蜉蝣の名
蜉蝣の名
蜉蝣の寿命が三日程である、ということを知ったのは、僕が生まれてから十時間くらい経った頃だった。生まれてから二日ほど経つと言っていた、仲間のソウタから教えてもらった。
「そう、だからさ、俺の寿命ってあと一日なんだよね。ああ、うん、そうだよね、死ぬんだよね」
何かに縋るようでも、助けを求めるようでも、悲しむわけでも、怒るわけでもなく、ソウタはただゆっくりとそう呟いていた。その身体は、もうすぐしぼむ朝顔のように、淡く儚い色をしていたのを思い出す。
僕らにも、一応「子どもも」の時期はあった。だけれども、僕にはその記憶が一切なく、なんとなく大人になったその瞬間が「生まれた」感じがした。だから、僕は生まれてから一〇時間しか経っていないと言ったし、子どもから大人になった時の感動も何もなかったのだ。
実をいうと、僕らはものを食べることができない。口は持っているけど、自分にはその使い方は分からないから、自分の子どもの素を、卵に植え付けるまで――
死ぬまで僕らは食べ物を口に入れないんだ。でも、それが辛かったりはしない。それは、僕らの住み家に毒をふりまく物好きな奴らが、羽をもっていなくても「当たり前だ」というのにも似ていて、目が三つついていなくても「当たり前だ」というのにも似ている。ただただ、僕らにとってはそれが「当たり前」で、寿命が三日なのも「当たり前」なだけなのだ。
そういえば、ソウタの姿をさっきから見ていない。ええと、さっき喋ったのが何分前だっけ、あれ、それとも何時間前ってくらい前のことだっけ。まあ、よく覚えてないや。いなくなったってことは、つまりそういうことなのだろう。うん。そう思うことにした。
僕ら、卵を持たない蜉蝣は、基本群れで川の近くを飛んでいる。誰に命令されたわけでもなくそうしているんだから、不思議だなと思う。卵を持っている奴とそうでない人の区別なんてつきやしないのに、持ってない奴は持ってない奴同士で集まるんだ。これも、ある意味僕らにとって「当たり前」なのかも知れない。
もしかして、卵を持っている奴らは、誰かから命令でもされているのだろうか。「あいつらとは、群れるな」って。
ゆらゆらと辺りを飛んでいるうちに、辺りが明るくなってきた。理由なんてものは分からないが、とにかく明るくなったあとは暗くなり、暗くなった後は明るくなるということだけは、分かる。
明るくなってから気付いたことは、群れの中の知り合いが半分くらいに減っているということだ。ヒロキもジュンも、トウマも、イチロウも、みんなどこかへ行ってしまった。どこへ行ったのかは分からないけれど、どこかに行ったということだけは分かる。理由なんてわかりっこないから、「そういうもんだ」って思っている。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、知り合いのアキラが、僕に話しかけてきた。
「やあ」
「久しぶりだね」
「それもそうだね。ところでさ、君、生まれてから今どのくらいだい?」
「うーんと、大体一日半くらいかな」
「へえ、じゃあ丁度折り返しくらいか」
「そうだね」
やっぱり、僕以外の仲間も、大人になった瞬間を「生まれた」と思っているんだなと、妙に嬉しくなって、僕は嬉々とした声で受け答えをした。
「ちなみに俺は、次、辺りが暗くなったら丁度三日経つよ」
「へえ、それじゃあ今は大体二日半くらいになるのかな」
「そうなるね」
じゃあアキラも「もうそろそろ」なのかあ。そんな漠然とした、丸くて透明な事実は、僕の心を刺すことも、濁すこともなかった。
そういえば、なんで、いきなりアキラは僕に話しかけてきたんだろう。ふと気になり、それを尋ねてみた。
「そういえば、なんでいきなり話しかけてきたの?」
すると、アキラはふと我に返ったようになり、
「そういえば、なんでだろう。うーん、理由はないけど、話さなきゃって、思ったんだよね」
と言った。彼の大きな三つの眼が、光を反射して眩しく光っている。
「何の用もないのに話しかけたのかい」
僕は笑いながらそう言った。
「そうなるね」
アキラは、僕によく似た引き笑いを繰り返しながら僕にそう言ってきた。
だが次の瞬間、アキラが唐突に笑いを止めた。
