第五章 蓬莱万年薬
「はぁ~……」
OLとして働く一人の女性がため息をついた。彼女の名前は神屋敷千歳。もうすぐ四十路になる会社のお局様である。彼女の同期は皆結婚していた。子供が高校に入ったという連絡を入れてきた友達もいた。 千歳は自分の置かれた状況に焦っていた。彼女は小さい頃から容姿端麗だった。家族は、彼女を珠のように可愛がり、小学校の時には男子に嫌がらせをされた。勿論、『好きな子に意地悪をしたい』というものであった。いつの日か、ラブレターも送られるようになった。スカートめくりは日常茶飯事。変な渾名を付けられることもよくあった。最初は憎かったが、女友達に「好きだから嫌がらせをするんだよ」と言われてからは、上機嫌になった。自分は大勢の異性から好かれている。恋話が好きな小学生にとっては格好のネタにもなったし、優越感もあった。
「あの頃の私はモテモテだったなぁ……」
自らの過去を思い出す千歳。彼女は懐かしい時代を思い出に浸りたいのではなく、過去の栄光に縋りつきたかったのだ。
中学生になると、千歳のモテ具合は一気に加速した。第二次性徴をむかえて、発育も良かった彼女は引く手あまただった。一週間に一度は告白され、三日に一度はラブレターが届いた。告白の相手は様々であった。先輩もいれば、同期も、後輩からも告白された。今思えば、教師からもそれらしいアプローチがあった。
「色んな男の子にモテていたっけ……」
高校生になると、中学生にはない本気の告白をするものも現れ出した。
「高校を出たら、就職してキミを養うから付き合ってほしい」
「一緒の大学に進学したいから進路を教えてほしい」
「俺と一緒に新天地に行こう」
色々な男の子から告白された。スポーツ万能な、女子に人気のある男の子。何でも勉強が出来るインテリ派な男の子。何でも問題を解決してくれる頼れる男の子。不良達を束ねていたちょい悪系の男の子。沢山の男の子からの告白は千歳の自尊心を満たしていた。いつも自分の方ばかり見ていた引っ込み思案な子も合わせると、ものすごい数の異性から行為を寄せられていた。
その中には、幼馴染の姿もあった。幼稚園から一緒にいた仲の良い男の子だった。彼は平凡な男だった。田中太郎という名前も平凡だったが、勉強もスポーツも家柄も平凡だった。千歳に告白してくる数多の男性に比べれば見劣りしたのも仕方のないことだった。だが、いつも真剣に告白してきた。その度に千歳はノラリクラリとかわしていた。何時しか、彼は告白をしなくなった。高校を卒業すると、彼とは疎遠になってしまった。
大学生になると、男性はより積極的になった。中には露骨にいやらしい口説き方をしてくる人間もいたが、そんな男から庇ってくれる男もいた。彼女は、色々な人と付き合った。だが、どんな男性と付き合っても、自分にはもっと条件の良い男と付き合えるはずと慢心して別れていた。
就職活動の時期になると、同期が必死で面接や筆記試験の勉強をしている中、簡単に内定がもらえた。それも一つではなかった。千歳は単に笑顔で明るく受け答えをしていただけだった。特に素晴らしい受け答えがある訳でもなく、素晴らしい経歴があった訳でもなかった。自分でも隣の就活生の方が優れていると思ったくらいだったが、簡単に選ばれてしまった。この経験から彼女は顔さえ良ければいいと思うようになっていた。
就職しても、彼女を取り巻く環境は変わらなかった。多くの内定の中から一流企業と言われている大企業に就職した彼女は、職場の男性から熱烈なアプローチをかけられた。レストランに連れて行く者、高価なプレゼントをする者、様々なアプローチを受けた。千歳は男達からチヤホヤされること自体を喜びとしていた。他の女性陣からの風当たりが強くなってしまったが、持ち前の容姿と明るい受け答えから営業の成績も良く、会社での彼女の立場は不動のものであった。たまに学生時代の友人から合コンに誘われると、他の女性を見ることもなく、男性達からアプローチを受けた。その中には医者や弁護士、社長もいた。彼女はそんな社会的地位の高い男性からの告白も返事を濁して貢がせていた。
