哀惜に手向ける金盞花
【獣】
生物が異常な成長を遂げ、生態系に影響を及ぼす様になったものの総称。家畜や人間も獣となる場合が存在し、周囲への被害を抑える為迅速な討伐が求められる。
一般では、獣化と同時に理性や意識も失うと言われているが、我々にそれを確かめる術は無いだろう。獣になった者は例外なく、対話する暇も無く狩られてしまうのだから。
柔らかな雪を赤黒く染め上げる液体は、俗に言われる聖騎士に似た風体の男からゆっくりと滴っていた。積雪と同化する様な純白の鎧から放たれる神々しさはなりを潜め、伝う血が見る者の警鐘を鳴らす。
聖騎士に相対する怪物、九メートルはあろうかと言う巨大なマンモスは微動だにせずただ静かに佇む。過酷な環境下で一切の保護色を持たぬ絶対強者たるその威厳。成人男性の胴体程の太さの頑強な牙は正に誇り。
一般男性よりも大きいと見て取れる聖騎士と怪物の身長差は、どう足掻いても埋められない物だった。体高とはつまり筋肉の大きさ。それ故に、恵まれた体格の怪物は速度と破壊力を両立しており聖騎士の負けは決まっていた。
聖騎士の全身から流れ出る血液の量は当の昔にバケツ一杯分を超え、周囲の無垢な雪を汚す。脚を踏み出す度に血が噴き出し垂れ下がった腕に力は込められていない。しかし脚を止めるどころか、逆に動かし続ける。
降雪に脚を取られ思うがままに進めない事すらも無視し、左手に握り締めた白剣を引きずりながら尚も進む。青と金の左右非対称な色を持った瞳が見据える先は怪物のみ。そこには敗北と言う色は皆無。
頼りなかった足取りは次第に早まり、踏み込みは力強くなって行く。怪物との距離が縮めば縮む程に歩調は早くなり、走り出すと同時に血の流れが止まる。
天を割る雄叫びを上げた怪物は四つの蹄で雪を捉え駆ける聖騎士を迎え討つ。猛猛しい牙を水平に構え、間合いに入った者は生きて出られないと予測させられる気迫を放ち聖騎士の動きを待つ。
白雪を巻き上げながら突進する聖騎士には神々しさは無く、獲物の命を刈り取る鬼神とでも言うべき覇気を纏っていた。
聖騎士が怪物の間合いに侵入した刹那、ヘラ状に発達した牙を豪雪と共に振り上げた。雪崩と見紛う量の雪が舞い上がり、完全に視界を妨げた後に鋼の如き硬さを宿した鼻で地平を打ち払う。
目くらましと本命の一撃の華麗な連携。従来では野生動物が取るとは考えられない様な知性を感じさせる動き。人間が避けられる筈が無かった。
舞う白煙から滑り込みながら飛び出したのは今の一撃を無傷で避け切った聖騎士。それも鼻で薙ぎ払い始めた方向から現れた。そして迅速に立ち上がり、怪物の前脚を鋭く斬り付けた。
常に雪が降り続ける雪山の山頂で体温を保つ為に進化した剛毛を聖騎士の剣はいとも容易く斬り飛ばし、毛皮を断ち、高温の肉を深くまで抉った。
腕を振り抜くと同時にすかさず前転し受け身を取り、疾走の速度を殺し滑り易い雪の上で止まると共に距離を離す事に成功する。
牙での攻撃ではなく鼻での一撃が本命だと完全に読み、尚且つ飛び越えずに鼻の下をくぐる事により素早く攻撃に転じると言った芸当を可能にする。生半可な覚悟や経験では不可能。
たいして痛みを感じていない怪物は後脚で立ち上がりながら振り向き、聖騎士を押し潰すそうと全体重を掛け前脚を叩き付ける。しかしこれも聖騎士は避けた。
その巨体が仇となり、怪物の前脚が地面に埋まり醜態を晒す。当然聖騎士はその隙を見逃さず、血糊を付着させた剣を構え先程斬り付けた場所へ向かう。
剣がいかに素晴らしくとも、それを扱う者が心得を知らなければただの棒と同じ。振り上げた刀身を腕の如く簡単に振るい、滑らかに肉を断つ。常人であれば間違いなく刃が途中で止まり大きな隙を晒していた。
荒々しくも美しい斬撃の雨は、正確に怪物の傷口を広げその痛みを増大させて行く。既に聖騎士は尋常ではない量の血飛沫を浴び、鎧は黒く染まり剣の刃は欠けている。
