虚言吐露:白の騎士と赤の騎士
二ヶ月も更新が遅れてしまい申し訳ない。今後も更新は継続する。
彼女は走っていた。怯えていた。いつあの白い騎士が目の前に現れるのかを考えただけで鼓動が早まり冷や汗が滲み出す。願わくばこのまま現れず、自分が消えたことに気づかないで欲しい、追いかけて来ないで欲しいと彼女は神に縋る。
木の枝から枝へと飛び移り、枝の上を駆け抜ける。葉が顔に当たり切り傷が出来るのも気に留めずただ彼女は少しでも彼から逃げようと走り続け、そして辿り着いた。悪夢へと。
そこは彼女の拠点だった。安心出来る場所だった。そこが今は、血と何かが混ざり合った悪臭を放つ洞窟へと成り下がっていると誰が予想できただろうか? 何かは色と臭いからして、恐らく胃液なのだろう。
奥へ行けば行く程に黄色の胃液の量は増え、それに比例して地面に染み込み乾燥した血液の量も増えていく。彼女は気づいた。赤黒い皮が至るところに落ちていることに。
皮が何の物なのかは知りたくもなく、ただ吸い込まれるように洞窟の奥へと足を進める。やがて陽の光が差し込まなくなると、消された松明に火を灯し暗所を照らした。
ここで彼女はなぜ明かりを消しているのかという疑問を抱く。しかしその疑問は奥から響いてくる呻き声によってかき消された。それは低く、太く、しかし今にも消えてしまいそうな儚い呻き。
この惨状を何が引き起こしたのか、彼女は見当もつかない。なぜ胃液がこうも吐き出されているのか? 落ちている皮は何なのか? 確実なのは、人間に可能な芸当ではないということだけだった。
呻き声の主が生き残った仲間だという希望に賭け、彼女は震える膝を抑え明かりのない暗闇へと歩き出す。そこは人が立ち入るべき場所ではないと、本能が警告している。奥へと踏み出す程に足取りは重くなり、どれだけ心を奮い立たせようと目の前の暗闇を体が恐れてしまう。
松明が洞窟の奥深くを照らし出した一瞬、そこに何かが浮かび上がる。その全貌を知るにはあまりにも短すじる時間の中で、彼女はこの惨劇を引き起こした存在は獣なのだと悟った。
低い呻き声が大きくなり暗闇の中で巨体の動く気配がする。荒々しく吐き出される吐息が、獣が顔をこちらに向けたことを知らせる唯一の手がかり。
獣の凄惨な姿が照らし出される。赤黒く、皮は剥げ落ち筋繊維が外気に晒された顔に長く伸びた茶褐色の体毛。口の中に生えた牙はまるで人間の歯のように並び、片目から今尚流れ出る鮮血は獣自身を濡らす。
獣を目の前に、彼女は思わず後ずさった。仲間を殺されたことへの怒りも、彼から逃げてきていたことも忘れ立ちつくす。
獣。それは自然から逸脱し、全てを喰らい暴れ狂う破壊の化身。狼ですらも道を開け、獣狩り数人が命を賭けて戦いを挑み初めて対等となる。
彼とは違う、芯の髄にゆっくりと侵入してくる恐怖。言葉の通じない恐怖。醜さからの恐怖。思考が読めないことへの恐怖。本能に刻み込まれた恐怖。そして彼女は、松明も、プライドすらも捨て逃げ出した。
暗い洞窟の中に響くのは自分の足音と、そして後ろからついて来る獣の吐息だけ。歩き慣れた筈の出口までの道のりはなぜか遠く、静かに吐き出される獣の息はまるで今後ろにいるかの様にはっきりと耳に届く。
光の差す出口へと向かう足を早める彼女は転びそうになることも気に留めない。呼吸は既に荒くなり、心臓が何度も脈打ち息苦しさと軽い吐き気を覚える。それでも止まらなかったのは後ろの気配が離れなかったからだ。
出口への距離が縮まり、あと三歩、二歩、一歩。地面を力強く蹴り洞窟から飛び出した彼女は暗闇から光の中へと戻れたことを喜び、足を止めた。そこで咄嗟に獣を思い出し振り返る。そこには、真後ろで彼女を睨みつけ腕を振り上げた獣がいた。
迫り来る非常な現実と皮膚を突き刺す様な死の恐怖。獣の敵意に満ちた眼差しで見下ろされた彼女は最早まともに思考することもできず、足が震え動かない中目を強く瞑り痛みに備える。
この獣は自分を殺し食べるのだろうか? それとも気が済むまで八つ裂きにするのだろうか? じわじわと苦しめながら殺すのだろうか? 死ぬ痛みとはどれ程のものなのだろう。不吉な考えばかりが巡り、とうとう衝撃が襲った。しかしそれは、予想よりも遥かに軽いものだった。