そんなある時、千歳は幼馴染の男性と再会した。それは会社の重要な取引の場であった。
「久しぶり……。千歳ちゃん」
「太郎君……。久しぶり……」
二人が再会の挨拶をしていると、社員が口出しをした。
「お二人はお知り合いですか?」
「ええ。幼馴染というヤツです」
太郎が答えた。その時はそれで終わりだったが、これをきっかけに二人は交流を再開した。最初は二人で食事をして懐かしい昔話をするだけだった。ところが、ある日太郎が切り出した。
「千歳ちゃん、改めて言わせてもらうけど、僕と付き合ってほしい」
考えてみれば予想できる話だった。彼はずっと千歳に思いを寄せていたのだ。また告白してくる可能性は十分にあった。
彼の話では、自分を鍛えて磨いてから、もう一度告白しようとして努力してきたらしかった。彼は実力だけで大企業に入り、若くして出世していたのだった。千歳はしばらく悩んだが、やはり告白を断った。
「ごめん、太郎君。やっぱり付き合えない……」
「そうか……」
太郎は落胆したようだったが、すぐに笑顔に戻った。そして千歳に告げた。
「返事を聞かせてくれてありがとう。千歳ちゃん、実は今回限りで僕はキミへの思いを断ち切ろうと思うんだ」
「え?」
思わず言葉が漏れた。千歳の頭の中では幼馴染はいつも自分を慕ってくれて当然と思っていたのだった。彼の「自分への思いを断ち切る」という言葉に千歳ははじめて動揺した。そんな千歳の心情を知らずに太郎は続ける。
「実はね。職場で女性からアプローチを受けているんだ。彼女はいつも僕のことを慕ってくれていてね……。本当はね、今日キミに断られることは覚悟していたんだ。でもキミへの未練があって前へ進めなかったんだ。振ってくれてスッキリしたよ。これでやっと他の女の子と恋愛できる」
語る彼の顔は、振られたとは思えないほど晴れやかなものだった。この後、彼はアプローチしてきたと言う女性と付き合い、結婚することになった。後で聞いた話だが、この女性は学生時代から太郎に惚れていた後輩で、大学、就職先へと追ってきていたらしい。自覚なく太郎をキープ君としていた千歳は項垂れた。
過去の回想から現実に引き戻される千歳。自分を最も愛してくれた男性を失ったことは、意識が現実に引き戻されるほど、やはりショックだったらしい。
「あの頃の私を殴りたい……。太郎君ももう三児のパパか……」
現在、自分に告白してきていた太郎は件の女性と結婚し、3児の父になっていた。なんでも、愛妻家で良い父だそうだ。毎年来る年賀状にも幸せそうな家族の写真が写っていた。
「でも、あの頃の私は……まだ次があると楽観していたんだっけ……」
再び、彼女は過去を思い出した。
千歳の男性からのアプローチは千歳が三十路になると減った。それまで、自分を口説いていた男性達は標的を新しい若い子に変えたらしい。年齢は関係ないとする男性もいるのだろうが、世間の評価は違った。三十代になると興味のなくなる男性は多いのだ。女性が『高学歴高収入』という社会的地位のある男性を好むのと同じで、男性も『二十代女性』というひとつの社会的地位のある女性に関心があるのだった。このことを千歳は理解していなかった。なぜなら、三十代になっても、まだ需要があったからだ。社会的な晩婚化の影響と千歳の容姿が衰えていなかった事等が理由だろう。
