第六章 理想の鏡
僕にはずっと悩みがある。子供の時から誰にも言えなかった悩みだ。僕はずっと女の子になりたかった。髪を伸ばして、オシャレしたかった。女の子たちと遊びたかったんだ……。けれど、そんなことは言えなかった。言えば、古い考え方の両親は大反対するだろうし、友達からは縁を切られる。だから誰にも言えなかったんだ……。
少年、長谷川有希は性同一性障害だった。心と体の性別が異なる病気である。彼の場合、男の体に女の心を宿していた。彼はこの病に悩み苦しんでいたのだった。
「最近は学校の授業も頭に入らない。暇さえあれば、ずっと女の子になった理想の自分の学校生活を妄想してしまう。……このままでは日常生活までおかしくなる」
有希は自分の悩みを解決するため、散歩しながら、自問自答を繰り返していた。しかし、解決方法は見当たらない。
「あ~、悩んでも解決しないな。そろそろ帰ろうかな。母さんが心配するし……ん?」
有希は辺りを見渡してみる。周りは草木が生えた荒野のような風景だった。薄暗く、今が何時かもわからない。木々は枯れてしまっている。ここはいったいどこだろうか?
「悪い癖だなぁ。考え事したり、妄想したりすると、周りの状況が分からなくなる……」
心細そうにあたりを見渡した。すると一軒だけ店があった。明かりがついているため、人がいるようだ。近くまで来ると、『アンティークショップ』と書かれた看板が見えた。 少年は道を聞くために店に入ることにした。
『リーンリン』とドアの開閉と共に鈴が鳴る。
「あの~、ごめんくださ~い」
声を掛けるが、返事がない。手持無沙汰なので、有希は店内を見渡してみた。そこには骨董品の数々が並んでいた。彼は好奇心に支配され、美しい品々に心を奪われた。
「うわ~、綺麗なお店~。それにしても、すごい品だな。どれも高そう。どれも、古そうだけど、すごく綺麗。この鏡なんて、西洋のお城にありそうで、立派な……」
彼は店の端の机に飾られている古く丸い鏡に興味を持ち、正面から見ようとした。
「っひ!!」と短く悲鳴を上げる有希。鏡の中には美しい少女が顔を覗かせたからだ。
彼はもう一度、鏡を見た。確かに少女がいる。ずいぶん若い少女だ。中学生くらいだろうか。長く美しい黒髪に絹のように白い肌。アメジスト色の瞳をした可愛らしい姿で、まさに自分の理想の少女だった。初めは、テレビのように映像を映す物なのかと思ったが、どうやら違うようだ。自分が手を動かすと少女も手を動かす。自分が瞬きすれば、彼女も瞬きする、有希が立っている位置に少女も立っている。このことから、鏡に映る少女は自分自身なのだとわかった。
「不思議な鏡だな。どんな構造なんだろう。鏡の前に立つ人の姿を女の子にするなんて……しかも、自分が成りたい女の子の姿だ」
有希が一人で呟いていると、鏡の中の少女の後ろに真っ黒い人影が映った。驚いて後ろを振り返ると、初老の男性が立っていた。この店の店主のようだ。
「お気に召しましたかな?」
店主はそう言って鏡を持ち上げ、少年が映るように自分の前に鏡を抱えた。少年はこの人が店員さんかな?と思いながらも、返事をした。
「ええ、すごく素敵な鏡ですね。鏡の装飾が綺麗だったから見てみたら、鏡に映った僕が女の子になっているんだもの。驚きました。どんな構造なんですか?」
「これはね。真実と理想を映す鏡なんですよ。鏡に映った人の本当の姿を映したり、理想の姿を映したりするんですよ」
そう言って店主が少年に向かって鏡を向けてくる。鏡には相変わらず美しい少女が少年に向かって笑いかけている。
「さしずめ、貴方は心が女の子なのでしょう。それで鏡に少女が映った。この少女が、かくも美しいのは貴方の理想の姿を映したからなのでしょう」
店主のその言葉に、有希は驚きを隠せなかった。自分が女の子になりたいだなんて、友達や家族にだって話したことはない。それなのに、初対面である、目の前の老人はあっさり、と自分の本心を読み取ってしまった。
「すごいですね。今まで誰にも話したことはなかったのに。おじいさんは超能力者か何かですか?」
「いいえ、先程も言ったように、この鏡には理想と真実を映す鏡です。だから貴方の本心がわかっただけですよ」
そういって店主はほほ笑んだ。
「この鏡はいくらですか?こんな鏡二つとないです!買いたいですが、手持ちが……」
その言葉を聞くと店主は抱えていた鏡を少年に手渡した。少年はどういうことなのかわからなかった。しかし、店主はほほ笑みながら言った。