「獣の目の前で棒立ちとは、余程死にたいようだな?」
忌々しい声に彼女が目を開ければそこには、相変わらず飄々とした態度の彼が立っていた。何が起こったのか分からず茫然としている彼女を鼻で笑い背を向けた彼は、ベルトから吊るした剣を抜き放つ。
彼女は知る。今までの彼の戦いは全て片手間のお遊びだったのだと。本気で殺しに来てなどいなかったのだと。近くにいるだけで感じる殺意は見えない触手となり全身を這い周り鳥肌が立つ。しかし彼女は決して目を逸らさない。逸らしてしまえば、絶対に勝てないと認めた様なものなのだから。
先に動いたのは彼だった。その視線の先にあるのは獣の頭部、その脳だ。彼としても強力な獣を相手に無傷で勝てる保証などない。一秒でも早く終わらせる、それが最善の選択だと彼は身をもって知っている。
地面を蹴り抜き即座に距離を詰め踏み込む。約70センチの刃を持つ剣ならば簡単に届く距離であっても彼は焦らず、冷静だった。彼から只ならぬ危険さを感じた獣は剛腕を振るう。もし彼が剣を突き刺していたなら、例え脳髄を貫いたとしても慣性の法則によって直撃、致命傷を負っていただろう。
獣の攻撃への対処は二つある。腕の下をくぐり抜け続く攻撃を避ける為に距離を取るか、それともこのまま攻撃を行うか。彼がとったのは攻撃だった。
側から見ていた者には獣の初動が分かり易く大振りに見えるが、彼女は正面から相対していた際にどれだけ攻撃の回避が難しいかを何度も痛感していた。だからこそ第三者から見た速さと攻撃される本人から見た速さは体感的に大きな違いがあると知っている。そして戦闘の最中は誰しも気分が昂り攻撃をしてしまい易い事も。故に彼の判断力には目を疑った。
続け様に彼女は愕然とする。今正に獣が腕で薙ぎ払い始めているのにも関わらず、彼は恐れもせずに屈んだだけで避け、獣の巨体を駆け上がったのだから。その身体能力は確かに賞賛に値する。しかし何よりもその蛮勇とも呼べる行動は、彼女が現実として受け止めるには厳し過ぎた。
獣の体を駆け上がり、無防備な頭部を掴み姿勢を固定すると共に剣の刃で擦り切る。そして即座に顔面に蹴りを入れ距離を離す。蹴りによる衝撃など獣からしてみれば些細なもの。だが頸動脈を傷付けられたとなれば、どれだけ体が大きかろうと激痛が走ることには変わりない。それに加え、頸動脈からの出血による死の可能性も充分にありえる。
獣は低く唸りながら彼を睨みつける。多量の血が流れ出る傷口を押さえ出血を抑えようとする気配が見られないのは、彼との戦いで片腕を使えなくするのは自殺行為と考えたからなのか、単にそこまでの知能がないのか。どちらにしろ、この戦いは彼の勝ちと決まった様なものだ。いや、決定した。
獣の前方の大地が突如変形し、鋭利な先端を持つ巨大な岩として獣を貫き血の雨を降らせる。それは彼女を突き上げ気絶させた時の物と酷似し、だがそれよりも遥かに力強く巨大だった。
「ダヴィッド、貴様の魔術は何時見ても見事な物だ。相手に避ける隙すら与えずに即死させるとは、敵に回したくないものだ」
「お褒めに預かり光栄で御座います。しかし陛下は己と違い獣への有効打に欠ける事をお忘れでは?」
「心配は無用だ。事実、あのまま進めば私が勝っていた」
「お言葉ですが相手は獣、何時どんな理由で形勢が覆るか警戒なされるべきです」
「分かっている。少なくとも、貴様達がいる間は何をしてでも生き残る」
彼とダヴィッドの会話を茫然と眺めながらも、彼女は自身を一撃で気絶させた者が誰なのかを知る。獣を相手取り優勢に運ぶ彼、そしてその獣を簡単に殺害する一撃を放つダヴィッド。この二人は彼女が知る現実からはあまりにもかけ離れ過ぎた。
彼女の故郷では獣が一匹侵入しただけで厳戒態勢がしかれ国中の兵士が集められる。そうして総力を挙げて尚被害者が出る場合すらあると言うのにも関わらず、この二人は単独で獣を圧倒した。彼女はこう思ってしまう。こんな化け物に勝てる訳がないと。
「貴様は何時までそこに立っている? 戻るぞ」