周囲は千歳に「早く良い人を見つけなさい」と言ってきたが、千歳は聞く耳を持たなかった。それまでの経験から、男など掃いて捨てるほどいると勘違いしてしまったのだ。彼女は、告白してくる男性と真剣に結婚は考えていなかった。どんな男性も何かと難癖をつけて告白を断ったり別れたりした。千歳が焦り出したのは三十五歳を過ぎたあたりからだ。
三十五歳になってから男性からのアプローチは目に見えて激減した。それでも過去の栄光にしがみつき、何とかなると思ってしまった。四十歳を目前にして、千歳はようやく自分の過ちに気付いた。周りの男性がチヤホヤしていたのは『若い女性』だから。その一言に尽きた。何度かお見合いもしたが、かつて自分を口説いてきた男より低い条件の男しかいなかった。周囲の人間が皆結婚していく中、はっちゃけて選り好みしていた自分は独り身になってしまった。結婚に焦り出した時には手遅れだった。周囲の人間は腫れものを触るような態度になっていった。
今日までの思い出を回想し終わると、千歳は大きなため息をついた。
「はぁ~。昔の人は偉いなぁ。『女は早く結婚しろ』って言ってたんだもん……。若い頃は、〝女は家庭にいろ〟という女性蔑視の価値観だと思っていたけれど、今思えば、世間的需要が高いうちに自分の居場所を見つけろってことだったのかな……」
千歳は深く後悔した。結婚は仕事と両立できる。ならば、早いうちに結婚した方がいい。世間の男性が自分をもてはやしたのは、千歳と言う人間だからではなく、『若い女性』だったから。立場を逆にして考えてみる。職や財産を失った男に世間の女性はなびくだろうか。否、どれだけその男の以前の立場が凄かろうが、現時点でその社会的立場を失えば、女性は見向きもしないだろう。まして〝若さ〟は放っておいても失うものなのだ。若い内に身の振り方を決めておくべきだった。財産や社会的地位は一度失っても取り戻すことが出来る。だが若さは、誰にでも平等に与えられているかわりに、時間とともに確実に失っていく。二度と取り戻せない。〝若さ〟が与えられている内はその価値に気付かず、〝若さ〟を失ってから気付くと言うのは皮肉な話だ。
千歳は同年代の人間が当時何をしていたか思い出してみる。あまりもてなかった女友達は、早いうちから婚活を始め、合コンにも参加していた。真面目な女友達は、同年代の男性は結婚意欲がないと悟り、見合い話を積極的に受けていた。千歳が周りにちやほやされて遊んでいる間に彼女達は堅実に生きていた。その結果、彼女達は見事に寿退職していったのだ。しかも、出産し、ある程度子供が育てば、保育園に子を預けて会社に復帰したらしい。結婚と仕事は両立できるのだ。
独身仲間だと騒いでいた子たちも、いつの間にか付き合っていた彼氏と結婚していた。遊びに誘っても、「家族の予定がある」「ママ友とお茶会がある」といって遊ばなくなった。良い歳になってくると、話題に結婚や家庭の話が多くなる。会社の飲み会でもその手の話題が多い。若い子は恋愛の話をしている。千歳は疎外感を味わうため、飲み会にも参加しなくなった。飲み会は自由参加とはいえ、会社の査定や出世に響く場合が多い。故に仕事でも大きなことを任されなくなってしまった。
千歳は自分の人生を改めて客観的に捉えて軽く鬱になった。
「は~……」
後悔先に立たず。彼女は自分の歩んできた道を振り返って最大級の後悔をした。「結婚なんて無理にするものじゃない」そう笑っていた自分を殴りたかった。同じことを言っていた友達は、皆結婚した。千歳は今さらながらに努力はした。日差しを避け、エステに通い、食生活にも注意した。彼女は同年代よりは若く見られたが、かつての栄光には程遠かった。
「ああ、若さが欲しい……」「若返りたい」「若ささえ取り戻せれば……」「ああ、若さがお金で買えたなら……」
千歳は一人でブツブツ呟いていると、おかしな場所に迷い込んだ。周りに家がなく、人っ子一人いないのだ。