「貴方には特別にタダで差し上げましょう」
「タダで!?いただけませんよ。ただでさえ綺麗な鏡なのに、こんな魔法みたいな力があるなら随分高いはずです。分割でもいいなら、バイトして……」
「いいえ、良いのです。私の店にご来店のお客様は皆、最初は商品を疑うのです。しかし、貴方は、これが魔法の鏡だとすぐに納得してくれました」
「でも……流石にタダでは……」
「貴方はこのお店を綺麗だと言ってくれました。それに、その鏡は理想と真実を映す鏡です。鏡の中の貴方は美しく、嘘偽りはありません。なので、お代は結構です」
店主はそう言って、有希を納得させてしまった。
「あの、ありがとうございます。……あっ!そうだった!すいません、おじいさん、実は道に迷ってしまってここにたどり着いたのです。町までどのように行けば……?」
「それなら、心配はいりませんよ。この店を出てから、真直ぐ行けば、すぐです」
「あ! ありがとうございます!! 鏡、大事にしますから」
「ええ、それではお気をつけて、美しいお嬢さん」
最後にそう言って店主は少年を送りだした。少年が店から出て歩いていると、深い霧にのまれたが、五分もたたないうちに、町に着いた。
「こんなに近かったんだ。それにしても、いいお店だったなぁ~、ってあれ?」
有希は腕時計を見て、首をかしげた。道に迷う前まで五分もたっていない。
「店には十五分は居たはずだけど、時計壊れちゃったのかな?」
気を取り直して、有希は家にたどり着いた。ちょうど、夕飯が出来たようだった。
その夜、有希は風呂に入った後、自室で例の鏡を見ていた。相変わらず、そこには可愛らしい少女が自分の姿を見つめている。櫛で髪をとくと、実際の自分はあまり髪をとけないが、鏡の中の少女は長い髪をといていた。
「ふしぎだなぁ」
それからというもの、有希は鏡を見つめる時間が多くなった。妄想をすることはなくなったが、理想の自分の姿に満足だった。しかし、所詮は鏡の中の姿であった。
「はぁ、再来月テストだよ。グループワークとかもだるいし……。理想の自分の姿が映っても、女の子として生きられるわけじゃない。しかも、嫌なことはしなきゃいけないし、もうどうしよう……」
そうやって独り言を呟きながら、鏡を見ていると少女が笑った。
「ん!? 僕は笑ってないぞ!? どういうこと?」
すると、鏡の中の少女が言葉を発した。
「こんにちは、〝私〟。浮かない顔してどうしたの?」
可愛らしい声だった。
「――!?君は話せるの?」
「ええ、私はあなた自身だけれど、ちゃんと話せるわ。何か辛いことでもあったの?」
どうやら、彼女とは会話が出来るようだ。
「うん、君は僕自身だから、わかると思うけど、僕は女の子として生きたかった。だけど、見ての通り男なんだ……」
「それは辛かったわねえ」
少女は有希に同情的な視線を送った。
「しかも、生きていると、嫌なことばかりだ。僕が完全な女の子なら、自己同一性が確立されて、よし、がんばろう!!ってなるけど、性同一性障害なんて重りを抱えながら生きるのは辛いよ。いっそ、君と入れ替わりたいなぁ」
有希は気だるそうに、そういった。その言葉に目を輝かせる少女。
「本当!? じゃあ入れ替わりましょうよ。貴方が辛いと思う出来事がある日は私が入れ替わってあげる。」
「え?いいの!?」
「もちろん、貴方は私、私は貴方なんだから、辛い時には入れ替わればいいのよ。鏡の中の女の子としての姿が貴方になって、現実世界の男の子の体に私がなるの。簡単でしょう?」
「願ったり叶ったりだよ。それで、さっそくだけど、明日グループワークがあって、皆の前で発表しなきゃいけないんだけど、僕、役立たずだから、皆に邪魔者扱いなんだ……」
「OK。じゃあ、明日ね。安心して休むといいわ」
少女のその言葉に心から安心して、その日有希は人生で一番ぐっすり眠れたようだった。
ちゅん、ちゅん、と鳥の鳴く声が聞こえた。
「ここは?」
有希がベットから身を起こすと、やけに頭が重い。目の端には長い黒髪が見えた。胸には膨らみがある。おそるおそる、股間に手を当てるといつも嫌悪感を抱いていたモノはなかった。部屋を見渡すと小さな手鏡がある。そこを覗くと昨日、鏡の中にいた少女の姿がそこにあった。驚いて、以前アンティークショップで貰った鏡を見てみるとそこには、自分と同じ部屋が映っており、いつも洗面所で見ていた有希の顔が映る。
「やぁ、おはよう。昨日はよく眠れたかな?」さわやかにそういう有希?