聖騎士が幾度も連撃を繰り返す中、怪物が動いた。一見ただの振り向きに感じられるそれは、薄く平たい牙で外敵を仕留める行為。下半身と牙の位置が入れ替わり、聖騎士を丸太の様な牙が襲う。
不意を突かれ避ける術の無い聖騎士が取った行動は剣を自身の前に立てて据える事。次の瞬間、血塗れとなった魔剣と牙が衝突し刃が食い込んで行く。
陽の光を受け鈍く輝く刃と大木に似た牙の小競り合いの結末は意外にも早く訪れた。剣の刀身が半ばから叩き折られ、怪物の牙が切断される。しかし第二の牙が聖騎士の胸部を殴打し軽々と吹き飛ばす。
得物を破壊され、金属製の鎧が凹む程の強烈な攻撃を受けた聖騎士は宙を舞いながら大きく息を吸い込む。そして雲の合間から覗く眩い太陽を睨みながら叫んだ。
「必ず、必ず討ち取る!」
なだらかな傾斜へ吸い込まれる聖騎士は、雪山全体へ響き渡る声量で怪物へ宣戦布告をしながら落下して行く。後に残ったのは反響する声のみ。
片牙を失った怪物は奈落の底へと落ちて行く聖騎士をいつまでも眺めていた。吹雪が訪れ様と、雪崩が起き様と、いつまでも。
暖かな暖炉の火に照らされる色素の薄い金の髪は光を反射し、珍しさと美しさを両立させている。整った目鼻立ちは誰もが羨む程に絶妙な配置がなされており、容姿が優れていた。
骨と木材で作られた簡素なベッドの上に寝かされたその男の体には痛々しい量の打撲痕があり、鍛えられた肉体を青紫色が蝕んでいる。毒々しいその色は、白に近い体色のせいか一層目を引く。
炎が燃え盛る音と呼吸音だけが聞こえる静かな室内。質素な扉が微かに軋み、聞こえるかどうかの音を立てた時、男の目が開いた。
「起こしちゃいましたか? 覚えてます? 何があったのか」
木の扉を押し開けて入って来たのは継ぎ接ぎの服を着た幼さの残る少女。優しく純粋な笑顔は愛らしく、大きな瞳と低い鼻が目立つ
清潔な布を木製の容器に貯められた水に漬けた様子からして、男の看病をしていると言う事は容易に想像出来る。不器用に布を絞る様子から慣れていないとも分かる。
少女が濡れた布を打撲痕に乗せると、男は一瞬体をこわばらせた。起きて間も無く冷えた物を押し付けられたからか、長い溜め息を吐く。
「いえ……何が起こったか全く飲み込めません。私は確か、あの雪山でーー」
「どれ位の高さから落ちたのかは知りませんけど、あそこから落ちて全身打撲で済んだのはあなたが初めてです」
少女の口から発された言葉を耳にした途端、男の血相が変わる。目は大きく見開かれ吐かれる吐息の量も小刻みに変動し驚きを隠せない。
「落ちた? 記憶がありません……」
「記憶が無い? 記憶喪失ですか? この一際大きい傷と何か関係が?」
少女が注視した先には胸部を覆う程の大きさの打撲痕。間違え様も無いあの怪物による一撃を受けた証。正常な人間ならばここで全てを思い出すだろう。だが彼はより顔を青くしただけだった。
「分かりません。ただ、あの雪山で人間と御話をしていた事しか」
男が室内に視線を巡らしながら答えると、少女は暫し面食らったのか動きを止めた。間を置いて、突然笑い声を上げ始める。今度は彼が怪訝そうにする番だった。
「人間って、面白い言い方しますね」
少女が必死に笑を堪えている様を見て漸く彼は自分が何を言ったのか理解した。そして自身の間抜けさに対してか自嘲気味に笑みを作り、ゆっくりと上体を起こす。
「久しぶりに人と御話しするものですから、少しばかり言葉をを忘れていました。後は勝手に治りますので、これで」
「もう起きて大丈夫なんですか? とてもそんな風には見えませんけど……」
少女の不安気な声を意に介さず彼はベッドから起き上がり、離れた机に置かれた鎧を身に付けて行く。黒のインナーを着込み、次いでガントレット、レギンス、メイル。最後に顔を覆うメットを被る。
「大分傷んでしまいましたね。この村に鍛冶屋はありますか? 出来る事ならば、この鎧の破損を修理したいのですが」
「あるにはありますけど、あの雪山で鉱石を採って来ないと直すのは難しいと思います。行くんでしたら、この家の右手突き当たりに鍛冶屋がありますよ」