「あれ? ここ、こんなに過疎ってたっけ? どこなのかしら……」
疑問を口にすると、彼女は周囲の異常さに気付いた。今は冬だと言うのに湿気がすごく、すぐに視界が濃霧で見なくなった。
「なにこれ! もう、どうなってるのよ!」
千歳は叫んだが、冷静に辺りを見回すと、霧の中に光が見えた。
「よかった! 近くに人がいる!」
道を聞こうと、千歳は光に向かって走り出した。
光に近付くと、どうやらそこが店であることがはっきりわかった。全体的に寂れた店だ。看板には『アンティークショップ』と書かれている。骨董品を扱う店のようだった。千歳は恐る恐る店のドアを開けた。ドアにつけられた鈴が『リーンリーン』と鳴った。
「御免下さ~い……」
千歳が声をかけるが中から人の気配がしない。店内は、夥しい数の品々に溢れていた。『アンティークショップ』というだけあって、それらしい品々が並べられていた。しかし、カメラやポイントカードのようなもの、パソコンもあるため、この店は、リサイクルショップの側面もあるらしいことがわかった。作業用のテーブルの上には飲みかけのコーヒーと新聞があった。
「ついさっきまで、誰かいたらしいわね……。出掛けてるのか……地下室にでもいるのかしら……」
千歳が呟いていると、品物が並んでいる机の上に目を移すと、そこに置いてあるビスクドールと目があった。一瞬睨まれたような気がしたが、気のせいだろう。
「店員さんはいないのかしら……」
「何か、お探しですか?」
「うわっ!」
千歳は驚いた。店内には自分しかいないと思っていたのにすぐ後ろから声がしたからだ。見るとそこには背の低い、髭を伸ばした老人がいた。先程まで人の気配がしなかったため腰を抜かしそうになった。
「申し訳ありません……。驚かすつもりはなかったのですが……」
「いえ、こちらこそすみません。」
千歳は恐縮した。すると、老人が改めて尋ねてきた。
「何か、お探しですか?」
千歳は老人が客に探している品を尋ねているのだと正しく理解したが、洒落をきかせて答えた。
「ええ。ちょっと若さを探していて……」
上手く老人を笑わせようとしたが、老人は、真面目そうに思案し、今度は千歳にしてきた。
「お客様は若くなりたいのですか?」
「ええ。ちょっと、結婚に行き遅れてしまって、昔の馬鹿な自分をなぐりたいです……」
千歳が言うと、相槌を打っていた老人が語りだした。
「うちには、不思議な力を持つ品々が多くありまして。あなたのお役にたてるものがあるかもしれません」
「それってオカルトアイテムってことですか? 信じられませんが……」
千歳が訝しげに言うと、老人は「それならお見せしましょう」と言って近くに飾られているカメラを持ってきた。千歳にそれを渡してきた。見た所、相当古いカメラのようだ。シャッターを押すとそのまま写真が出てくるタイプのものだ。
「これをどうするんですか?」
「覗いてみてください」
老人に促されてカメラを構えて覗くと、半透明な幽霊のような男が襲ってきた。思わずシャターをきってしまう千歳、出てきた写真を見ると、さっき自分を襲ってきた幽霊のような男が苦しそうに頭を押さえてもがく姿が写されていた。
「こ、これは……?」
「それは、幽霊を感じ取り、映し出すカメラです。カメラに写すことで悪霊を封印できるとか何とか……。何年か前に人から譲り受けたものです」
「そ、そうなんですか……」
「これで信じて頂けましたか?」
千歳は頷いた。目の前で起こった出来事を頭で理解するのに時間がかかったが、どうやらこの店では特殊な品物を売っているだろうことは理解できた。同時に、もしかすると、若さを取り戻せる品があるのかもしれないと希望を抱いた。
「それで……若さを取り戻せる品はあるのですか?」