「え? 誰? なんで僕がそこにいるの?」
自分の口から発した言葉はえらく可愛らしいものだった。鏡の向こうの有希は話す。
「昨日約束したしたじゃないか。俺達は入れ替わるってさ」
その言葉で思い出す。確かに昨日自分が嫌な時は入れ替わると鏡の中の少女と約束した。
「ああ、そうだったね。君がそこにいるってことは、こっちが鏡の世界なんだね。なんかいつもとおんなじ部屋だから、びっくりしたよ」
「まぁ、鏡だからね、文字とか景色とかが反転してるけど、それ以外は変わらないよ。」
「ふーん、そうなんだ。それにしても昨日と口調が違うんだね。男の子の体に合わせたんだろうけど、僕が僕じゃないみたい」
「まぁ、体にあった口調は大事だからな。キミもそうしなよ」
「わかった……おっと、わかったわ」
「そうそう、その調子。でも、名前がややこしいな……」
「そうね。じゃあ二人でいる時は、私がユキで、貴方がユウキってのはどうかしら?」
「いいね。そうしよう」
ユキの発案でお互いの名前が決まった。
「じゃあ、僕は学校に行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
女の子になった有希は最高の笑顔で少年を送りだした。有希はとにかくうれしかった。念願の女の子の体を手に入れられて、はしゃいでしまった。押し入れから、ぬいぐるみを引っ張り出してきて、たっぷり愛でた。いままでそうすることができなかった分、そうしようと思ったからだ。押し入れの服は全部女の子の服に変わっていた。鏡の世界だから、洋服も女ものに反転しているようだ。
部屋にある姿見の鏡でおめかしした。そうやっているうちに有希が帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ただいま。今日は楽しかったよ」
「へー、どんなことがあったの?」
「実はね」
――教室において
「―以上により、こういう結論に至ったわけです」
有希が説明すると一同「お~」と感心する声が聞こえ、拍手の音も鳴り響く。友人の雄介が話しかけてきた。
「今日はどうしたんだよ?」
「何が?」
「いつもより冴えてるじゃないか?」
「そうかい?」
「そうだよ。いつもはあんまり頼りにならないのに……」
「それもひどいな」
頭をかきながら有希は笑った。そうしていると、隣にいた同級生の山本可憐が話しかけてきた。クラスでも美人と評判の子だ。
「貴方って実はすごい人だったんだね?」
「……そうでもないよ」
有希は謙遜して答えた。グループワークの発表は大成功を収めたのだった。
「……ってことがあってね」
ユウキの説明が終わる。
「へー、すごいね。皆は普段の私しか見てないから驚くはずだよ」
「じゃあ、シンデレラタイムも終わりだよ。元に戻ろう」
有希の言葉に、ユキは名残惜しそうに自分の胸を触って、返事を返した。
「……うん。わかった」
その瞬間、辺りを光が包む。気がついたら、いつもの男の自分が立っていた。
「……戻っちゃったのか……」
「また変わりたかったら、いつでも言ってね」
「……うん」
その日有希は、眠った。この日の出来事は夢だと思うほどだった。
そして次の日。学校で昨日の女生徒、山本可憐が話しかけてきた。
「昨日は、すごかったね」
有希はキョドリながらも、返答する。
「いやぁ、昨日は我ながら頑張ったと思うよ」
「今まで気付かなかったけれど、昨日ので確信したよ」
有希は彼女の言葉が良く分からなかった。話を続ける可憐。
「貴方は今までも、さりげなく優しかったし。あんまり目立ってなかっただけだったんだね」
そう言って、少年にウィンクする彼女。照れくさい。
「いやぁ、昨日のは僕の実力じゃないし」
首をかしげる可憐に「……なんでもない!」と答えて有希はその場から逃げだした。
次の日から、有希は彼女と話すことが多くなった。しかし、それを快く思わない男子生徒に目をつけられた。
「お前、あんまり調子乗んなよ?」
そういって威嚇してくるのは社会で不良と言われる男子達だった。いつも思うが、見た目が怖くて、喧嘩も強そうなのに、なぜこういう人達は群れるのだろうか?有希はビビりながらも、言葉を返す。
「僕が山本さんと話してるからですか?」
「ああ、あの女はおれらが目ぇつけてたんだ。この中で誰が先に付き合うかってよぉ、それなのに変な虫に飛び回られちゃあ、たまったもんじゃねえんだ」
そういって敵意を向けてくる男子生徒達。有希は精一杯の虚勢を張った。
「僕は別に彼女と付き合ってません。貴方達は客観的に見てイケメンですし、こんなことしなくても、正々堂々交際を申し込んだらいいんです」
その言葉に何かを感じたのか、気まぐれなのか、男子生徒達はブツブツ言いながら去って行った。有希はやっと胸をなでおろした。ところが学校の帰り道で……。
誰かが「やめてください!!」と叫んでいる声が聞こえた。見ると、あの最近仲よくしていた山本可憐に男子生徒達が絡んでいる。思わず、飛び込んでしまった。
「君達は何をしているんだ!?」
「あ? お前、忠告したよなぁ。俺たちはお前の言うとおり交際を申し込んでるだけなんだよ」その言葉に彼の腰巾着達が「そうそう」と頷いた。
可憐は少年の背後に隠れ、震えている。
「この子、怯えてるみたいだから、今度にしてもらえるかな? さっき先生呼んだし」
正直胃が痛かったが、女の子の友達が欲しかった有希としては、自分に親しくしてくれた彼女を見捨てるわけにはいかなかった。先生が走りこんでくるのが見えて観念したのか、男子生徒達は「覚えておけよ」と言って去って行った。
可憐からは「ありがとう」と感謝されたが、次の日の帰り道、男子生徒たちが追いかけてきた。昨日のことを根に持っているようだ。少年は必死に隠れながら帰宅したが、もう学校には行けなかった。そこで、有希は鏡の中の少女に話しかけた。
「実は女の子を助けてから、不良につけ狙われてるんだ。もう学校行けないよ」
するとユウキは、とんでもないことを言い始めた。
「じゃあ、一週間、体を貸してくれる?」
「一週間!? それでなんとかしてくれるの?」
「ええ、まぁみていなさい」
そして、部屋の中を光が包みこみ、ユキとユウキは入れ替わった。
「この体も久しぶりだなぁ」
ユウキは感慨深そうに自分の体を見た。
「ほんとに久しぶりだね。最初に入れ替わった時以来だね」
ユキも答える。彼女も再び女の子になれたことが嬉しいようだった。
「じゃあ、明日から一週間で解決するよ」
それから一週間、またもや、女の子になったユキはその時間を楽しんだ。鏡の世界では、お菓子や食べ物も自由に食べられ、海や山に行きたいと思えば、その部屋のドアがその行きたい場所に通じた。本当に充実した日々を過ごした。ただ、一人ぼっちだったのが寂しかった……。
一週間たってユキとユウキは、また入れ替わった。「どうだったの?」と聞くユキに「見てのお楽しみ」というユウキ。不安になりながらも、有希は学校に行った。すると、今まで絡んできた男子生徒は怯えたように、眼を合わせずに逃げてしまった。明らかにおかしい。
有希は話しかけてきた可憐に話を聞くことにした。
「最近、僕を見て逃げる人が多い気がするけどなんでかな?」
「そりゃあ、私にちょっかい掛けてきた男子生徒数人を相手に大喧嘩して、ボコボコにすれば、そうなるよ」
可憐の言葉に有希はびっくりした。
「え? そんなことしたの!?」
「――? 覚えてないの?確かにあの時は貴方はすごく暴れていたし、負けた腹いせに先輩とか連れて復讐しに来た男子生徒達を返り討ちにしていたし、やっぱり色々ショックだった?」
彼女の言葉に少年はますます混乱した。いったい自分が入れ替わっていた間に何が起こったのか?
