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母さんの記憶の中の僕と父さん

作者: とこりん
掲載日:2016/05/02

14年前に書いたままお蔵入りしていたやつです。練習用に投稿してみました。

「母さん……」

 暗い部屋の中に、僕の声が静かに響く。廊下の明かりが部屋の中に差し込み、かろうじてぼんやりと人影を写している。その人……僕の母さんは、ベッドに向かってうずくまり、肩を震わせている。泣いている。断続的に嗚咽が聞こえる。僕の声に返事はしてくれない。

「母さん」

 もう一度、今度はもう少し強く声を掛ける。だが返事はない。僕の声が聞こえているのかいないのか……どちらにせよ、今の母さんは返事をすることができないようだ。

「母さん、明日の朝、和枝おばさんが来てくれるって。だから……今夜は、僕はもう寝るね」

 返事を待たず、僕は母さんの部屋のドアを静かに閉じた。元気を出して……とは言えない。僕だって泣き出したいのを堪えているのだ。

 和室に入る。そこには、父さんが布団の中で眠ってる。もう目を覚ますことはない。今朝までは元気だったのに、交通事故で帰らぬ人となってしまった。相手は飲酒運転の車。あっという間の出来事だったらしい。僕が慌てて学校から帰ってきたときには、もう息をしていなかった。そばで母さんが泣いていた。母さんはそれっきり……部屋に閉じこもってしまった。近所の人が何人か来てくれて、親戚への連絡や葬儀の手配を手伝ってくれた。だが、夜になった今、この家に残っているのは僕と母さんと父さんだけだった。

「父さん……」

 声を掛けるが、もちろん返事はない。ひょっとしたら……眠っているだけではないのか……ありえないことだが、そういう期待がどうしても頭から抜けきらない。まだ僕は父さんの死を実感できていないのだろうか。

「父さん……おやすみ」

 和室の襖を閉め、僕は自分の部屋に入り、寝つけないままも布団の中に入った。


 翌日の朝。目を覚ました僕は、ベッドの上で上体を起こすと、昨日の出来事が夢であることを願った。が、少しすると記憶がはっきりしてくる。父さんは死んでしまった。一晩たって、ようやく実感できた気がした。

 親戚の和枝叔母さんが来るまでにはまだ時間がある。台所に行く。母さんはまだ起きてきていないようだ。もう落ち着いただろうか……。不安になりつつも、僕は朝食の用意を始めた。普段は母さんが食事をつくるのだが、今日くらいは僕も手伝わなくてはと思う。簡単な朝食くらいなら僕にだって作れる。僕はまだ中学生だが、これからは僕が母さんを守らなくてはならない。しっかりするんだ、と自分で自分に言い聞かせていた。

「健ちゃん?」

 後ろから僕の名を呼ぶ声がした。母さんだ。僕が振り向くと、台所の入り口に昨日の服装のままの母さんが立っていた。一晩中泣いていたのだろうか。目がまだ赤い。

「母さん。もう落ち着いた?」

 「うん」という返事を期待しながら声を掛けた。だが、帰って来た返事は僕が予期たものとは違っていた。

「健ちゃん、母さんって何?ここはどこなの?」

 母さんはキョロキョロあたりを見渡している。まるで台所に入るのが初めてであるかのようだ。まだ取り乱しているのだろうか。

「母さん、大丈夫?とりあえず顔を洗ってきなよ。目がまだ赤いよ」

「……うん。洗面所って、どっちかな」

 自分の家の洗面所の場所が分からないとは、本当に取り乱しているようだ。叔母さんが来るまでにはなんとか落ち着かせなくては。僕は動揺を隠しながら、手振りで母さんに洗面所の場所を教えた。母さんは「ありがと」と言うと、洗面所の方へ向かっていった。

 さて、どうたものか。このまま母さんが混乱したままだったら……何か精神安定剤のようなものを飲ませた方がいいのだろうか。薬箱の中には……そんな薬が常備してあるとは思えないが……念のため、見ておこうか。ご飯を茶碗によそいながら、僕は頭の中で対策をめぐらせていた。


「きゃっ!」

 洗面所から、母さんの声だ!