千歳が尋ねると、老人は店の棚に飾られている砂時計を持ってきた。
「この品は、名を遡及砂時計と言いまして、戻りたい時間を思い浮かべて砂時計を傾けると、その時間に戻れるのです。勿論、体も若くなります」
店主の言葉を聞き、砂時計を受け取る千歳。
「試してみてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
千歳は、ついさっき不思議なカメラを受け取った時間を思い出した。あの幽霊の姿が鮮明に頭に残ってしまったからだ。思い浮かべてから砂時計を逆さにする……。
「これをどうするんですか?」
「覗いてみてください」
老人の言葉に、はっとする千歳。自分の手を見ると右手にカメラ、左手に砂時計が握られていた。
「どうしたのですか?」
そう言う老人は、千歳の左手に砂時計が握られているのを見て悟ったようだった。
「なるほど、遡及砂時計を使ったのですか……」
「……はい。よくわかりましたね」
「当店の商品ですからね。それで、お気に召しましたか?」
老人に聞かれると、千歳はしばらく悩んで、砂時計を老人に返した。
「お気に召しませんでしたか?」
残念そうに話す老人に千歳は答えた。
「確かに凄い商品でした。この力を使えば、私は若い頃に戻れると思います。……でも、この力を使うと、自分の失敗をすぐに修正してしまいそうです。それでは人生に刺激がなくなります」
「なるほど……」
「それに例え時間をやり直しても、歳はとります。どれだけ自分を愛してくれる人に出会っても、歳をとれば魅力がなくなって見捨てられてしまう。それでは意味がありません」
千歳は言い切った。その若さに対する拘りは彼女の人生から得た教訓であった。若さを失うと周囲からの自分に対する関心も失われてしまう。故に若さにこだわるのは当然とも
言えた。老人は千歳の言葉を聞くと、納得したように店の奥へと入っていった。しばらくすると老人は帰ってきた。
「お待たせしました。こちらの商品はいかがでしょうか」
老人の手にはヒョウタンが握られていた。中が空洞になっていて、水などの水分を入れるようになっているモノだ。察するに何かの薬が入っているのだろう。
「これは、蓬莱の万能薬です」
「蓬莱?」
千歳の疑問に答えるように、老人は薬の説明をしだした。
「蓬莱とは、仙人が住むと言う秘境のことです。この薬は仙人が作ったと言われるもので、仙人も服用した、いわゆる不老不死の薬です」
「不老不死?」
「左様でございます。服用すれば、十代の頃の若さを取り戻し、以降、歳をとらず、肉体的に死ぬこともなくなります」
千歳は店主である老人の言葉に驚きを隠せなかった。しかし、先程のカメラや砂時計の件もあったので、老人の言葉には何とも言えない説得力があった。千歳は唾を飲む。
これさえあれば若さを取り戻せる。そんな思いが千歳の中に溢れた。彼女は老人から薬を受け取る。これこそが千歳が望んだものだった。それは飢えた獅子の前に肉をぶら下げる様なものだった。千歳の眼は血走っていた。
「こ、これ、おいくらなのですか?」
「これは、相当珍しい高価なものですので、お高いですよ……。とても、手が出せるものではありません……」
「そこを! なんとか! お売りください!」
「これは時価で億単位はするのですが……」
「億! そこまではないですが、売ってください! お願いします!」
千歳は切実に懇願した。この機会を逃したら二度と手に入らない。ならば、借金してでも手に入れるしかない。老人は考えるそぶりを見せていたが、千歳の願いが通じたのか「わかりました」と一言つぶやいた。
「貴方の預貯金の全財産、それで手を打ちましょう」