有希は口をパクパクさせていた。しかし、彼女はまたとんでもないことを口にした。
「そんなことより、今日のデートどこ行こっか?」
「デ、デデデデ、デートォォ!?」
彼女のデート発言に有希は思わずのけ反った。
「そうよ。恋人同士なんだから、デートくらい行くじゃない?」
「恋人ぉ!?」もう何が何だか分からない。しかし、有希は一週間の間に不良をボコボコにし、その件から山本可憐と付き合いだしたであろうことを推察した。
「大丈夫? もしかして、私と付き合うの嫌だった?」
可憐は不安そうに尋ねてきた。彼女の気を悪くしてはいけないと有希は必死に首を振った。
「いや、そんなことはないけれど……そうだ! 映画に行こう、奢るからさ!」
「本当!? 見たい映画があったんだ」
そんな会話を何とかかわして、映画館にいった。すると、前から歩いてきたクラスメイトに声を掛けられた。
「おや? デートですか? 隅に置けないな、お前も」
そう言ってくるが、彼とはあまり話したことがない、不思議に思っていると「いやー昨日のカラオケは楽しかったよ。にしてもお前、選曲古すぎ!」と彼は言った。彼の言葉から察するに件の暴力事件後に彼とカラオケに行き親睦を深めたようだ。
クラスメイトは可憐とも笑顔で話す。少し話してからクラスメイトは「じゃあ、邪魔者は帰るよ」といった後、小声で有希に「がんばれよ」と言って去って行った。彼は二人の邪魔をしないように空気を読んだようだ。
彼女と見た映画は面白く、その後のショッピングも楽しかった。有希は念願の女友達と遊べて心底楽しんだ。もっとも、彼女はカップルとして楽しんでいたようだったが。
ユキは家に帰ってから今は鏡の少女になっているユウキに詰め寄った。
「どういうこと!?男子生徒と喧嘩してるし、知らない間に彼女はできてるし!?」
「ふふふ、なかなか、楽しめたでしょう?」
「そういうことじゃなくて!! ……まぁいいや。色々ありがとう」
「素直でよろしい。また何かあれば変わってあげるね」
それからというもの、学校にも行き、彼女とのデートも楽しんでいたが、ある日、些細なことで喧嘩してしまった。ユキは仲直りしてくれるように鏡の少女ユウキに頼んだ。
「まだまだ女心がわかってないわねぇ。いいわ、私に任せなさい」
そしてまた二人は入れ替わった。
「ふー、じゃあ、行ってくるよ。しばらく、女の体になって、女心というものを理解しなよ」
男の姿になったユウキが自分に話しかけてくる。少女の姿になったユキは黙ってうなずいた。
「はい。よろしくお願いします」
「じゃあ行ってくるよ」そう言って出て行った。
しかし、彼は何日も何日も帰ってこない。最初こそ、学校に行かずにすみ、女の子として鏡の世界で楽しんでいたユキもだんだん心細くなってきた。そうしていると二週間後に、ユウキは帰ってきた。
「遅いよ!? 何やっていたの!?」
「うるさいなぁ。キミの不始末を処理していたんじゃないか」
悪びれずに答えるユウキ。ユキは怒鳴った。
「なにも言わずに二週間も開けて!!」
「親にはちゃんと、報告したよ。友達の家に泊まったりしていたんだ」
「でも、一言いってくれても……」
「わかった、わかった悪かったよ。じゃあ入れ替わるぞ」
部屋が光に包まれた。気がつくと、ユキは元の体で現実世界に戻っていた。
「どういうつもり?」
ユキは鏡に話しかける。しかし鏡の少女ユウキは、ふん、と拗ねてしまっているようだ。仕方なくその日は寝て、翌日の学校に備えることにした。
「いってきまーす」そういって部屋を出ようとしたが、鏡の中からは、いつものような返事がない。「寝てるのかな?」有希は気にしないで学校に行くことにした。
「おはよう!!」
元気よく挨拶すると、クラスメイトが挨拶を返してきた。
「おはよう。ところで、来週のテストに向けて勉強進んでるか?」
彼の言葉に焦り出す有希。
「テスト、来週だったっけ?」
「何言ってるんだよ。テストが近いから、俺とお前とお前の彼女とで今日からお前んちで勉強するって昨日話したじゃないか?」
そう話していると、先生が入ってきた。朝礼を短く済ませて、授業をし始めた。
「~であるからして、こうなるわけです」
有希は、はっとした。授業の内容もテスト範囲もまるでわからない。
有希は学校が終わると急いで帰宅した。途中クラスメイトや彼女に引きとめられたが、もてなすために準備をすると言ってなんとか振り切った。有希は家に着くなり、鏡に向かって叫んだ。
「どういうこと!?もうテスト前だし、このうちで勉強することになってるし!!」
鏡の中から少女が気だるそうに返事した。
「どういうこともないわよ。もうテスト期間が始まってるのよ。確認しなかった貴方が悪いんじゃない?」
「そんな!? 君が二週間も帰ってこないから……」
「言い訳するのは結構だけど、このままじゃ、テストやばいんじゃない?」
「!?……どうしよう、今日は今から皆来るし……」
ユキが焦っていると、ユウキが甘い声で提案してきた。