恐らくここで逃げ出したとしても逃げ切ることは不可能だろう。最悪の場合、銃で脚を撃ち抜かれる可能性もある。何より彼女にとって強さが未知数なダヴィッドもいる状況では万に一つも望みはない。
「貴公、陛下の後ろに」
突如ダヴィッドから掛けられた声に彼女は肝を冷やす。しかし、不思議とその声音に敵意は感じず彼とは正反対の暖かさを感じた。その奇妙な感覚に思わずダヴィッドを見てしまうが、当然メットの上から表情を伺える筈もない。
大人しく彼の後ろを歩き始めた彼女は、なぜダヴィッドが彼を陛下と呼んでいるのか、従っているのかを疑問に思った。背後を確認するとダヴィッドは木の枝を杖代わりにしながらぎこちなく歩いており、彼とは大分距離が離れている。先程の感覚から邪険にはされないだろうと踏んだ彼女は彼に聞かれない様に注意を払い、小声で尋ねた。
「なあ、お前はなんであんな奴に従ってるんだ? 獣を即死させられるお前の魔術なら簡単に勝てるだろ? 肩貸すぞ」
「感謝する。なぜ従うのか? それは単純な答えだ。己が忠誠を誓うと決めた。恩義を感じ、強さに惹かれた。ただそれだけだ」
ダヴィッドの発言は曖昧で要領を得なかったが、彼に対する強い忠誠心だけは彼女に伝わった。しかし新たな疑問が生まれる。強さに惹かれたと言う事は、彼はダヴィッドよりも強いのだろうか? と。
「アイツはお前よりも強いのか?」
「貴公は陛下の本気を知らない。先の戦闘など実力の半分だ。陛下が一度その気になれば、己程度数秒と掛からず斬り捨てられる」
「半分……!?」
彼女は驚き思わず声を低める事を忘れてしまった。その声に反応し彼が振り向き、二人を視界に収める。しかし彼は彼女が思い描く様な粗暴な事などせず、小さく笑うだけだった。
「ダヴィッド、貴様も男だな」
「陛下、失礼を承知ですがそれは事実と異なります。これは単なる歩行の補助でありそれ以外の思惑は一切御座いません」
ダヴィッドの異性として見ていない発言に多少の腹立ちを覚えつつも、彼女は彼の性格を見直し始める。横暴で身勝手な発言しか聞いていなかったせいで冷酷で最低な男と言う認識しかなかったが、仲間を尊重し冗談も言う。未だに最低な男ではあるが、最初に考えていたよりも彼はずっと人間臭いのだと彼女は知った。
「バレット」
「なんだ白ギャング」
最低ではあるが人間味はあるからクソ野朗からギャングにグレードアップ、などと考えていた彼女は唐突に彼に話し掛けられ密かにつけたあだ名を口にしてしまう。焦ってももう遅い。彼の耳には届いてしまった。
「ほう、白ギャング? なら貴様はそのギャングに狙われた子猫といったところか?」
彼女は少なくとも一発の攻撃を受ける事を覚悟する。しかし彼は予想に反して地面から稲に似た草を引き抜き彼女の前に突き出した。そしてそれを上下左右に揺らす。
「……何だこれは?」
「猫はイネ科の植物で遊ぶものだろう? 喉を撫でられる方が好きか?」
「やめろ」
喉へと伸ばして来た草を持つ手を払い、彼女はもう一度彼について考え直す。そして案外馬鹿なのかもしれないと、そう考えた。
「ダヴィッド、貴様とはここで別れる。また明日ここで落ち合おう」
「陛下の為に」
ダヴィッドが森の中へと消えて行き、彼は彼女を窓から室内へと戻す。自身も部屋の中へと入ると、まるで疲れたとでも言う様に椅子へ腰を下ろした。
彼女はいつの間にこんな場所まで戻って来たのかと考えていたが、ここで行われた戦いを思い出し再び彼へ警戒を向ける。しかし彼はまるで興味が無いかの様にパズルへと向かっていた。
「バレット、貴様はもう寝ろ。何時まで寝ているかは自由だが、あまり寝ていると余計な脂肪がつくかもしれないな?」
唐突に彼が振り向き、バレットにそう告げた。彼女にとって不快な内容も含まれていたが、ここで反発をしたところで無駄に彼を刺激するだけだろう。そう考えた彼女は無言で毛布を被り、目を閉じた。勿論寝てはいない。もし彼が不穏な動きをすれば即座に反撃に移る準備が出来ている。
彼の一挙一動に集中していた彼女だったが、全くその場から動く気配がなくパズルから離れる様子も無い。そしてあまりの退屈さに、彼女はいつしか夢の世界へと踏み入れていた。