千歳は老人の言葉に躊躇した。確かに今通帳と印鑑を持っている。しかも彼女の貯金は五千万円を超えていた。今まで男に貢がせ、自身も仕事で溜めていたためだ。老人はその財産を差し出せと言ってきたのだ。普通なら何を馬鹿なことをと言えるのだが、この老人の売る摩訶不思議な道具にはそれだけの価値があった。しかも老人の発言を信じるのなら、億単位はするという品だ。それを五千万円で買えるのはお得であった。問題はその商品が偽物である可能性だ。そこで千歳は条件を付けた。
「後払いでもかまいませんか?」
「ええ。まずは試してみてください」
老人は快諾した。さっそく薬を受け取り、ヒョウタンの蓋を開け、服用する。
「こ、これは!」
すぐに変化が起こった。体にエネルギーがほとばしった。それは乾いた喉を潤すように、病気を癒す薬のように、千歳の体に迸った。あまりの変化に千歳は膝を折ったが、老人に促されて立ち上がった。
「はい、これをどうぞ」
老人に手鏡を渡される。それを見ると、年若き少女が写っていた。十代後半頃だろうか。
「若返った! 本物だったわ!」
大はしゃぎする千歳。とても四十路間近とは思えない。
「では、代金をいただきましょう」
「ええ。全部あげます! ありがとうございます!」
代金として通帳と印鑑を渡すと、千歳はそのままスキップして店を出て行った。
「ご利用ありがとうございました」
千歳は道を聞くのを忘れていたが、気がつくと見知った道に戻っていた。歩いて帰宅すると、若い男性に何度も声をかけられた。高校生や大学生、サラリーマン等幅広い年齢層にアプローチされた。それは千歳の若い頃そのままの出来事であった。家に着くと、千歳は歓喜した。
「取り戻したわ! 若さを! あの頃の栄光を!」
千歳が失った財産は大きかったが、それだけの価値があった。幸い給料日は近く、家にあるブランド物を売れば、そこそこのお金が手に入った。この日から千歳の日常は変化した。
会社に行くと、周囲は騒然とした。
「あれ、誰?」「あんな子いたっけ?」「いや、あれ神屋敷さんじゃない?」「嘘だろ? あの人は四十間近だぞ!」「若すぎない?」「じゃあ妹さん?」
千歳はそんな声を心地よく聞き流し、仕事に打ち込んだ。背後から視線を感じたが、気にせず仕事をした。すると、声をかけられた。
「神屋敷さん?」
それは、良く話す同年代の女性の鈴木さんだった。結婚してから神崎に氏が変わった人だ。
「神屋敷さん、その仕事ぶりからして本物だね。妹さんかと思ったけれど」
「神崎さん、そんなに私、若く見える?」
「ええ。朝から皆騒いでいたわ。どこのエステに行ったか知りたいくらい」
どうやら、今までの視線は本当に自分が神屋敷千歳かどうか探っていたようだ。そして、エステか何かに通って変わったのかと思われたようだ。この日から千歳は職場で話題になりだした。そして、またアプローチを受けるようになった。
しかし、今度は同じ過ちを繰り返さなかった。千歳は自分をアプローチしてくる男を見定めた。そして真面目で堅実そうな三十代の歳重という男と付き合いだした。彼は本当に人格者だった。歳は十歳近く下だが、紳士的で仕事もできる歳重に千歳は惹かれていった。しばらく、付き合っている内に歳重からプロポーズを受けた。
「一生、隣でキミを支えるから結婚してほしい」
千歳は付き合っている間も誠実だった歳重のプロポーズを受け入れた。千歳は一人娘だったので、歳重が婿入りすることになった。六十代の両親は泣いて喜んだ。二人は結婚し、千歳は寿退職した。そして結婚後、すぐに子宝にも恵まれ、遅いながらも幸せな結婚生活を送った。
幸せな結婚生活だったが、いつの日か、夫歳重は、いつまでも若い千歳に疑問を持ち始めた。千歳は意を決して、不思議なお店に行ったこと、そこで不老不死の薬を買ったことを打ち明けた。夫は驚いていたが、「不思議なこともあるものだ」と受け入れてくれた。