僕は驚いたと同時に、強い不安を覚えた。何かあったのか。
「おい、どうしたんだよ、アキラ」
そう彼の耳元で言ってみるが、反応はない。
彼の横顔をちらりと見たが、その顔はもう、表情は宿っていなかった。彼は、光の入らない真っ黒な眼で僕じゃないどこかをぼんやりと見つめているだけだった。
ふと、一匹の蜉蝣が目に留まった。その蜉蝣もまた、何かをぼんやりと、表情のない顔で見つめていた。きっと、その蜉蝣が僕の目に留まったのは、その蜉蝣の見ていた「何か」が、僕の目の前にいるアキラだったからだろう。
そして、その蜉蝣はゆっくり、ふらふらとアキラの方へ近づいていった。
その蜉蝣がアキラの真正面に来た。それと同時に、アキラの長い前脚がゆっくりと、その蜉蝣を捕まえるように伸びていった。その蜉蝣はそれに抵抗もしていなかった。
アキラの前脚が、相手の蜉蝣にしっかりと絡みついた。その瞬間、アキラの口から、
「行こうか」
という言葉が小さく、発せられた。
それとほぼ同時に、絡み合った二匹は、いつものようにふらふらと、どこかへ飛んで行ってしまった。
辺りは暗くなり、僕らは相も変らずにゆらゆらと川の周りを飛んでいた。そして僕も、変らずまだアキラのことを考えていた。
「確かに、あったんだ」
僕は、自分に向かってそう呟いた。
行こうか、と言ったと同時に、それまでアキラの中にあった何か、目の輝きだったり、物を食べないことを「当たり前」と思っていたりした何か、それがすっぽりと抜けてしまったように僕には思えた。ふと僕は、ソウタの身体は朝顔のような色だったのを思い出す。綺麗な色だなと、そう思った。彼が「行った」時の姿は見ていないから、はっきりしたことは言えないけれど、その時のソウタの身体も、あの綺麗な色ではなく、それがすっぽりと抜けてしまった何かになっているような気が、なんとなく、した。ソウタも、アキラのように「行こうか」なんて言ったのだろうか。
僕が、行きつく当てのないことを考えていると、ふと目の前を、ちらちらと光るものが通り過ぎて行った。ゆっくりと目で追うと、その正体がわかった。蛍だ。あああって光って、卵を持っている奴を集めると聞いた記憶がある。
ちらちらと、「どこか」へ行こうと光っている蛍を見ていると、じんわりと、でもしっかりと自分の中に染み込んでいくものがあった。
「生きている」という実感だ。
僕は、全ての物事に理由なんてないと思っていた。「生きる」のにも、「死ぬ」のにも理由なんてないと思っていた。だが、目の前で「死」に向かって輝いている蛍を見ていると、僕等の寿命が三日なのにも、「子ども」だった時期を覚えていないのにも、物を食べないのにも、毒をふりまく奴らに羽が生えていないのにも、僕等が群れているのにも、明るくなった後には暗くなるのにも、その後また暗くなるのにも、皆がいつかどこかに行ってしまうのにも、アキラが「行こうか」と言ったのにも、全部、なにか、強い、逆らうことのできない真っ黒な「理由」があることを、今、この身で強く実感したのだ。
ふと、自分の身体を見た。食べ物を口にしないからか、前よりも身体が細くなっているような気がする。細く、細く、細く、弱く、脆く、儚く、淡い。そんな僕の身体は、あと少しで多分動かないものとなる。「どこか」に行って動かなくなる。そんな僕を覚えている仲間なんて、多分、誰一人としていないのだろう。でも、それでいい。真っ黒な「理由」が、そうしているだけなんだから。
「やっぱり、そうなんだよな」
妙に納得して、僕は誰かに確認するようにそう呟いた。誰に呟いたのだろう。
考えても、分からなかった。
そして時間は過ぎていき、辺りは明るくなり、そして暗くなった。三日目だ。
もう、群れの中で僕の知り合いは最初の五分の一ほどになった。今から、僕もこの群れから抜ける。そう思うのは、やっぱり、「そういうこと」な気がするからだ。
僕はふと、近くにいたハルトに話しかけてみたくなり、声をかけた。
「やあハルト、調子はどうだい」
「んー、まあまあってとこかな」
そう言ったハルトの顔つきはがっしりとしていて、まだ寿命があることを言葉なしにも僕に伝えた。
「そういえば君、一体いくつなんだい」
そう聞かれ、「今日で丁度三日目だよ」と言うと、彼は驚いた顔で、