 僕は急いで廊下へと駆け出した。洗面所の扉が開いていて、そばに驚いた表情で床に腰を落としている母さんがいた。

「どうしたの?」

 僕は母さんの元へ駆け寄り、助け起こそうと手を差し出した。だが母さんは起き上がろうとせず、洗面所を指差しながら、驚いた表情のまま洗面所と僕の顔を交互に見るようにキョロキョロしていた。

「健ちゃん、わたし、どうなっちゃったの?急に歳をとっちゃったみたい!」

 母さんは動揺しながら、手で自分の頬をなぞっている。洗面所の鏡を見て自分の顔に驚いたのだろうか。だが、僕には母さんの顔はいつもどおりに見える。

「母さん、しっかりして。別に老けてなんかいないよ。いつもの母さんだよ」

 僕の母さんは、若くして僕を産んだらしく、僕が中学二年になったいまでもまだ三十代になったばかりだ。しかも、二十代半ばと言っても十分通じるくらい若々しい。僕から見たら……若々しいというよりは幼いだけのような気もするが、どっちにしろ何故母さんが驚いているのかさっぱり分からない。

「だって、鏡を見たら、わたしの顔がもう大人みたいだったよ!それに何で健ちゃん、わたしのこと母さんって言うの?」

 へ?話が通じない。

「母さん、落ち着いてよ。母さんが大人なのは当たり前じゃないか」

「わたしが……大人?」

 母さんは僕の顔を見つめている。目に潤んだ涙が今にもこぼれ落ちそうだ。

「何で?わたし、中学生だよ。健ちゃんと同級生でしょ!健ちゃんは若いままじゃない!」

「何で僕が母さんと同級生なの?」

「何でわたしが健ちゃんの母さんなのよ!」

 だめだ、話がループしてしまう。母さんがおかしくなってしまった……父さんが亡くなったことによるショックからだろうか。確かに、父さんと母さんはいつもとても仲がよく、母さんは父さんのことを心から愛していたようだ。夫婦仲がいいのはいいことだと思っていたが、今はそれが裏目に出てしまったのか。

 父さんが……ここで、僕はあることに気づいた。

「母さん、母さんの言う健ちゃんって、父さんのこと?」

「え?」

「健ちゃんの名前を言ってみて」

「健ちゃん……健一くん、でしょ」

 やっぱりそうだ。僕の名前は健児、父さんの名前は健一。母さんは家では父さんのことを「お父さん」か「あなた」と呼んでいたから気づくのが遅れたが、結婚前は父さんのことを「健ちゃん」と呼んでいてもおかしくない。僕は母さんの肩に両手を乗せ、しっかりと目を見ながら、落ち着いて質問した。

「大丈夫。僕が必ず助けるから。だから落ち着いて、僕の質問に答えてね」

「……うん」

 母さんは少し落ち着いたようだ。

「あなたの名前は?」

「如月……真奈美」

 如月は……母さんの旧姓だ。

「ここはどこ?」

「……分からない」

「今は何年何月何日?」

「一九八八年、二月……一九日」

 ここではっきりした。

「落ち着いて聞いてね。今は、二〇〇六年、六月二六日。僕は、あなたの息子の、前園健児。僕の父親は、前園健一。あなたは僕の母親で、今の名前は前園真奈美。あなた……母さんは、記憶喪失になったみたいなんだ」

「え?」

 母さんは驚きを隠せないようだ。もちろん僕も驚いている。でもそう考えないと辻褄があわない。母さんの記憶は中学時代に戻り、僕を父さんと間違えていたのだ。僕は、親戚から自分が父さんの子供のころに瓜二つだと言われていたことを思い出した。

「わたしが……あなたの……母親?」

「そうだよ。この前の母の日にプレゼントをあげたよね。覚えてない?」

「……ごめんなさい、思い出せない」

「やっぱり」

「ねえ、わたし……健ちゃ……健一くんと……結婚したの?」

「うん」

 驚きながらも、母さんは少しうれしそうだ。

「健ちゃんと結婚……そうなんだ。夢みたい。よかった。健ちゃん……ねぇ、健ちゃ……あなたのお父さんは、今どこにいるの?」

 やはり父さんの死の記憶も亡くなっていた。ここはつらいかもしれないが、きちんを現実を伝えないといけない。でないと母さんの記憶は戻らないかもしれない……そんな気がした。

「父さんは……昨日……亡くなったんだ」

「うそ?健ちゃんが?どうして?」

うれしそうだった母さんの表情がみるみるうちに曇っていく。

「交通事故で……今、和室で眠っている」

「和室……どこ?」

「あっち」

 僕が指をさすと、母さんは慌てて起きあがり、廊下をかけて和室の襖を開いた。僕も後から続く。そこには父さんが眠っている。父さんの顔を覆う布がどうしようもない事実を痛感させる。

「健ちゃん……」

 母さんは小さく声を漏らすと、両手で自分の顔を覆った。目からは涙が毀れていた。

「ねぇ、お顔を見ても、いいよね」

「うん」

 また取り乱すのではないかという心配もあったが、拒否するわけにはいかなかった。母さんはゆっくりと父さんの顔を覆う布をめくった。そこには……生前と変わりない父さんの顔があった。

