憤怒に植え付けられた松虫草
後から追加した物。
短いがご了承願う。
彼は思い出していた。昔の事を。故郷を。何度戻りたいと願ったか。何度時間を戻したいと祈ったか。遠い昔の出来事が、今でも彼の心を蝕み続ける。
激情し、何も考えずにただ壊した。目に付く物全て。だがその果てに手に入った物は、酷い空虚。まるで体だけを残し、感情が死んでしまった様な感覚。
残された物は使命感のみ。人々を守ると言う使命のみが彼を生き長らえさせている。中身の無い抜け殻。彼を表すにはその言葉が相応しい。
「こんにちは、レイジ」
最早反応する事すらもせず、彼は地面だけを見ていた。そんな自分を嘲笑わず、また己を奮い立たせる事もしない。ただ力尽きた自分を他人の様に眺めているだけ。
「レディの扱いを教わらなかったの? 手取り足取り、教えてあげましょうか?」
「……火を放ったのはお前か」
「ええ、なぜそんな事を聞くのかしら?」
肯定を耳にした瞬間、力の限り地面を殴り付ける。地割れも振動も起こらないが、殴った石畳の部分が砕けどれ程の腕力かを伺わせた。そして彼はゆっくりと立ち上がる。
「サラ」
感情の篭っていない低い声で、目の前に立つ笑顔の放火魔の名を呼んだ。光が失われた瞳でサラの栗色の目を見つめれば、途端に彼女の顔は曇り得体の知れない存在が侵食して行く。
「相変わらず、怖い目をしてるのね。あの人ですら光があるのに、貴方の目には何も見えない。感情が感じられない。貴方は一体、どんな絶望を体験したの?」
彼は答えない。身じろぎ一つせずサラの目だけを真っ直ぐに見つめる続ける。炎が広がり、その熱のせいで汗が噴き出しても。それはまるで獲物を狙う狩人。
「まあいいわ、良く聞いて。これが最後の友好的な勧誘よ。これ以上は部下を失えないし、こっちにも目的がある。もし拒否するならどんな手を使ってでも仲間にする。殺せと命令が出ない限りは」
彼の背後で物音すら立てずに瓦礫が浮かび上がり、空中で静止する。その様子を見ているサラは何の反応も示さず、それどころか異変など何も起こっていないかの様に振る舞い、横に動いた。
空気を裂きながら瓦礫が彼の後頭部目掛けて飛来し、その速度は最早弾丸。しかし彼は頭を僅かに傾ける最小限の動きのみで回避する。狙いを外した瓦礫が地面に激突、粉微塵となり姿を消す。
「残念」
たった今目の前の人物を殺そうとしたにも関わらずサラは官能的な笑みを作る。色香を漂わせる妖艶な綺麗さを持つ彼女は優しく彼に擦り寄った。どうすれば男が喜ぶのかを本能的に理解しているらしい彼女だったが、状況は変わらない。
彼は興奮も発情もせず、それどころか死人の様な澱んだ目でサラを機械的に見下ろし続ける。そこに感情などは無く、出来の悪い操り人形に似た恐ろしさを感じさせた。
「かわいそうな子。楽しみを知らないなんて」
「……オレの心は折れている」
「だから感情に訴えても意味は無い。そう言いたいの?」
彼は何も言わずにサラを見下ろし続ける。その目には相も変わらず変化は無く、否定も肯定も読み取れない。怒りのまま乱雑に絵の具を混ぜ合わせれば、この様な色になるのだろうか。
「今日の所は大人しく引き下がるわ。でも、近い内にまた会う事になるでしょうね」
無防備にも背中を向けて去って行くサラを眺め、彼は襲い掛かる訳でも引き留める訳でもなく佇むだけだった。彼は考えずとも本能で感じ取っていた。わざわざ隙を見せると言う事は何か策があるのだと。
炎が激化の一途を辿りこのままここに留まれば一酸化炭素中毒での死亡、崩壊した建造物に巻き込まれ死亡、火に焼かれ死亡と三通りの死に様がある。何れにせよ留まる事は死を意味する。
明確な目的を持って動き出した彼が掴んだのは下水道へ降りる為のマンホールの蓋。簡単に出入り出来ぬ様に重く大きく設計された蓋を片手で放り投げると、明かりの無い闇の中へと降りた。
水溜りの中に着地した彼はゆっくりとした動作でベルトの後ろに取り付けられていたランタンを取り出し、マッチで火を灯す。暖かな光が暗闇を照らし出し、下水道を覆い尽くしている虫を遠ざける。
逃げ遅れた虫が水溜りの中に落下し、その特異な形状を晒しながらもがき苦しむ。甲殻で覆われたその体は人間の掌程の大きさがあり、クワガタの様な強靭な顎を持っている。更に体よりも長い尾には体勢を変える力があるらしく、ひっくり返った状態から素早く起き上がった。
いざ逃げ様とした虫を、彼の丸太の様な脚が踏み潰す。執拗に擦り潰し、目には怒りと憎しみが浮かんでいる事から並々ならぬ因縁があるらしい。