「へえ! じゃあもうそろそろなんだね」
と、僕に、悲しむそぶりも見せず言ってきた。
「まあそうなるね」
僕も、何の感傷もなくそう応えた。
「凄いなあ……あ、そういえば君の名前ってなんていうんだっけ」
彼はそうやって、首をかしげた。
「ああ、僕の名前? ええとね」
僕が言いかけた時、僕の頭に突如電流のようなものが流れた。その電流は、僕の頭を遠くに居る一匹の蜉蝣の方へ向けた。
その蜉蝣は、ゆらりゆらりと僕に近づいてくる。近くで、その蜉蝣を見ると、僕より少し太く、大きいことがわかる。そうか、これがそうなのかと僕は思った。
昔、誰かがやったように、僕は目の前の蜉蝣に前脚を絡ませた。
――そうだよね、死ぬんだよね――
そうだ。死んでしまう。そんなことは分かり切っているんだ。
僕はどこかで聞いたことのあるような台詞を、目の前の蜉蝣に呟いた。いや、これは自分に向けて言ったのかもしれない。
「行こうか」
群れから抜け、僕らは川からほんの少し顔を出している小石に降り立った。これが「どこか」の正体か、なんて、僕は呑気なことを考えていた。
「どうして私で、なんであなたなんだろうね」
僕の目の前の蜉蝣がそういった。
「そうじゃないと、駄目だったんだよ」
「そういうものかなあ」
「そういうものだよ」
僕らは最期ということも忘れ、自分の短い過去について語り合った。本当に、楽しかった。
そして、電流は僕らの話が終わるのを見計らうようにやってきた。
痛いくらいの電流だ。僕は動かなければならない。あのほたるのように輝かなければならない。
僕はその電流に従うように、目の前の蜉蝣と交尾をした。それはまるで、僕の中にあったすべての力が、目の前の蜉蝣の腹からしっぽ、口の中にまでぎっしりと詰まった卵たちに移動したようだった。
交尾を終えると、目の前の蜉蝣は僕の前脚を振りほどき、石に次々と腹の中の卵を吐き出していった。
「ふう……終わった」
卵を吐き出し終えた彼女は、僕にそう言ってきた。その顔にはうっすらと笑顔が浮かんでいた。
「うん、終わったね」
なんて言いながら、僕は石からまた飛び立った。
「ねえ……僕たち、さっき、生きていたよね」
僕は彼女にそう言った。
「何言ってんの。前もさっきも、ずっと、私達生きていたじゃないの。今もよ」
彼女は笑いながらそう言ってきた。
「ああ、うん。そうだよね」
「何変なこと言ってるの。ああ、私、ちょっと疲れちゃった。ここで少し寝てからそっちへ行くね」
彼女はそう言って石の上で寝てしまった。卵を吐き出したその身体は、僕よりも小さいものになってしまっていた。
あ。僕は心の中でこう思った。やっぱりそうなんだな、「そういうこと」なんだな。やっぱり、真っ黒な「理由」は、僕らを逃さないんだなと。
僕はふと、その真っ黒な「理由」に逆らってみたくなった。僕は、ここにいるたった一匹の蜉蝣は君の言う事なんて聞かないよ。心の中でそう呟いた。
すると、どうだ。僕の身体は嘘のように軽くなった。この身体ならどこまでも飛んで行ける、そう感じたほどだ。僕はそんな気分に勢いを任せて、上に飛び上がった。
どこまでも飛べた。力が際限なく身体から溢れだし、自分を中から勇気づけてくれた。これなら真っ黒な「理由」からも逃げられるんじゃないかって、そう思えたりもした。
だが、その力は長くはもたなかった。さっきまで動いていた翅はぴくりとも動かず、ただ、風に吹かれながらゆっくりと落ちていっているのが自分でも分かった。だが不思議と、悲しくなんてなかった。むしろ、心は前よりも晴れやかになっていた。
僕は「生きた」のだ。さっきの一瞬、僕は世界の誰よりも生きていたのだ。その考えが、僕を心から輝かせた。
ふと、腐った葉が溜まった場所に、二匹の蜉蝣が死んでいるのが目に留まった。
片方はすぐに分かった。ソウタだ。もう片方はその相手の蜉蝣だろうか。
ソウタの身体は、この前見たときと同じ色をしていた。そして、僕の身体にそっくりだった。細く、細く、細く、弱く、脆く、儚い。そて、朝顔のような色をしていた。
なんだ、綺麗じゃないか。僕は妙に安心した。あ、そういえば、ついでに近くにアキラとかいないかな。もしいるなら見てみ
ぽちゃん。