「健ちゃん……たしかに、大人になった健ちゃんだ……。健ちゃん、死んじゃったんだ……」

 父さんの顔を確認すると、母さんは静かに布を戻した。ちょっと意外なことに、母さんはそれほど取り乱さなかった。

「分かった。健ちゃ……健児くんの言うとおりだね。わたし、記憶が無くなったみたい」

「うん。たぶん一時的なものだと思うよ」

 母さんの記憶喪失は父さんが亡くなったことによるショックから来たのだろう。だったら落ち着いたら元に戻るはずだ。戻らなくては困る。僕が一時的と言ったのは、母さんを安心させるためだけでなく、自分にそう言い聞かせるためでもあった。

「ねぇ、お通夜は今日?」

「うん。もうすぐ和枝叔母さんが来て準備を手伝ってくれることになってる」

「わたしのお姉さんの和枝ちゃん?」

「そうだよ」

「そうか。和枝ちゃんも叔母さんになっちゃったんだ」

「他の親戚も後から来るよ。母さん、大丈夫?」

「うん。大丈夫……だと思う。何とかやってみるよ」

 記憶はないままだが、いつもの母さんに戻ったようだ。いつもの母さんは明るくて何事にも前向きだ。父さんの葬式に前向きというのも何だが、取り乱して何もできないよりはいいかもしれない。

 その後和枝叔母さんが来た。僕は叔母さんに母さんの事情を話した。叔母さんも初めは驚いたようだが、親戚のみんなも協力してくれたおかげで、通夜、告別式、火葬まで何事もなく終えることができた。母さんの記憶は戻らないままだったが。

 その後、親戚の人たちと僕の家族の今後のことについて話し合った。叔母さんが家に来ないかと誘ってくれたが、僕は今の家を離れたくなかったし、幸い父さんが生命保険を残してくれたお陰で当面の生活に困ることもなかったので、このまま母さんと二人で暮らすことにした。父さんとの思いでの詰まったこの家で生活したほうが母さんの記憶も戻りやすいのではないかという期待もあった。

 そして……母さんの記憶がないまま……僕たちの生活は通常に戻りつつあった。


***


「おはよ!」

 今日も母さんは元気に僕を起こしてくれる。夏休みに入るまであと数日、僕は毎朝規則正しく起きなくてはならない。

「あぁ、おはよう、母さん」

 僕は眠たそうに自分のベッドから起きあがった。食事の用意ができた母さんは、わざわざ僕の部屋まで起こしに来てくれる。記憶を無くしたあとは、母さんはなんだか前よりも親切だった。前だったら台所から「起きろー!」と叫ぶだけだったろう。

「健ちゃん、今日、また卵焼き焼いてみたんだよ。冷めないうちに食べてね」

 結局母さんは前のように僕のことを「健ちゃん」と呼ぶようになった。母さんの心の中で僕と父さんが重なっているのか……それはよく分からなかった。

 一つ残念なことがある。前までの母さんの手料理は絶品だったのだが、記憶を無くしてからはお世辞にもおいしいとは言いがたいものになってしまった。

 僕は顔を洗った後台所に行き、母さんの焼いた卵焼きを食べてみた。母さんが僕が食べる様子を観察している。

「どう?」

「うーん」

「おいしくない?」

「……うん……以前のと比べたら」

 以前母さんが作ってくれた卵焼きはもっとふっくらしていた。

「そっか。今日はいけるかなぁ、と思ったんだけどなぁ」

「何か根本的な違いがあるんじゃないの?材料とか」

「卵焼きの材料って、卵だけじゃないの?」

「以前の母さんはいろいろ入れていたみたいだよ」

 そう言えば父さんに聞いたことがある。結婚したてのころの母さんの料理はさんざんなものだったが、練習に練習を重ねて上手になったそうだ。よく聞くタイプの記憶喪失は、知識は忘れていても体で覚えてた技術は忘れないらしい。で、覚えがないのに上手に料理できる自分に驚いたりするというのがセオリーだったりする。でも母さんの場合、知識も技術もすっかりなくしてしまったようだ。

「ね、今日も学校が終わったら買い物に付き合ってくれる?」

「えー、友達と遊びに行きたいんだけどなぁ」

「だって、母さん、知らないものだらけなんだもん。健ちゃんに教えてもらわなきゃ買い物できないよ」

 そう。母さんにとって、ここ一六年はなかったことになっている。消費税も知らなかったし、物価も変わっているから買い物の相場も分からない。記憶を取り戻すきっかけを作るためにも、僕がいろいろ教えながら買い物したほうがいいのだろう。