幸い、夫も若づくりだったので、晩婚夫婦とはみなされず、若い夫婦として地域に受け入れられた。子育てに追われる日々を送り、子供達も成人して、結婚した。幸せな日々が続いたが、孫が生まれたあたりから、地域の人から変な視線を感じるようになった。この時、千歳は六十代、周囲の人達は彼女を四十代と思っていたが、それでも千歳は若すぎた。孫を持つお婆さんには見えなかった。変な噂が立ち始め、「美魔女特集」とかいうテレビの取材も来るようになった。
「千歳さん、ここから離れよう」
流石に、身の危険を感じた千歳は夫と相談し、引っ越すことになった。子や孫とは密に会っていた。彼らにも千歳の体の事、謎の薬のことも話した。彼らも理解してくれたが、周囲の目線は相変わらずだった。そこで千歳と夫は、引っ越しを繰り返し、父と娘、祖父と孫と偽って生活した。夫は不安に駆られる千歳を支え続けた。
しかし、千歳を追い詰める出来事が起こった。両親の死である。二人は長生きだったが、九十で母親が急逝し、その後を追うように父も翌年に亡くなった。優しい父母との思い出が脳を駆け抜けた。千歳は号泣した。その背中をさすって慰めたのは夫歳重だった。
「大丈夫。僕がそばにいるから」
千歳は夫の言葉に支えられた。しかし、時間とは残酷なものだった。千歳と同い年の人間や年上だった人達は老いによる病気にかかり、どんどん死んでいってしまったのだ。この事実は千歳に対する追い打ちとなった。
「長年の親友も学校の先輩も皆、老いて死んでいってしまう。なんで? もっと長生きしてくれないの?」
千歳は項垂れた。情緒不安定になっていた千歳を支えたのは、やはり歳重だった。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから……」
夫は優しく千歳を慰め、千歳との時間を優先した。老いてくる夫は千歳を連れて日本中旅行に出かけた。若い頃は海外にも行ったが、一回りして国内に落ち着いたのだ。国内は、北は北海道から南は沖縄まであらゆる名所を回った。良いお爺さんになっていた歳重には温泉旅行が気に入ったらしかった。二人で楽しんだ。
事態が激変したのは、千歳が百歳、夫が九十二歳を迎えた時だった。夫が倒れたのだ。その日に、医者を呼んだが、もう長くないと伝えられた。千歳は遠方に散っていた子や孫、曾孫達を集めた。
「千歳さん、僕はもう長くないよ」
夫は短く答えた。千歳は黙って夫の手を握った。その瞳からは涙が零れていた。千歳はこの時も若々しい姿のままだった。
「千歳さん、僕のプロポーズの言葉は『一生、隣でキミを支えるから結婚してほしい』だったね……。約束を破ってしまってすまない……」
夫は皺々の顔で申し訳なさそうに言った。千歳は夫の手を強く握って答えた。
「いいえ、いいえ、歳重さんは私を支えて下さいました。貴方ほど、堅実で真面目で優しい方を私は知りません。貴方と過ごしたこの数十年、千歳は幸せでございました」
発せられる声も若々しかった。二人は病床で抱き合った。それは深い抱擁だった。続いて、夫は泣き崩れる子、孫、曾孫達に向いて、「千歳さんを頼むよ」とだけ言った。家族に優しい夫だったが、この時は残される千歳のことだけしか話さなかった。
その後、夫は急死した。最期の言葉は「愛しているよ」だった。千歳は一日中泣き続けた。歳重の葬儀は子供達が執り行った。妻は歳なので出席できないと説明し、密かに親戚の子と言う名目で千歳も出席した。棺に眠る夫をみると号泣してしまった。傍から見ると訳が分からなかっただろう。息子達に支えられて千歳は席に着いた。葬儀の間中泣いていた。葬儀が終わると、一日中ボーとすることが多くなった。心配した子や孫達が様子を見に来てくれたが、最も親しい愛する人を失って何をしたらよいのか分からなくなったのだ。