鍛冶屋までの道のりを聞きながら、彼はある変化に気付いた。鞘に収める筈の剣が無い。それは騎士にとって致命的な痛手だ。武器無くして自身の身を守れはしない。
「剣を存じておりますか? 確かに携行していたのですが、見当たらないので。それに懐中時計もです」
「剣、ですか? あるにはありますけどーー」
複雑な表情を浮かべ何かを考えている様子の少女だったが、暫く眼を閉じ熟考した後頷いた。床を軋ませながら早足で部屋を出て行き、残された彼は無言で鎧の胸部をなぞる。
慌ただしい足音と共に木材の砕ける音が聞こえ、短い悲鳴が家屋に響き渡った。突然の出来事に驚いた彼が眼を丸くしながらも廊下へ顔を出すと、そこには抜けた床に嵌った少女。
「あはは、あの、手を貸してくれませんか? 自分じゃどうにも出来なくて……」
「大丈夫ですか?」
優しく声を掛けながら少女の手を取り、彼は簡単に持ち上げる。穴の空いた床から這い出る少女の顔には気まずさが映っており、怪我人に迷惑を掛けた事を恥じている様子だった。
「すみません」
立ち上がるや否や、少女はすぐさま背筋を伸ばし何度も頭を下げる。その手には叩き折られた剣と銀に輝く懐中時計が握られていた
「この剣はもう使えそうにはありませんね……ありがとうございました」
「お気を付けて」
見送る少女に一礼し、木の香りが漂う家屋の出口へと向かう。彼が脆くなった扉を開ければ、そこには一面の銀世界が広がっていた。
無邪気に笑い遊ぶ子供、雪掻きをする大人、立ち話に耽る女性。この過酷な地で生き抜くのは簡単ではないが、この村は活気と充実に満ちていた。
「お、この前運び込まれたヤツだな。もう怪我は治ったのか?」
「ええ。お陰様でもう痛みもありません」
村人に挨拶を返しながら、彼は言われた通りの道順を辿る。冷えた風が火薬の匂いを運び鼻腔を刺激して行く。その途端、彼の目には怒りとも哀惜とも付かない光が浮かび、消えた。
遠くに見えて来たのは古くさい小さな工房。煙突から立ち昇る黒煙が目印となり、一面を覆う雪と比較しても遜色なく主張していた。しかし、思わず噎せ返る悪臭は、腐った魚を硫黄の湯に浸けた様な酷い物だった。
固く閉ざされた黒い鉄製の扉は異様に熱く、思わず触れた指を離した彼は半歩下がり壁の隙間に指を差し込む。そして一気にこじ開けた。
冷えた空気が建物の中に流れ込み、異臭を連れて外の世界へと旅立って行く。ガスを何倍も濃くした様なその臭いを全身に浴びた彼は無意識の内に手を顔の前に翳し悪臭から逃れようとしていた。
開けた先に居たのは、煌々と炎が燃え盛る傍で一心不乱に刀剣を研ぐ筋骨隆々の中年。真剣な眼差しと流れる水と言う形容詞が当て嵌まる慣れた手付きから熟練の職人だと一目で分かる。
「すみませんが、鎧と剣の修理をお願い出来るでしょうか?」
「あん? ああ、雪山から転がり落ちたおっちょこちょいか。残念ながら鉱石が足りないんで修理は無理だな。雪山に行く筈の炭鉱夫が獣にビビッちまって仕事しねえんだ。お陰でこっちまで商売上がったりだ」
剣を担いだ筋肉質な上半身裸の中年は眉をひそめながら彼に向き直る。顎髭に包まれた口がへの字に曲がっている様子からして、現状に満足していない事が手に取る様に分かった。
「獣ですか……余り多くは持って帰って来れませんが、少量なら私が採掘をしますよ。獣から逃げるのも慣れていますからね」
「本当か? なら白閃石の原石を採って来てくれるか? お前さんの装備修理に必要な物だ」
「分かりました、行って来ましょう」
背を向け立ち去ろうとする彼の肩に、中年が手を置きそれやんわりと阻止する。何事かと振り返れば、無言で突き出されたのは白みがかった灰色の鶴嘴。
「これを持ってけ。採掘には欠かせない相棒だ。それから帰ってくる時は赤の看板を目印にするんだぞ。大きくズヤカ村って書いてあるからな」
「ご厚意感謝します」