「分かったよ」

「やったー!健ちゃん、やさしい!」

 素直に喜んでいる母さんが微笑ましい。

 正直言って、母さんと買い物するのはそんなに悪い気持ちじゃなかった。普通の中学生ならあまり親と一緒に行動したがらないものだが、僕の場合、母さんと一緒にいるのが楽しくさえあった。母さんは明るくて、また何をするにもその仕草がかわいく見えた。以前の母さんにはそんなことはなかったのだが……母さんの心が中学生のままで、僕と同世代になっているからだろうか。

「じゃあ、母さん、おしゃれしなくっちゃ。健ちゃんもダサい服装じゃだめよ」

「おしゃれって、買い物行くだけでしょ?」

「買い物だけどデートだも~ん。ね、ついでに映画でも観よ!」

「ついでって……どっちがついでだよ」

 悪態をつきながらも、なんだかうれしい。母さんと一緒だと、本当に女の子とデートしているような気分になる。母さんは若々しいので、知らない人には僕たちはちょっと歳の離れた恋人同士に見えるかもしれない。それに、身内の僕がいうのも何だが……母さんはとても美人だ。きれい系ではなくかわいい系の美人。もし血のつながりがなければ……僕は頭に変な考えが過りそうになるのを、慌てて払いのけた。


 午後。

 映画と買い物のあと、たまにはと外食をすることにした。ファミリーレストランに入り、ありきたりの料理を注文する。デートと言っても、食事中の会話はどうしても親子のものになる。

「ねぇ母さん」

「ん?」

「まだ、記憶戻りそうにない?」

「うん……まだ……みたい」

「そっか。病院の先生にはなんて言われたの?」

「慌てないで気楽にいきなさいって」

「いいかげんだなぁ」

 あまり記憶のことを言いすぎるのも母さんにつらいだけかもしれないが、かと言ってほっとくわけにもいかなかった。

「よくさぁ、記憶を取り戻すためには、記憶を失ったときと同じショックを与えるといいって聞くけど」

「そうそう。母さんも同じこと考えたのよ。でもねぇ」

「そっか。ショックって、父さんが亡くなったことだもんね」

「うん」

「僕が死ねば、母さんの記憶も戻るかな?」

 冗談で言った一言だが、母さんの顔が険しくなった。

「ダメ!!」

「じょじょ、冗談だって」

「冗談でも、死ぬなんて言っちゃダメよ、健ちゃん!」

「ゴメン、ゴメンって」

「もし、健ちゃんが死んじゃったら……わたし……」

「母さん、謝るから、もう忘れて」

「……うん」

 母さんを泣かしそうになってしまった。元気を取り戻したかのように見える母さんだったが、やっぱり悲しみが心のどこかに残っているのだろう。でも、少し気になるところがある。たしかに、記憶があるときに遭遇した父さんの死は、母さんに記憶を無くしてしまうほどショックを与えたようだ。だが、記憶がなくなったあとも母さんは再び父さんの死を知ったが、そのときはそれほど動揺していなかった。ショックではなかったのだろうか?

「母さん、ちょっと気になることがあるんだけど……」

「何?」

「父さんが亡くなったこと……すごいショックだったんだよね」

「……」

 母さんは食事の手を休め、ちょっと黙った後、うつむき加減に口を開いた。

「……正直、そんなにショックじゃなかったんだ」

意外だった。

「だってね、母さん、健ちゃ……健一くんのこと好きだったけど、わたしの知っている健一くんはまだ大人になってないし、その健一くんは目の前にいる健ちゃん……健児くんにそっくりなんだもん」

 僕は黙って聞きつづける。

「だからね、頭の中では健一くんは死んじゃったって分かっているつもりでも、健児くんを見ていると、どうしてもそれを信じることができなくて……もしかしたら、健一くんが健児くんのふりをしてわたしをだまし続けているんじゃないかって、そんな気持ちにすらなっちゃうの」

 やっぱり。母さんは、僕を僕でなく父さんとして見ていたんだ。そう言えば、最近の母さんの僕を見る目、あれは恋する女の子の目だったのかもしれない。だから母さんの心の奥では父さんはまだ生きていて、こうやって母さんと食事をしたりもする。

 もしかして、母さんの記憶喪失は、父さんの死を受け入れることを拒絶した深層心理の自己防衛機能が働いた結果なのかもしれない。もし母さんが記憶を取り戻したら……またあのときのように、泣き続けることになるのだろうか。

「母さんね、正直言うとね、記憶が戻らないほうがいいって、心の奥で思ってるのかもしれない」

「……母さん」

「ごめんね。健ちゃんがわたしの記憶を取り戻そうと一生懸命になってくれているのに。でもね、わたし……今、とても幸せなんだ。健ちゃんと一緒に暮らしていると、毎日が楽しいの。こんなこというと天国のお父さんに怒られちゃうかもしれないけどね」

