと言えば、賢人と見るや、門番の老人を迎えるのに自ら足を向け、屠殺人にさえ自らの客に、と足しげく付け届けを持参して訪れるほどであった。一国の公子の行いとしては異様と言えるだろう。
ただし、信陵君も、決して十全の人格者であった、というわけではない。いや、至らないところがあり、それを知っているからこそ、信陵君は人を求めた、とも言えるのかもしれない。
先述した魏斉が、信陵君の下へ逃げ込んできたことがあった。これ以前、魏は秦から、戦争か、魏斉の首か、といった脅迫を受け、身の危険を悟った魏斉は諸国を逃げ回り、ついには信陵君を頼ったのである。
この時、魏斉は虞卿という人物と同行していた。虞卿は趙の人であり、魏斉が信陵君以前に頼った男でもあった。
信陵君は、さすがに秦を恐れて、即座に二人に会おうとはせず、代わりに、
「虞卿とはどんな人物なのか」
と、配下の者に訊いた。
この時、侯嬴という老人が信陵君へ説教をした。この侯嬴は、かつて門番をしていたところを、推挙があって信陵君の客となった人物である。
「他人は容易に貴方を理解してはくれないように、貴方もまた容易に他人を理解することはできません。虞卿という男は貧相な見た目で趙王に謁見し、一度見えて黄金、玉を賜り、二度見えて上卿を拝し、三度見えては大国、趙で丞相を拝しました。しかし今、魏斉の困窮を知るや、それらの地位、財貨などすべてを棄てて貴方の門を叩いておられるのです。どんな人物か、とは見当はずれな問いかけでございましょう」
侯嬴に言われて、信陵君は大いに慙愧した。ただちに、魏斉と虞卿に会おうとしたが、しかしわずかなこの逡巡のため、魏斉は怒り、また、秦を恐れて自刎していた。信陵君の中には、後悔が強く残った。同時に、虚しさをおぼえた。
――今、魏斉どのがこのような憂き目を見ているのが私の罪であることは間違いない。しかし、魏国に私以外、魏斉どのが頼る者がないということが、そもそも不思議なことではないか。
秦は強く、魏は弱い。これは、信陵君一人で覆すことなど出来ようのない厳然たる事実であった。しかし魏は、秦を恐れるあまり、媚び、狎昵しようとして同族の首を狙っている。これでは、魏が秦に滅ぼされる日は、すぐそこまで来ているように思えたのである。
――兄弟、墻の内に争えども、外に向かえば一致して侮りを禦ぐ、とはもはや妄言かな。
内に争いあり、外に強国あり。正に内憂外患であり、しかしその現状を変える力を持たない。正確には、持たせてもらえない、と言ったほうが正しいが、信陵君は無力であった。いや、少なくともこのとき、信陵君は自身が無力である、という思いを強くしていた。
信陵君に、その思いを深くさせる出来事が、さらに起こった。
隣国、趙が秦に攻められ、都である邯鄲が包囲されていたのである。魏はこれを救援しようとしたが、やはり秦の脅迫にあって、魏趙の国境で軍を止めた。信陵君は個人的に趙の宰相、平原君と交誼があり、また、信陵君の姉が平原君の妻であったので、魏王を説いて、趙を救おうとした。
しかし、魏王は頑として頭を立てに振ることはなかった。次第に、信陵君は趙の援軍にかこつけて兵権を奪い、王位を簒奪しようとしている、といった噂さえ流れるようになり始めたのである。悩んだ末、信陵君は、配下の食客を率いて、自ら援軍に赴こうとした。
そのとき、侯嬴が信陵君に言った。
「貴方はかつて、魏王の寵姫の一人の仇討を手伝いなさったことがあるでしょう。その恩を利用して、その者に魏王の割符を奪わせ、国境に留まっている軍を率いていきなさい。さすれば、趙を救うことは叶うでしょう。いえ、そうしなければ、異国に屍を晒しにいくのと変わりません。趙も救えず、我らも皆死ぬ。つまり、犬死です」
侯嬴は、言い難く、また、他の食客が胸中に留めて敢えて言わなかったことをあっさりと言った。信陵君にとっても、その事実は痛感しており、それだけに、割符を奪って軍を率いろというのは、現実的な策であるといえばそうであった。
「しかし、それでは国家に対して不義になります」
「左様。しかし、貴方は魏の恩を棄て、趙を助けてはならぬという命に背いてでも平原君に義を示すとお決めになられました。国家に対して不義になる、とは今更ですな」