丁寧にお辞儀をした彼は加冶屋の硬い床から柔らかい土へと脚を踏み出し雪山へと歩を進めて行く。浅く降り積もった雪に刻まれた足跡にまた新たな物が追加され、人々の軌跡を残す。
鶴嘴を背負った大男は物騒な姿のまま周囲の目を気にせず村の出口へと脚を運び続ける。比較的ゆっくりとした歩きと伸びた背筋、白い鎧により纏う空気は高貴と言う言葉が相応しい。
水晶とも見れる透明な氷の中に封じられた骨の大剣は二メートル近い大きさを誇り、放たれる冷気が痛みとなって彼の肌を突き刺す。
篝火の横を通り過ぎればそこは既に人の手が入らぬ自然。極寒の地だと言うのにも関わらず、自生する植物は強く根を張り葉を茂らせていた。
起伏に富んだ地形は来る者を拒むかの様に複雑であり、迷宮と間違われても何もおかしくはない。さながら迷いの森。
小鳥がさえずり平和な雰囲気を感じさせるものの、数々の木が薙ぎ倒され何かが荒れ狂った後が残されている。まるで巨大な重量で押し潰した様な惨状だった。
辺りの木の幹には人間よりも大きい手が食い込んだ跡があり、それが周囲の樹木の至る所に散見される。手の大きさから推測すればその体躯は二メートル前後となり、とてもこの村にそんな高身長の人間が居るとは思えなかった。
彼が注意深く辺りを見渡していたまさにその時、頭上を何かが通り過ぎた。木の葉を散らし飛び交う黒い影は彼と距離を詰めて行き、その直前で停止した。
舞い落ちる木の葉が魅せる幻想的な光景とは裏腹に彼の視線の先に居たのは成人男性と同程度の大きさまで成長した猿。黒い毛皮の上からでも分かるまでに発達した筋肉と鋭利な牙、鋭い爪。
「獣……」
獣。それは異常成長を遂げた動物達の総称。片手の握力で大木の幹を凹ませる、発達した牙で枝を砕くと言った並外れた能力を備えた者が大半を占める。それ故に本来ならば専門の狩人でなければ手を出してはならない存在。だが、男は背中の鶴嘴に手を掛けた。鶴嘴を握り締めた時、それは戦闘開始の合図となる。
木を蹴り男へ飛び掛る猿の口は大きく開かれ、涎で光る牙が柔らかな肉に吸い込まれて行く。長い腕で左右への逃げ場を無くし、後は喉へ噛み付くのみだった。しかし、鶴嘴が脳天を貫いた。
顎下から肉を穿ち頭蓋骨を叩き割った鶴嘴の先端は血液で黒く染められ、柄を伝う雫が汚れを知らぬガントレットを侵す。
力無く垂れ下がった死骸を投げ捨てると、彼はさして興味も無さそうに足を運び始めた。鼻腔を痛い程刺激する生臭さにも関心を示さずただ前へ進む。
既に地面には霜が降りており、見上げれば荘厳な雪山が鎮座している。白く塗られた山頂付近の空は不穏な黒雲を浮かべていた。
青く透明な結晶が複雑に組み合わさって完成した道は神々しく、思わず見惚れるまでに美しい。吐く息も凍る様な寒さの中に芽生えた神秘。そんな言葉が相応しいこの場所に、鉄で固い物を打つ乾いた音が響く。
拭われる事無くこびり付いた血は乾燥し、汚れた先端が岩肌を壊す。鶴嘴が無造作に振り上げられまた壁を抉り、隙間から白い岩石が顔を覗かせる。
男は鶴嘴を雑に放り投げ、渾身の力で壁に拳を叩き込む。固い物が擦れる様な音が聞こえ、引き抜いた手には赤子程の大きさの純白の鉱石が掴まれていた。
繁々と鉱石を観察し、その表面に傷が無いかどうかや亀裂の有無を確認する。不良品か否かを吟味した男は満足気に頷き、ゆっくりと踵を返した。
吐息すらも凍る静かな洞窟の中に甲高い足音が反響し、小刻みに為される呼吸のリズムさえもが神秘を感じさせる。
巨大に成長した氷柱や氷漬けの生物、幾つもの化石が透けて見える地面。ここは荒々しい獣達の墓場であり神秘を感じさせる宮殿でもある。
洞窟の外では冷たい風が粉雪を懐柔し、降り積もった雪が容易く足を滑らせ否が応でも足場を慎重に進まざるを得ない。何者をも拒むこの白銀世界は穏やかさなど微塵もありはしなかった。
ふと足を止めた。同時に吹雪が一層激しくなり、視界を白く染め上げる。しかし彼は微動だにせず、嵐の如く叩き付けられる雪を意にも介していない。視線の先には、赤。