鼠や蝙蝠の気配すらしないここには、ただ闇が広がっている。全てを飲み込もうとする闇が。気を抜けば連れ去られてしまいそうなここは、生物が立ち入るべき場所ではない。
ランタンの明かりだけを頼りに進む彼の足取りに変化は見られず、目の前の闇に全く臆していない様に見える。だがランタンを持つ手は僅かに震えており、それは本人ですら気付いていない。
彼の脳内である光景がフラッシュバックする。差し伸べる手。しっかりと掴まれる感覚。絶対に離さない、必ず助ける。そんな思いとは裏腹に滑って行く手。そして手を離してしまった瞬間に浮かんだ、笑顔。
過ぎ去った事だ、思い出しても仕方がない。今を生きるしかない。何度そう自分を奮い立たせたのだろうか。過去は今でも骨の髄まで食らい尽くそうと迫って来る。消そうとしても消せない、消えてくれない過去。
物思いに耽っていた彼は目の前の高低差に気が付けず、脚を踏み外し落下。強かに全身を打ち付けた痛みに呻き声が漏れ、頭が朦朧とする。
彼が落ちた場所は四角形の部屋の様になっており、辺りには虫に齧られた食べ欠けの林檎や消火された篝火があり彼の生活拠点になっている様だ。
何とか立ち上がった彼は大きく息を吐き、固い木箱に座り篝火に火を点ける。たちまち周囲を明るく照らし出し、暗闇の中で安息の地を手にする事が出来た。
不意に彼の視界に修道女が映り込む。その方向を向くが、当然そこには誰も居らず寂しく木箱が鎮座しているだけ。
幻覚を幻覚だと認める事が出来ずに、彼は何度も辺りを見回し修道女の姿を探す。しかし何も見つからない。彼も分かっている。アレは幻覚だと。
修道女を見付けられなかった彼は大人しく木箱に座り、懐から懐中時計を取り出した。光を受けて輝く金の蓋には六芒星が刻まれ、その中には悪魔。
大事にしているのだろう、傷や曇りすら無い時計は高貴な輝きを維持し暗闇の中でも自己主張をしている。
「それは何?」
「宝物だ。父さんとの唯一の繋がりだよ、義母さん」
「へえ、あなたのお父さんとのね。一体どんな人なのかしら?」
「オレも会ってみたいよ。成長したら、必ず父さんを見付け出す。親子なのに見た事もないなんて悲しいからな」
隣には義母が立ち、遠くからは友の雄叫びが聞こえて来る。どうやらまた誰が一番の大物を仕留めたか競い合っているらしい。熱い風が吹いて草を巻き上げて行く。
彼は不意に気が付いた。ここは下水道であり、自身が育った故郷ではない事を。だがさっきまで確かに緑色の草が茂る雄大な大地に立っていた。声も幻聴ではない。しかし今は酷く汚れた下水道しか見えない。
幻覚や幻聴にしてはあまりにも鮮明だった。もしやこちらが幻であちらが現実なのではないか? そんは考えを持ってはみたものの、無機質な時計の針が否定する。
彼の瞳に感情は戻って行く。しかしそれは後悔と悲しみ、怒りと言った負の感情。体を内側から焦がす様に熱く燃え上がる炎は溢れ出し、彼を衝動のままに行動させる。
「アアァァァ!」
獣の様な叫びを上げながら彼は壁を殴る。両手が傷付こうと、肉が擦り切れ骨が露出し様と構わずに。渾身の力で頭突きを放ち、その衝撃で視界の均等が崩れるが動きを止めない。
何度も味わった自分の無力さ、どれだけ足掻こうと突き付けられるあまりにも冷たい現実、誰も理解し救ってくれない孤独。理不尽なこの世界で、後どれだけ絶望すれば解放される?
何時だってそうだった。苦しむのは自分ではなく周りの人々。大切で守り抜きたい人ばかりが犠牲になる。なのに自分には苦難が与えられず、精神だけが擦り減って行く。
いっその事死んでしまえば楽になれた。無駄な使命感に突き動かされる事も無かった。運命は精神だけを責め立て、苦しむ姿を見るばかりで殺さない。
荒い息になった彼は静かに木箱に腰掛け、瞳から徐々に感情の色が消えて行く。また、あの澱んだ目へと。やがて怒り疲れた彼は、目を閉じ眠りへと落ちた。
【虫】
基本的に節足動物を指す。小型ではあるが秘めた能力は高く、鳥よりも俊敏に飛び回る虫や小さな体格からは想像も出来ない力を発揮する虫も居る。
獣化した際の被害が最も大きく、また厄介なのは他ならぬ虫。また原因は不明だが、獣化で虫のみが飛行能力を残したまま異常な大きさを獲得出来る。
陸上生物の中で外見的にも能力的にも特異な存在である虫は人々から気持ち悪がられ、時に神聖視される。それは人間に植え付けられた太古の記憶なのか、上位者に対する恐れなのか。