信陵君はやや黙り込んでいたが、やがてすべてを振り払ったように、落ち着いて言った。
「分かりました、先生のお言葉に従い、そのようにいたしまする」
「結構。ただし、貴方は、理由はなんであれ、不義を犯されました。報いは、いつか、貴方に降りかかってきますぞ。そのことをお忘れなきように」
信陵君は、言われた通りに割符を手に入れ、国境で駐屯していた軍を率いて趙へと向かった。そして、同じく援軍として来ていた楚の軍勢とともに大いに秦軍を攻めて、邯鄲の包囲を解かせた。もはや魏に帰ることの叶わなくなった身であるため、信陵君はそのまま趙へと残った。そうなると、当然、趙では、国難を救ってくれた人物として持て囃されたため、信陵君にも、驕慢の色が見えるようになり始めた。
これを憂いて、食客の一人が信陵君を諫めた。
「世の中には、忘れるべきものと、忘れてはいけないものがございます。貴方が他人に対して徳を施したことについては、忘れるべきものであり、貴方が他人から施された恩義は、忘れてはいけないものです。貴方は確かに趙を救いましたが、そのために、恩義ある魏で罪を犯されました。趙では功績がありますが、魏に忠臣であったとは申せません。公子にはどうか、驕りのないよう、自制に努めていただきたい」
信陵君は、言われてすぐに自責し、態度を改めた。こういう素直なところも、信陵君の美点である。やがて趙王は、国難を救ってくれた礼を述べるために、信陵君を宴に招いた。しかし信陵君は尊大な態度をかけらも出さず、心底から恐縮し、
「無忌は不肖にて、魏に背を向けて、今また趙に置いても何の功もない男に御座います。しかるに今、魏国に居場所なく、他に行く当てもなく、流亡の旅をするにも諸国の風が身に染みまする故に、趙王の御仁恕に御すがりして、この国に置いていただきたく存じまする」
と、謙譲して宴に臨んだ。
この時、趙王は救国の礼として、信陵君に五つの城市を贈ろうと決めていたのだが、宴が終わるまで信陵君は謙譲の姿勢を取り続けたため、終に言い出せなかった。
信陵君の、辞が低く、身分の貴賤を問わずに人士を求める姿勢は趙でも変わらなかった。趙に、薛公、毛公という処士がおり、無官であったが賢人であった。信陵君はこの二人の所在を調べ、微行して二人と交誼を結んだ。
信陵君はこの縁を喜んだ。しかし、姉婿であり、趙で交誼のあった平原君はと言えば、
「信陵君と言えば天下に並ぶ者なしとうたわれた賢人であったが、博徒などとやたらと関わっているとは、つまらない人間に過ぎないのではないか」
と評した。
このことが信陵君の耳に入った。信陵君は嚇怒した。信陵君にしては、珍しいことである。
「私は平原君が賢であることを聞いたが為、魏で罪を負うことを問わずに趙を救ったのです。しかし、平原君と私とでは、人を求めることの道が違ったようだ。平原君の人を求めることは、徒に豪遊して権勢を示すのみで、士を求めているのではない」
事実、平原君は交誼というものについて、貴位にあって人と交わるのは、貧しくなったときに援助を受ける為。富裕の身で人と友誼を得るのは、貧乏になったときに助けてもらうため、と言ってのけるような人物であり、信陵君のそれと根本的に異なるものであった。
信陵君が平原君を賢人であると思ったのであれば、それは信陵君の見当違いであったと言えよう。信陵君はそれを想い、このような人物のために国を棄てたのか、という後悔の念が僅かに芽生えて来た。憤りは、信陵君を旅装へとはしらせた。
平原君は、秦が趙を攻めないのは信陵君あってこそだということは分かっているため、その話を聞くや、慌てて信陵君の邸を訪れた。そして、冠を脱いで失言の無礼を詫びた。自分と同じ、一国の公子が冠を取って頭を下げている光景は、信陵君にもさすがに哀れに思えた。
平原君に力がないわけではない。
――今は、どこの国もこのような有り様よ。
そう思うと、平原君の在り方を肯定はできないものの、この人なりに、権勢盛んに見せることで国家の威厳を保とうとしているのかもしれない、と思うようになった。結局、信陵君が趙を去ることはなかった。ただし、この一見で趙での平原君の評判が落ち、平原君の食客の多くが信陵君の下に身を寄せる、という結果となった。