純白の中に飛び散った赤い液体。染み渡ったそれは無情にも渇ききり既に時間が経過した事を知らせる。傍に倒れ込む三つの体に生気は無く、既に凍て付いている。
鮮やかな切傷を遺した遺体に余計な損傷は見られず、一度の斬撃で命を刈り取られたと見て取れた。
彼がその視線を向けるのは小さな死体。外傷は無く、頼りない体を寒さから守ろうと肩を抱えて死んで行った幼子。
沈黙と体温を奪う風が吹き込むこの場所を物悲しさが支配していた。彼は同情や悲しみの念など皆目見せず、そのまま静かに歩き始める。
吹雪が止んだその時、彼方から狼の遠吠えが雪山を包んだ。嫌になる程良く晴れた空に浮かぶ黄金の月輪。それが彼を照らし出す。冷ややかな光を放つ男の片目と天の瞳は酷似し、どこか無情さを感じさせていた。
青白い月光を浴びる彼は何を思ったのか、踵を返した。
「しかし気の毒なもんだ。まさか雪山で人斬りに出くわすなんて想像も出来なかっただろうな」
金槌を支えに立つ加冶屋は神妙な面持ちで顎髭を弄り、思考をどこか遠くへと飛ばしている様に見える。固く引き締められた口元から、人斬りがこの周辺に現れる事を危惧していると想像するのは難しい事では無かった。
「人をいとも容易く殺すとは決して許してはならない行為です。早くこの傷を治さなければ。村の人々を守る為にも、一刻も早く装備の修理をお願いします」
「まあそうカッカするな。雪山で人が死ぬ事なんか珍しくない。この間なんか猿に脳味噌抉り出された奴が居たし、昔は氷漬けにされた奴も居た」
「氷漬け……魔術師で御座いますか。人に仇成すとは道徳の欠片も見受けられません。もし出会ったなら私が仇を討たなくては」
丁寧に、だがどこか遠くを見ているその視線は言葉と噛み合わず、心ここに在らずといった印象を受ける。しかし硬く握り締めた拳が意志の強さを物語っていた。
「ハハハ、頼もしいな。アンタみたいな正義感の強い人ばっかりなら安心出来るんだけどな」
「正義……なんだか素敵な響きですね。御伽噺を思い出します」
「ハハ! アンタは白馬の王子様って所か? ニクイねえ。装備修理はしっかりしとくから安心しろ」
「御願い致します」
金槌を担ぎ軽い足取りで去って行く加冶屋とは反対に、彼の視線は下を向きその目には複雑な感情が渦巻いている。長い間同じ場所で立ち尽くし、辺りは夕日の光に包まれていた。
「まだ小さな子供だったのに可哀想ですよね。両親を殺されて、獣ですら寄り付かない寒さの中ずっと一人で」
静かに呟く少女の声に反応し彼はゆっくりと振り向くが、何も返す事は無く俯く。少女も何も言わず、隣で埋葬される死体を見ていた。両者の間に沈黙が流れる。
「あの方々は私とは接点が御座いませんでした。ですが、救える命は、救いたい。私がもっと早くここに辿り着いていれば救えたかもしれないと思うと、自分を攻めずには居られないのです」
死体が埋められた場所を注視する彼の声音は震え、悔やんでいる事は少女に痛い程伝わった。その証に少女は爪が食い込む迄強く拳を固めている。
「もう夜になりますから、また明日来ましょう。今夜は私の家に泊まって下さい」
「感謝致します。ですがもう暫く、ここに居ます」
少女の顔を見もせずに、彼は今にも消え入りそうな小さな声で返事を告げた。小刻みに揺れる背中を見た少女はそれ以上言葉を掛けず、悲しげな面持ちで離れて行く。一方彼の震えは一層激しくなり、最後には掌で口を塞いだ。
周りに人の姿が見えなくなり暫くすると、彼が死体の埋まった場所の上に立ち、飾られた黄色い花を見下ろす。相変わらず肩は震え片手は口元に押し当てられている。そして何を思ったのか、一歩踏み出す。月の様な色の花は、その花弁を無惨に散らした。
【魔術】
不可思議な能力の総称。その範囲は広く、自然を操る物や心を読む物までと多種多様。
魔術の習得に必要な条件は判明していないが、何らかの感情の高ぶりにより覚醒する場合がある。
原始の魔導士、イルマは言う。願いこそが魔術の本領なのだと。