「なんなら、また入れ替わる?ていうか、そうするしかないよねぇ。貴方は学校では優等生で通ってるし、成績は落とせないし、勉強会もあるし……」
ユキは茫然とした。ユウキの言うとおりだ。もう、自分じゃどうしようもない。ユキは同意せざるを得なかった。
「わかった。でも、テストが終わるまでだよ……終わったらすぐに戻ること。いいね?」
「うん」
そう言った途端部屋を光が包み、また二人は入れ替わった。その途端にタイミングよくピンポーンとインターホンが鳴った。
「いいタイミングだな。じゃあ、勉強会するよ。大人しくしておくんだぞ」
ユウキは少し前まで自分の体だった少女に話しかける。ユキは項垂れるしかない。そうこうしている間にユウキは友達を迎えに行った。
それから彼らは「いい部屋だな」とか「お菓子持ってきたよー」とか「ここわからないから、教えて」とか言いながら普通に勉強会をしていた。何日もそんな状態が続き、鏡の中でぬいぐるみと遊ぶ少女の姿のユキはただただ時が過ぎるのを待った。そして、ついにテスト期間が終わった。部屋に入り込んできて、ベッドに身を預けるユウキ。
「ふー、テスト終わったー」
「……お疲れ様。もういいでしょう。約束の日だから、元に戻ろうよ」
ユキは、ユウキの功労をとりあえず労ったが、早く入れ替わるように催促した。
「は? 今から、打ち上げがあるんだけど?テストを全部俺に丸投げした君がおいしいとこだけ持ってこうっての?」
信じられないと言った表情で尋ねるユウキ。彼の言い分は最もだった。ユキは自分の失言を謝った。
「ごめんなさい。……打ち上げ……楽しんできて……帰ってきたら……。」
「わかってるよ。元に戻るんだろ?」
ユキの返事を待つ前にユウキは打ち上げに行ってしまった。帰ってきたのは日付が変わろうとしていた頃だった。
「……遅いよ」
「仕方ねえだろ?二次会とかもあったんだし。今日は疲れたからこのまま寝るわ」
そう言って、彼は寝息を立て始めてしまった。
「……もう、いつになったら戻れるんだろう」
ユキはため息をついた。
次の日の朝、鏡に囚われたユキはユウキに詰め寄った。
「いつまで、人の体を借りてるつもり?」
「それはお前だって同じだろう?」
「違うよ!!」
「はいはい。でも今日は待ってくれ。彼女とデートなんだ。お前デートスポット知らないだろう? また、彼女の機嫌を損ねて、俺に頼ることになるぞ」
その言葉を聞き、ユキは頷かざるを得なかった。
ユウキが帰ってきたのは、翌日の夕方だった。
「朝帰りですか?」
「もう、夕方だろ」
嫌味を込めて話すユキにユウキが気だるそうに突っ込んだ。
「そんなことはいい!! 早くもどろう?」
ユキは切羽詰まった声で懇願する。だが、ユウキの答えは残酷なものだった。
「色々、考えたんだけどさぁ。このままでいないか?」
ユウキの提案に驚いた。いや、正確にはその言葉は予想していた。だからこそ、執拗に彼(彼女)に対し、早く戻るように言っていたのだ。鏡の中で過ごしてきた少女が外の世界を知れば、その世界で人と関われば、この鏡の中に帰りたいと思わなくなるから……。
「俺はこっちの世界に慣れた。友達も恋人もできた。もう、鏡の中に戻ることもない。お前だって、理想の女の子の体になれて、嬉しかっただろう?」
ユウキは鏡に向かってそういった。鏡の中の少女、かつて長谷川有希だったその少女はとっさに「でも!」と反論しようとした。
しかしその言葉をユウキがさえぎる。
「もう皆、今の俺を必要としているんだよ。昔の俺ではなくてな。不良をボコったのは誰だ? 彼女をつくったのは誰だ? 親しい友人をつくったのは誰だ? いつも勉強ができるのは?……他でもない、俺なんだよ。お前じゃなくてな。皆、口をそろえて言うぞ? 今までのお前は暗くて地味で、近寄り難かったって。今は付き合いやすいって」
ユウキのその言葉にユキは何も言い返せなかった。確かにユウキの言うことは正しい。今まで自分が成し遂げられなかった事を彼が全てやったのだから……。項垂れる彼女にユウキは追い打ちのように言葉を発した。
「なぁ? ドッペルゲンガ―って知ってるか? 自分にそっくりの人間がいて、ソイツを見たら死ぬんだ。でも、ただ殺すだけなんてもったいないよな……せっかくホンモノの人生があるんだから……」
「まさか!?」
ユキは口を両手で押さえて、驚きを隠せない表情で叫ぶ。
「ククククッ、そうさ、はじめから、お前の体を奪うのが目的さ。今頃気づいたのか?」
「……じゃあ、真実と理想を映す鏡っていうのは嘘だったの?」
「嘘じゃないさ……その鏡の中に俺が住んでいただけさ……。俺は鏡の世界では好きな姿に変えられる。相手にとって理想の姿になっている俺に釣られる馬鹿な主様をずっと待っていたんだよ……」
その言葉にユキは諦めたように呟いた。
「……そっか……結局私が一人で踊ってただけ……だったの……」
そういう彼女の双眸には涙が浮かべられていた。
「そういうことだ。……じゃあな」
そう言って彼は、『長谷川有希』は、鏡に布を被せた。
最後に鏡の中の少女が何かを言ったが、どうせ、恨み事だ。気にすることはない。と長谷川有希は自分に言い聞かせたのだった。