「若さは失わないけれど、大切な人を失ってしまった……」
千歳は若さを渇望し、手に入れたが、最も愛する人を失ってしまった。しかも、そればかりではない。自分と同年代の友人はもう皆死んでいたのだ。子供達、孫達もこれから歳をとって死んでいく。自分だけは若いまま、取り残される。千歳はとてつもない不安に襲われた。
「若さを手に入れたのに大切な人を失ってしまった。愛する人と歳を重ねることもできないなんて……。私は一生一人なの? 親しくなっても皆死んでしまう……」
千歳は将来を考えて孤独感に襲われた。突発的に手首を切ってもすぐに再生してしまう。不老不死ゆえに自害は許されなかったのだ。千歳は絶望した。
ある日、役所の人間が千歳を訪ねてきた。戸籍に百十歳と記載されていたため、本当に生きているのか確認しに来たのだ。それも、親が死んだ後も国民年金目当てで死亡届を出していない家庭が問題になり始めた時代背景のためであった。役所の人間は千歳を孫か何かだと思っていた。本人の主張と血縁者の話を聞いて、国民年期目当ての詐欺だと疑ったが、かつて千歳が働いていた職場の人間に話を聞いたり、写真を見たりすることで、千歳が歳をとらない人間だと認めた。それから彼女の処遇について話し合いが行われた。
「神屋敷千歳さん、貴方の話は信じがたいが、現に貴方が歳をとっていないので、信じざるを得ません。しかし、このままと言う訳にはいきません」
「存じ上げています。今までも、周囲の人間から身を隠すために何度も転居しました」
「神屋敷さん、貴方が望むのなら貴方の身柄を我々政府が保護いたします。貴方を人目につかせるのは避けるべきでしょう。一緒に来てくれますか?」
「わかりました」
千歳は話し合いの末、政府の施設で面倒を見てもらう運びになった。約束の日に施設に入居した。一人暮らしには広すぎる施設だった。たまに、子供や孫達が来てくれたが、それも長期休みの時だけだった。老齢の息子達も長旅が出来なくなってきたのだった。ある日、千歳が庭でお茶を飲んでいると、幼い子供が迷い込んできた。
「あらあら、小さいお客さんね」
「お姉ちゃん、だあれ?」
「ふふふ、誰かしらね……」
千歳は小さい客をもてなした。子供は夕方に隣の建物に帰っていった。
それからというもの、千歳の所に、何度も子供達が迷い込んだ。その度に子供達にお茶やお菓子を振舞ったり、一緒に遊んだりした。遊びに来る子供達は、性別も年齢も違った。千歳は子供達が気になって、たまに来る政府の役人に聞いてみると、どうやら隣は孤児院で、よく来る子は一肌恋しさに迷い込んでくるようだった。千歳は彼らの相手をしている内にどうにかしてあげたいと思うようになった。
「私が、この子たちの親になるわ!」
千歳は人生を子供のために使うことに決めた。施設の職員になる為には教育免許が必要だったので千歳は大学に入りなおし、教育免許をとった。大学でも千歳は異性から想いを寄せられたが、ここでは割愛する。免許をとると、施設の職員と話してその施設で働くことになった。子供達にとって千歳は、若々しく優しいお姉さんとして、千歳は人気だった。彼女は、文字通りおばあちゃんの知恵袋として様々な知識を子供達に教えた。千歳は自分の百年以上の人生を、この不幸な子供達の救済のために使おうと心に決めたのだった。
――アンティークショップにて
「フ~……お茶がうまいですね……」
老紅茶を啜る老人に、机に座ったアンティークドールが話しかけた。
「あの子、あんな人生を選択するとは思わなかったわ。初めて会った時は、甘ったれの小娘だったのにね……」
「人は歳を重ねて成長するものですよ。私も彼女がここまで強くなるとは思いませんでしたけどね……」
店主はバックヤードに入っていった。