僕も、もう無理に母さんの記憶が戻らなくてもいいかと思えるようになってきていた。

「あ、もうこんな時間。健ちゃん、そろそろ帰ろ」


 帰り道。あたりはもう暗くなっていた。僕と母さんはそれぞれ買い物袋を一つずつ持って歩いていた。

「健ちゃん」

 母さんが声を掛けてきた。

「何?」

「ねえ、腕を組んでいい?」

「何だよ、恥ずかしいな」

「いいじゃない、どうせ暗くて周りからは見えないし。ね、いいでしょ?」

「分かったよ」

 僕がぞんざいに片手を出すと、母さんは寄りかかるように僕の手にしがみついた。

「母さん、重いって」

「何よぉ。母さん、そんなに太ってないわよ」

「はいはい。分かったから、もうちょっと離れてね。歩きづらいから」

「はーい」

 母さんはうれしそうだ。僕は誰か知っている人に会ったらどうしようかと思ったが、幸い道路にはほとんど人通りがなかった。

「ねえ健ちゃん」

「何、母さん」

「もうひとつお願いがあるんだけど」

「何?」

「母さんじゃなくて、真奈美ちゃんって呼んで欲しいなぁ」

「……父さんに、そう呼ばれてたの?」

「……うん」

 恥ずかしそうにうつむく母さんを見て、ドキッとしてしまった。やっぱり母さんは、僕を若いころの父さんに見立てているようだ。呼ぶのは簡単だが、何だか、呼んでしまうと超えてはいけない一線を超えてしまいそうな気がした。

「じゃぁ、ダメ」

「何で~?呼ぶくらいいいじゃない。ケチ」

「何ででもダメ」

「もーっ。そんなこと言うと、もうご飯作ってあげないよ」

「いいよ、自分で作るから」

「健ちゃんの意地悪~」

 文句を言いながらも、母さんは笑顔で僕を見上げている。僕はもうできるだけ母さんの方を見ないようにした。見たら心が揺らいでしまいそうだった。

 そのまま歩きつづける。二人とも無言だ。もうあきらめたのかな、と思って母さんの顔を見てみた。

 何だかとても悲しそうだった。

 僕が断ったから?僕は少し後悔したが、僕が見ていることに気づいた母さんはすぐ笑顔に戻った。母さんは無理して楽しそうに振舞っているのだろうか……。

 そのときの僕には、母さんの悲しそうな表情の本当の意味がまだ理解できていなかった。


***


 数ヶ月ほど、僕と母さんの生活は何事もなく続いた。母さんの記憶は戻らなかったが、もう母さんにとっての新しい生活には慣れたようだ。今日も夕食後のまったりした時間を居間で二人で過ごしている。

「それにしても便利な世の中になったもんだねー」

「……そう?」

「だって、携帯電話でどこにいても連絡が取れるし、インターネットで知りたいことは何でも調べられるし」

「そっか。母さんの中学時代にはそんなもん何もなかったもんね」

「そうそう。ビデオや電子レンジはあったけど、こんなに多機能じゃなかったわよ~」

 世間の主婦の中では珍しく、母さんは機械には強い。元々知らないことでも、自分で試行錯誤して使えるようになってしまう。パソコンの使い方に関しては僕より母さんの方が詳しいくらいだ。

「でも、一番びっくりしたのは、このテレビゲームね。こんなに綺麗な画面と音楽で。母さんのころにはファミコンしかなかったもん」

「ファミコン?スーパー?」

「スーパーがつくファミコンも後から出たみたいだけど、母さんがやってたのは普通のファミコンよ。ちっちゃいキャラクターと単調な音楽しかなかったんだから」

 母さんは意外とゲーム好きで、よく僕と対戦ゲームで遊んだりする。母さんの方が強いのが、ちょっと悔しい。記憶を無くしたときに初心者に戻ったが、すぐまた追い越されてしまった。今も、母さんはテレビの前に座ってゲームをしながら僕に話しかけてきている。

「でもね、そんなファミコンでも、母さん大好きだったの。何て言うか、かえって想像力を掻き立てられるっていうか。とにかくはまったわよ~」

「ファミコンは僕はやったことないけど、リメイクが出ているから少しは分かるよ。ドラクエとか、初代はファミコンで出たんでしょ」

「そうそう。ドラクエもやったわよ。健ちゃんと攻略法を教え合いながらとかね。あのころはインターネットもなかったから、情報交換は友達同士でするしかなかったの」

「スーパーマリオは?」

「やったやった」

「じゃあ、ピッキーズは?」

「……それは、やってない……というかそのころなかったと思う」

「そうなんだ。今ではリメイクされて大ヒットしているけど、母さんの覚えてる年代の後に出たんだね」

「そうみたいね」

 母さんの記憶は完全に中学時代までしかない。高校には行かずに父さんと結婚したのだが、そのこともまったく覚えていなかった。僕が産まれたことも、その後の成長のことも。アルバムを見せてもきょとんとしていた。その割には、中学時代のことはしっかり覚えている。そのときの事件、流行っていた歌、そして遊んだゲームの詳細まで。僕がリメイク版で遊んでいると、後ろで見ている母さんはここが初代と違うとかいろいろうるさかった。