有希はそのまま、その鏡を物置に仕舞ってしまった。有希としてはそのまま売っても、廃棄しても良かったが、何となく処分できなかった。
そうして年月が立ち、有希はすっかり、鏡のことは忘れていた。それどころか、自分が元から「長谷川有希」という人間だったのだとすら錯覚していたのだった。当時の彼女、山本可憐とはそれからも長く続き、婚約をした。就職は決まって、後は大学を卒業するのみである。友達も多くできた。しかし……。
「ストーカー!?」
「うん。最近視線を感じるし、後ろから誰かがついてきてるみたい」
何と、可憐にストーカーいるらしい。それも、彼女の思いすごしではないようだ。有希は心配になったが、怯える彼女の恐怖心を煽る訳にはいかず、優しい言葉で慰めた。
「大丈夫だ。俺がついてる」
「ありがとう」
それからというもの、有希は彼女の送り迎えをするようになった。しかし、彼女が一人でいるときには、相変わらず何者かの視線があった。
ある時、有希は夢を見た。夢の中にいたのは、かつて自分だった、自分が貶めた少女ユキだった。その姿は変わっていなかった。彼女が自分に向かって何かを言っている。
「……っ!!……っ!」
彼女は何かを訴えているが、よく聞き取れない。
「なんだ? 何を言っているんだ?」
彼女の声があまりに小さく、また夢の中で風が吹いていて、彼女の言葉をかき消していた。しかし、有希は、「どうせ自分への恨みごとだろう」と思って気にしなかった。朝起きると寝汗でシーツが濡れていた。どうやら予想以上に彼女に恐怖していたらしい。目を覚ますために洗面所で顔を洗うことにした。「ジャ――――」と水道を流しっぱなしにして有希は顔を洗う。
ふと顔を挙げると洗面台の鏡には自分ではなく、「あの少女」のがいた。悲しそうな目で自分を見つめている。有希は思わず叫び声をあげた。しかしもう一度見ると、自分の顔が普通に映る。やはり、へんな夢を見たせいで、自分がかつて犯した過ちを意識してしまっているのだろうか。
「だが、なぜ今になって……? やめよう。罪悪感があるから彼女が夢に出るんだ」
有希は気にしないことに決めた。
しかし、その日から毎晩彼女が夢に出てくる。あいかわらず何を言っているのかはわからない。
「……を……て」
「ゴォ――――!」と吹き荒ぶ風で少女の言葉がかき消される。
「何だ?何を言っている?」
「…………けて」
いよいよこれは何かあると思った。あの鏡を物置から出せば、真実がわかるかもしれないが、その勇気がなかった。何しろ、自分は彼女をだまし、その人生を奪い、鏡の中に閉じ込めたのだから……。
可憐を見つめるストーカーらしき視線は依然なくならなかった。それどころか、ますます、感じるようなったという。
有希は彼女の送迎を続けた。そんな中、彼女が変なことを言いだした。
「ストーカーはなくならないけど、それ以外にも変なことがあるんだ……」
要領を得ない感じで話す可憐。有希は「話してみてよ」と先を促した。有希に促されて、可憐は少しずつ話し出した。
「大したことじゃないんだけど、……夢を見るの。それもすごく変な夢」
「夢?」
聞き返す有希は、この時点で嫌な予感はした。話を続ける彼女。
「なんかね、すごく可愛い女の子が夢に出てきて、強風の中で何かを言ってるの。でも聞き取れなくて……。こんな夢が何日も続いてるの……」
有希は恐怖した。かつて裏切った自分に対してユキが復讐をしようとしているんだ。もしかしたら、可憐のストーカーはあの娘かもしれない。どうやって現実に現れたのか……? 有希は気が気ではなかった。
彼女を送った後、一人、車で帰路につく。
そんな中、バックミラーを確認すると、後部座席にユキがいた。「っひ!」といいながら目を瞑り、再び目を開けるとそこには何もなかった。有希は彼女が自分を呪っているのかもしれない。車にまで現れたのなら、この車が事故を起こすかもしれないと思い、車検に出した。担当の人から「この車、壊れていますよ。誰がやったのか、人為的に重要なパイプに穴が開けられている。このまま運転していたら、貴方死んでいましたよ」と言われた。これは本当に彼女が呪っているに違いない!疑心は確信に変わった。
次の日も同じ夢を見た。あいかわらず強い風の中、女の子が何かを言っている。
「……けて」
「やめろ……やめてくれ……俺を怨んでいるんだろう? もう分かったから! 彼女にだけは! 可憐にだけは手を出さないでくれ!」
有希は訴えるが、近づいてくる少女にたじろぐ。
「……を……けて……」
有希は自分の頭を押さえて叫んだ。
「もうやめてくれー!!」
彼は目を瞑り耳をふさいで叫んだが、なおもユキは訴え続けた。
「……きを……けて……」
朝起きると、有希は滝のような寝汗をかいていた。シャワーを浴びて出かける準備をする。可憐が用事で田舎の親戚の家に行かなければならないらしい。駅まで送ることになった。本当は車で送迎したいが、車を修理に出している。不安を感じさせないように、笑顔で恋人を見送って、有希は徒歩で帰った。