信陵君がいる間は、趙は安泰であった。一方で、信陵君のいなくなった魏は、秦にとって格好の獲物となり、たびたび秦からの侵攻を受けていた。魏では、ようやく信陵君の存在の大きさを知り、度度、趙に使者を遣って信陵君の帰還を請うたが、
――信じられぬ。私を呼び戻して、誅殺する腹ではないのか。
と疑い、初めのうちは使者を慇懃に追い返していたのだが、そのうち、
「敢えて魏王の為に使者を取り次ぐことならず」
と命令を出し、幾度となく来る使者を尽く門前払いにした。食客たちも、流石にこれはやりすぎではないかと考えたが、皆、信陵君が魏王に背くのを諫めなかった立場なので何も言えなかった。ところが、信陵君を諫める者がいた。毛公と薛公である。
魏に対して負い目のない二人は、敢えて気軽に言い放った。
「公子が趙で重んじられ、諸侯がその名をご存じなのは、ただ魏においてその名声があったればこそです。しかし貴方は、秦が魏を侵しているこの現状を他人事のように眺めておられます。しかし、秦が魏を破り、その宗廟を破ることがあれば、貴方は何の面目があって天下の人の前に立たれるおつもりですか」
毛公、薛公とて魏王が暗愚なのは知っている。魏王が信陵君を召喚して謀殺しようとしていない、とは断言はできない。
しかし、魏王に陰謀なくとも、ここで信陵君が立たなければやはり、信陵君は天下にその名声を失うであろうことを知っていた。二人は信陵君に、名声を失って衰亡するくらいなら、祖国に向き合って死ねと言っているのである。
信陵君にも、その深意は伝わった。しかし信陵君は二人を恨むようなことはせず、むしろ感謝の意を示して、趙を去った。魏に戻った信陵君を魏王は、上将軍(元帥)の印綬と、感涙をもって迎えた。この暗愚な異母兄が、初めて自分を認めてくれたのだと思うと、胸が熱くなり、思わず信陵君も涙をこぼした。
魏は、信陵君の帰還によって息を吹き返した。上将軍となった信陵君は諸侯に呼びかけて軍を集め、魏に押し寄せていた秦軍を攻め、秦の国門、函谷関まで押し返した。
この頃が、信陵君の絶頂であったと言ってよい。
しかし、信陵君の威勢は、長くは続かなかった。国難が去れば、抜きんでて有能な親類は、王位を脅かす者に戻る。魏王の猜疑心に拍車をかけるように、魏国内では、
「公子は十年、魏にあらずとも、一たび帰れば将となり、諸侯は皆公子に隷属する。魏において、信陵君の名を聞くも、魏王を聞かず。公子もまた王位を欲し、諸侯は公子の威を恐れて信陵君の魏王になることをの望む」
といった噂が流れるようになった。これは、信陵君の威勢を恐れた秦が流した中傷である。秦は、さらに手の込んだことに、使者に金品、宝物を持たせて魏へ遣り、
「信陵君様の魏王就任の祝賀に参りました」
などと述べさせたのである。
事実無根のことであった。しかし、実際に信陵君がその気を起こせば、いつでも現実になり得ることであっただけに、魏王は恐れた。主を震わせる者、身危うく、功天下を蓋う者賞されず、という言葉がある。王位を守ることだけに汲々として、自分が累卵の上にいることを知らない魏王は、自身の首を絞めているのにも気づかずに、信陵君を将軍の座から外した。
――これが、侯嬴先生が仰った不義の報いというものであろうか。いかなる恥辱の中に死ぬも覚悟してはいたが、祖国が自ら滅びへ歩み出すのを見せつけられることになろうとは。
失意のうちに沈んでいった信陵君は、やがて邸に籠りきりになると、酒浸りの生活を続けて、四年の後に亡くなった。魏は、その十八年の後に滅ぶのである。
信陵君は一人で諸侯を招集して秦の侵攻を押し返しながら、終に国家に信用されずに死んでいった。魏国は秦に滅ぼされ、秦が亡びた後は漢帝国の下で、劉氏(漢の皇族)の王が支配した。しかしその輿望は百年を経ても絶えず、魏の民衆は信陵君の祭祀を欠かさなかった。とりわけ、漢帝国を打ち立てた高祖劉邦は信陵君の賢明さを敬拝し、魏都、大梁を通るごとに信陵君の祭祀をとり行わせたという。