 ここで、僕はふとあることに気づいた。テーブルの椅子に反対向きに座りながら、母さんに質問してみた。

「ねぇ、母さん。覚えてる?」

「何?」

「僕が、母さんが記憶をなくしたときに、母さんに質問したこと」

「えーと、なんだっけ。わたしの名前だっけ?」

「そう。それと」

「場所と、今何日か」

「そう。母さん、何日って答えた?」

「えーとね」

 母さんはゲームにポーズをかけてちょっと考え込んだ。

「二月一九日。一九八八年の二月一九日って答えた気がする」

「そうそう。ちゃんと日付を言ったよね」

「うん。それがどうしたの?」

「それって何の日なんだろ?」

 そうだ。ショックから逃げるため記憶をなくしたのなら、そんなに昔まで戻らなくてもいい。戻ったとしても、ぴったり何日と戻る日が決まるのは不自然だ。その日は母さんや父さんの誕生日ではないし、バレンタインデーからも外れている。もしその日が何の日か分かれば、母さんの記憶を取り戻す方法も分かるかもしれない。戻す戻さないは別にしても、その日のことが、僕はとても気になった。

「母さん、その日、何かあったんじゃない?」

 母さんは少しきょとんとしていたが、しばらくして思い出したように顔を赤らめた。

「な、なんにもないよ。その日は」

「ほんと?もしかしたら、記憶を戻すヒントになるかもしれないんだよ!」

「なんにもないって」

「じゃあ、なんでそんなに動揺しているの?」

「ど、動揺なんかしてないよ」

「してる」

 母さんは少し戸惑っていた。僕に言うべきかどうか迷っているようだ。何か隠している……。

 やがて母さんは、座りながら僕の方を見て、ゆっくり語り始めた。

「健ちゃん、こんなこと健ちゃんに話しちゃいけないかもしれないけど……いい?」

「僕は大丈夫だから」

ちょっといやな予感がしたが、好奇心の方が勝った。僕は聞きつづけた。

「……うん。その日は何もなかったんだけどね、その前の日の夜に……初めて……健ちゃんと……結ばれたんだ……」

「結ばれたって……父さんと?」

 僕の声が裏返っているのが、自分でもわかる。母さんはきゃっと言って赤らめた顔を手で隠してしまった。

 僕の父さんと母さんなんだから、いつか結ばれたのは当たり前だ。当たり前だが……息子として、その話はあまり知りたくないことだった。しかもそのとき父さんと母さんはまだ中学生。卒業後に結婚したとはいえ、不順異性交友とそしられてもおかしくない。僕は母さんを問い詰めたことを後悔した。だが、母さんの告白は止まらなかった。

「健ちゃんは結構強引だったんだけどね……わたしね、初めて健ちゃんと結ばれて……とってもうれしかった。健ちゃんはずっとわたしにやさしくしてくれて……恥ずかしかったけど……痛くないかって聞かれて、ほんとはすごく痛かったんだけど、健ちゃんと一緒なら痛くないって答えちゃったの」

 どうやら母さんは、ずっとその話を僕にしたかったらしく、恥ずかしがりながらも言葉が止まらなかった。僕を父さんに見立てて思い出話をしているかのようだ。僕の方は母さんの言葉を止めようと必死になったが、心で止めようと思いつつもそれを言葉として口から出すことができなかった。

「大好きな人と一つになるってことが……こんなに幸せなことだなんて……そのときまで思いもよらなかった。一四年間生きてきて、一番幸せな瞬間だったの。でね、終わったあと、健ちゃんが……次は今日よりもっと愛してくれるって言ってくれて……これで終わりじゃないんだ、まだずっと健ちゃんと愛し合うことができるんだって思って……こんなに幸せでいいのかと思ったの」

と、ここまで恥ずかしそうだった母さんの顔が、急に寂しそうになった。

「でもね、次の日の朝目を覚ましたら……知らないところにいて……健ちゃんはわたしのこと母さんって呼ぶし……わたしは大人になっちゃうしで……せっかく幸せが日々が続くと思ったのに……とっても悲しかった」

 僕はすべて理解した気がした。母さんは、父さんを亡くして一番つらかったときから、初めて父さんと結ばれた一番幸せなときへと、記憶を吹き飛ばしたんだ。何故吹き飛んだのかは……ショックによる偶然か……それとも自己防衛か……分からないが、とにかく、生涯で一番幸せな日だったから、その日付もしっかり覚えていたんだ。