すると、帰り道に水溜りがあった。そこにはやはり、あの少女が……ユキがいた。怖くなって有希は走って家に戻り、引きこもった。
「来るな……来るな……。もうやめてくれ……」
有希は、ガタガタ震えながら念仏のように呟く。
気がついたら寝ていた。「今何時だろう?」と身を起こすと、家には留守電が入っていた。どうやら、警察からのようだ。急いでかけ直すと、「可憐が襲われた」といわれた。有希はパニックになりながらも急いで、彼女の元に駆けつけると、警察署で震えている可憐がいた。彼女を抱きしる有希。どういうことなのか彼女の口から話を聞くことにした。
可憐は親戚の用事が終わり、別の親戚の家に一人で寄ろうとして歩いていた時、人通りの少ない道でいきなり男が襲ってきたらしい。
「へへへ、待ってたぜ。一人になる時をよ!」
そう言って彼女を押し倒し、その服を無理やり脱がせ始める男。
「嫌! 離して!!」
「お前が悪いんだ。あの男になびきやがって!! でももうあいつは居ない。今頃あの世だ」
「……どういうこと!? 離して!!」
叫びながらも、可憐は必死に抵抗した。
「無駄無駄。ここは誰も通らないさ。お前だって知ってんだろ?」
ひひひ、と笑いながら抵抗する彼女を押さえつける男。
そのとき、そこに、タクシーが通りかかった。
「君!! 何している!!」タクシードライバーが車から降りて、男を無理やり引き剥がした。そうこうしているうちに、警察が来て、ストーカーはあえなく御用となったのだ。
話をして、二人が落ち着いた所で警察が話しかけてきた。
「ストーカーなんですが、貴方と同級生らしいのですが、心当たりは?」
そう言われて提示された男の写真を改めて見てみると、学生時代に可憐に言い寄り、自分がボコボコにした不良の一人だった。
「犯人の供述を聞く限り、動機は山本可憐さんに対する執着と、貴方に対する怨恨ですね。犯人は貴方の車に細工をしたと言っていますが……?」
警察官の話を聞いて考えてみると、今修理に出している車には人為的に細工がしてあったことを思い出した。
「ええ、修理の人は、何かすごく危険な状態で、そのまま運転したら死んでいた、と。人為的に細工した痕もあったと言っていました」
「そうですか……業者に連絡してみます」
そう言って警察は去って行った。辺りを見渡すと、丁度、彼女を助けたタクシードライバーが事情聴取から解放されていた。有希はタクシードライバーに駆け寄ってお礼を言う。
「ありがとうございました。何とお礼を言ったら……」
頭を下げる有希にドライバーが恐縮する。
「いえいえ。しかし危なかったですねぇ。普段あの道は通らないのですが、今日はたまたま通っていまして……」
「そうなんですか?」
聞き返す有希にドライバーは意外なことを言った。
「ええ。長い黒髪の可愛らしい女の子がここまで乗せてくれって言ってきたんです。こんな何もない所に何の用かと聞いても『いいから急いでください』とだけ言って急かされましてね。車を発進させて、この通りまで来たんですよ……。そしたら、女性が襲われてるじゃないですか……。必死に止めに入りました」
有希は驚きながら尋ねる。
「え? 女の子が?」
「ええ。可愛い女の子でしたよ。一度見たら忘れない整った顔つきで綺麗な黒髪の子でした。気がついたらいませんでしたが……」
「そうですか……」
その夜に可憐は親御さんに連れられて一度家に戻った。大きなけがはなかったようだった。有希は夢の内容を思い出した。
「あれは、〝気をつけて〟と言っていたのか……。車のバックミラーに現れたのも車の不調を知らせるために……」
有希は実家に戻り、すぐに物置を調べた。そこにはあの日からずっと仕舞ってあった鏡があった。部屋に戻って布を解くと、そこには変わらず、ユキがいた。あの時から変わらない、美しいかつて自分だった少女だ。その顔を見ると罪悪感でいっぱいになる。
「久しぶりだね」
ニッコリと笑う少女。
「……なんでだよ……」
「――?」
小首をかしげる少女に有希は尋ねた。
「なんで助けてくれたんだよ!? 俺は君を裏切ったのに……」
腹の底から声を絞り出した。話す有希の瞳は涙で溢れていた。ユキは有希の言葉に冷静に答えた。
「そうね。確かにあなたは私を裏切り、体を奪った。けれど、そのことはもう恨んでないんだよ……」
「どうして?」
有希は、疑問をそのまま口にする。体を奪われることは残酷なことだ。それを怨んでいないはずはない。まして、自分は事前情報を与えずにユキを騙して『長谷川有希』の体を、人生を奪ったのだ。しかし、ユキは涼やかな顔で言った。
「私は女の子として生きたかった。その願いがかなった。……私にとって男としての人生に何の価値もない……」
「キミが女の子になりたかったのも知っている。けれど、鏡の中は孤独だったじゃないか!その中に君を閉じ込めて……」
有希は自責の念に囚われながらユキの真意を確認する。かつて鏡の世界の住人だった自分には鏡の世界がどれだけ寂しい場所なのか、痛いほど分かっていたのだ。だからこそ外の世界に憧れ、人間になる為に、他人の体を、『長谷川有希』の体を奪ったのだ。涙ながらに訴える有希の言葉をユキは受け止めた。