「でも……今はとっても幸せよ。健ちゃんと一緒に暮らせて。恋人じゃなくて親子になっちゃったけど」

「母さん……」

「健ちゃんにはこのことは黙っていようと思ったんだけど、やっぱり言っちゃった。母が息子に言うことじゃないけどね。まだ心の奥で健ちゃんと恋人同士になりたいと思っているのかもしれない……無理な願いなのにね。健ちゃん、ごめんね。変な話聞かせちゃって」

 僕は確信した。母さんは、今でもまだ苦しんでいるんだ。好きな人が息子になってしまったという苦しみ。それは、もしかしたら好きな人が死んでしまうよりも苦しいのかもしれない。死者に恋することは許されるが、息子に恋することは許されないのだから。口では幸せと言っているが、ときどき見え隠れする悲しそうな表情を僕は忘れなかった。

 僕は母さんの前に座った。

「母さん、僕のことで苦しんでたんだね」

「……」

母さんは肯定も否定もしない。が、否定しないことが僕の予想が正しいことを示していた。

 やっぱり母さんの記憶は戻してあげたほうがよいのだろうか。しかしその方法は……。

 そのとき、僕の心の中に恐ろしい考えが浮かんだ。その考えはすぐ消えると思ったが、消えるどころかどんどん大きくなっていった。もしかしたら母さんの記憶を取り戻せるかもしれない……でもその方法は、もしかしたら自殺よりも罪深いものかもしれなかった。僕の心臓の鼓動はどんどん大きくなっていく。

「母さん。よく聞いて。もしかしたら、母さんの記憶を取り戻せるかもしれない」

「え?本当?」

「うん。もしかしたらだけど。母さんは、記憶を取り戻したい?」

「分からない……恐いけど、取り戻したいという気持ちもあるの。だって、本当はわたしはお父さんと幸せな結婚生活を送っていたんでしょ?だったら、その記憶がないのは、やっぱり寂しいもの。結婚したこととか……健ちゃんが産まれたこととか……やっぱり、知りたいよね」

 僕の心は決まった。

「母さん。母さんが今一番したいことって、何?」

「な、何?急に」

「いいから、答えて」

「したいことって……旅行とか?」

「そうじゃなくて、僕のことで」

「健ちゃんのこと?」

「そう」

「そんな……健ちゃんとは……ずっと一緒に暮らしていけたらいいなって思ってるけど……」

「それだけ?」

「……うん」

「ほんとのことを言って!それをすれば、記憶が戻るかもしれないんだよ!」

 苦しいことがショックだとすれば、幸せなことも別の意味でショックだ。一か八かのかけだが、その賭けにかけるだけの価値があるような気がした。

「正直に!」

 母さんは黙ってしまった。でも、ここであきらめるわけにはいかなかった。

「真奈美ちゃん!」

「……健ちゃん?」

 僕は母さんを名前で呼んでみた。父さんが昔そう呼んでいたように。僕の中で何かが音を立てて崩れたような気がした。

「真奈美ちゃんのしたいことだよ!」

「わたしのしたいこと……」

「うん。僕、『健一』としたいこと」

「健ちゃん……」

 僕は母さん……いや、真奈美ちゃんの肩を両手でつかんで、問い詰めるように聞いた。

真奈美ちゃんは、恥ずかしそうにうつむいていたが……静かに答えてれた。

「わたし……健ちゃんと……もう一度結ばれたい」

「やっぱりそうなんだね、真奈美ちゃん」

「でも、そんなのダメだよ。だって、わたしたち……」

「大丈夫」

「だって、健ちゃんはいやじゃないの?」

「嫌じゃないよ。いや、僕だって同じ気持ちだったんだ。ずっと」

 自分の口から出た言葉だが、それが嘘なのか本気なのか自分でもわからなかった。

 僕はそのまま真奈美ちゃんの肩を抱き寄せた。

「健ちゃん……ほんとうに……わたしでいいの?」

 僕の耳元で真奈美ちゃんがささやく。

「うん」

「後悔しない?」

「しないよ。絶対」

「健ちゃん……大好き……」


 僕の頭の中は、もう真っ白になっていた。右も左も分からない。真奈美ちゃんの息遣いと、時折もれる「健ちゃん」という声だけが部屋の中をこだましていた。何か話かけなくちゃ、そう思っても、何も話せなかった。ただ言えるのは……確かに……そのとき僕は、幸せを経験していた。一四年間生きてきて一番の幸せ。それが正しい行為なのかどうかは分からなかったが、その瞬間はそんなことはどうでもよかった。