「……確かに鏡の中には誰もいなかった……」
「そうだろう? それなのになぜ?」
「だけれど、私は元々孤独だった……形ばかりの友人は居たけど、本当の私を見てくれる人はいなかった……」
「――!」
「……貴方に出会って私は変われた。貴方には感謝している。それに、貴方が鏡の中で退屈そうにしていたのは知ってた。外の世界を知って、笑顔で帰ってきたことも、本当に彼女さんを愛していることも……。その体は貴方の方が相応しいと思う」
吹っ切れたように言い放つユキの言葉で有希は自分の器の小ささを自覚した。そして彼女に怒鳴った。
「だから許したって!? 人が良すぎるにも程があるぞ!!」
「貴方は壊そうと思えば、この鏡を壊せた。そうすれば、私を永遠に鏡に閉じ込める事が出来る。……けれど、壊さず、手放さずにいてくれた。」
「それは、単に罪悪感から逃れたかったからだ!」
ユキは困ったように肩を竦めた。
「……いいえ、貴方は自分と同じように孤独の世界に幽閉された私に同情していたのよ。それに、私の体を奪うだけなら、初めて体を交換した時にそのまま持ち逃げすれば良かったじゃない。……でもそうはしなかった。本当は迷っていたのでしょう? だから鏡も壊さなかった」
「…………」
有希はユキの指摘に対し何も言えなかった。図星だったからだ。
「初めて話した時に、貴方は言ってたでしょう?私は貴方。貴方は私」
「そんなの……君をだますための……」
「元々似ていたんだよ……私達。だから貴方には幸せになってほしかったんだ」
それっきり、静寂に包まれたが、嫌な静寂じゃなかった。しばらくして、ユキが口を開いた。
「貴方と彼女さん、結婚するんでしょう?」
「……ああ」
「おめでとう。幸せになってね……」
「他に言うことないのかよ……」
言う有希の声は涙で震えていた。素直に祝福してくれた彼女にもっと自分を怒ってほしかったからだ。ユキはしばらく悩むそぶりを見せてから言った。
「そうだね……。じゃあ今度は光が見える部屋の中にこの鏡を飾ってほしい」
「そんなことでいいのか?」
「ええ。私があげた貴方の人生を見届けたいから……」
「……わかった」
その日から、ユキの宿るその鏡は一番日当たりのよい女の子らしい部屋に飾られた。ぬいぐるみに囲まれ、全体的にピンク色のファンシーな部屋だ。ユキは大層喜んだ。
それから、有希とその恋人である可憐は結婚し、二人の子宝にも恵まれた。
「ぶー! パパもママも私と遊んでくれない!!」
幼女が不貞腐れていた。母親は乳飲み子の弟に付きっきりなのが気にくわないらしい。
「仕方ないでしょう? 貴方の弟はまだ赤ちゃんよ。それにパパは仕事で忙しいの」
諌めるように母親が言う。しかし、遊び相手の欲しい幼女は怒って部屋を飛び出した。
「ぶー。もう知らない!!」
トテトテトテ、と歩いていき、幼女は二階の物置部屋に引きこもる。誰も使わないのに、まるで人気のある、女の子らしい部屋だ。そこには大きな鏡があった。絵本の白雪姫に出てくる鏡のようだ。近づいてみると、自分ではなく可愛いお姉さんが映った。
「わ!! びっくりしたー。おねえちゃん誰?」
興味深々で尋ねる幼女に優しい少女が挨拶する。
「こんにちは。可愛らしいお嬢さん。私はユキっていうの」
「こんにちは!! おねえちゃん、私今暇なの!!」
「どうして?」
「パパもママも遊んでくれないの!」
「……そう。じゃあ、私が遊んであげる」
鏡の中のお姉さんは優しく微笑んだ。
「ホント―!!うれしい!!」
幼女は大はしゃぎだ。こうして、二人でおままごとをしたり、お話をしたりして遊んだ。そうしていると玄関のドアが開く音がした。父親が帰ってきたようだ。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
長男をあやしていた妻が夫を迎える。
「あれ? あの娘は?」
「さぁ、上の部屋で遊んでいるんじゃない?」
その時、ドタドタドタと階段を下りる音が聞こえた。
「パパ―!!」
「ただいま」
走ってきた娘を抱き抱える父親。娘は父親に今日の出来事を話した。
「聞いて、聞いて!! パパ!鏡の中にいるお姉ちゃんと遊んだのー!!」
「もう、この子は空想ばかり……」
「ホントだよー!!ねぇ信じてパパー!!」
「ああ、パパは信じるよ」
「ほんとー?」
上目づかいで聞いてくる娘に父親は人さし指を立てて、内緒のポーズをとりながら、娘だけに聞こえる声でこう言った。
「ホントだよ。あのお姉ちゃんはパパの大切なお友達なんだから……」
――とあるアンティークショップで店主は自身が持つ手鏡に映るその親子の光景を見ながらコーヒーを飲んだ。
「おやおや、これは、想定していた物語と違う結末になりましたね……。しかし、これもまた一興。次のお客様はどんな物語に帰結するのか、楽しみでなりません……」
そう言って、店主はコーヒーを呷った。