 しばらくして……僕は放心状態だったのだろうか……僕は自分の腕の中の小さな泣き声を聞いて我に返った。

「……どうして……どうして死んじゃったの……」

「……ごめんね……ごめんね……」

 その声は……母さんとして発せられたのか、真奈美ちゃんとして発せられたのか……僕に当てられたものなのか……父さんに当てらてたものなのか……よく分からなかった。

 辺りは真っ暗だった。

 僕の服がはだけていた。どこまでいったのか……よく覚えていなかった。僕はそっと起きあがり、明かりをつけずに手探りで自分の部屋に向かい、ベッドの上に寝転んだ。

 眠れなかった。

 僕は地獄に落ちるかもしれない。


***


 朝。

 朝日がいつものように容赦なく僕の部屋に差込み、僕をたたき起こす。

 まだ眠い。昨日はよく眠れなった。だが目を覚ますと、昨日のことが夢だったのか……現実だったのか……よく分からなくなっていた。

「けーんちゃん!」

 いつもどおり母さんが僕を起こしに来る。僕は昨日のことを思い出しかなり照れくさかった。だが母さんの笑顔は、昨日のことなどまるでなかったかのようだ。もしかして本当に夢だったのだろうか。

「母さん、おはよ」

 僕はベッドの上に起きあがる。

「ねえ、健ちゃん、これ食べてみて」

 母さんが差し出したお皿の上には……卵焼きが乗っていた。

「わざわざ持ってくることないのに……どうせ今日も」

 期待せずに卵焼きを口に運んだが、正直びっくりした。

「あれ、この卵焼き……」

「どう、おいしいでしょ」

「うん。昔母さんが作ってくれたのそのままだ」

「へっへー。すごいでしょ」

 昔よく食べた、懐かしい味。何度挑戦しても今まで再現できなかった卵焼きが、今目の前にある。

 僕はガバっと立ちあがった。

「僕が母の日にプレゼントしたの、何か覚えてる?」

「スーパーピッキーズターボXでしょ!」

「母さん、記憶戻ったんだね!!」

 言葉ではなく、ピースサインで返答する母さん。

「やったね、母さん」

「うん、これも健ちゃんのおかげよ。ありがとね、健ちゃん」

 思わず母さんに抱きついてしまった。

「ねえ母さん、父さんのこと、つらくない?」

「……つらいけど、でももう落ち着いているよ。数ヶ月経ってるしね」

よかった。本当によかった。結果として、記憶を無くした数ヶ月の期間が母さんの心を落ち着かせることになったようだ。

「もう、僕のことで苦しんでない?」

「やだなぁ、母さんが健ちゃんのことで苦しむわけないじゃない」

「そっか」

「そうよぉ」

「記憶を無くしてた間のことは全部覚えてるの?」

「覚えてるよぉ」

「昨日のことも?」

「うん」

 僕は急に恥ずかしくなった。

「かかか母さん、昨日のは……ほら……あれ、治療みたいなもんだからさ、治ったんだから、とっとと忘れちゃおうよ」

 自分でも焦っているのがよく分かる。

「だーめ、忘れちゃ」

「ななな、何で?」

「母さんね、記憶をなくして、そしてそれを取り戻して、よく分かったの。どんなにつらいことも……楽しいことも……全部ひっくるめて、自分にとって大切な思い出なんだって。お父さんのことはつらいけど、お父さんのことを忘れちゃうことの方がもっとつらいって、よく分かった」

「……」

「だからね、昨日の健ちゃんとのことも、健ちゃんが母さんを大切にしてくれた証として、ずっと記憶に留めておこうと思うの。だから、健ちゃんも昨日のこと忘れちゃダメよ」

「……母さん」

 僕は自分の心が晴れていくのを感じた。母さんと話していると、今までつらかったことも、苦しかったことも、簡単に自分の中に受け入れることができる、そんな気がした。

「じゃあ、さっそくお父さんのお墓参りにいかなくちゃね。母さん、まだお父さんとちゃんとお別れしてないし」

「そうだね。叔母さんにも報告しなくちゃね」

「じゃあ、その前に、朝ご飯たべちゃおう~」

 元気で明るい母さん。記憶を無くす前と比べて、子供っぽさはまだ抜けきっていない。記憶を取り戻した母さんは、結局大人と中学生が混ざった性格になったようだ。僕にとってはそれが一番よかったのかもしれない。僕たち二人の本当の生活はこれから始まるんだ……なんだか、そんな気分になった。

 僕は起きあがり、母さんと台所に行こうとした。部屋のドアを開けようとした不意をついて、母さんが僕の耳元でささやいた。

「健ちゃん、もっと練習しないと、女の子は満足しないわよぉ」

「か、母さん!」

僕は真っ赤になって叫んだ。

母さんはにこにこしながら廊下を駆けて行った。


[終わり]


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