02
いつもなら教室のドアを開けるとざわめきが一瞬静まり返った後、何も見なかったかのように視線を逸らされ、何事もなかったかのようにまたざわめきが戻ってくるのが常だった。
そしてそのざわめきから取り残されるのもいつものことだった。
今朝も教室のドアを開けるといつも通りざわめきが一瞬静まり返る。
どうせまた無視されるんだ。そう思って俯いたまま自分の席へ向かおうとすると明るい声が聞こえた。
「まきむー、おはよう!」
はっと顔を上げると山口達女子連中が笑いかけてくる。
「おはよう」
ぎこちない笑顔で返すと山口が満足げに笑う。偽善者の笑顔だ。直感でそう思う。
そうか、昨日のランチタイムでみんなが私に優しかったのも、今日笑顔で挨拶してきたのも山田のいう「やましいこと」に思い切り心当たりがあるからなんだ。
そう思うと、山口達女子連中全員が笑顔の仮面をかぶった化け物のように思えて気持ちが悪くなる。
「まきむー、どうしたの?顔色悪いよ?」
「具合悪いんだったら保健室行こうよ。私ついてくよ」
「大丈夫?」
口々に化け物たちが私を取り巻いて何か言っている。それを振り切って私は教室を飛び出し保健室へと走った。
養護教諭の寒河江先生に具合が悪いので横になりたいと伝えるとベッドを用意してくれた。
「熱はないわね。でも顔色が悪いわ。一時間休んで良くならないようなら早退したほうがいいかもしれないわね。無理そうだったら早めに言ってね。あなた、山田先生のクラスでしょう?山田先生には私から伝えておくから」
そういうとベッドを囲むカーテンをそっと閉める。
寒河江先生の言葉に甘えてうとうとしていると気持ち悪さが徐々に薄れていく。
「槇村さん、具合どう?」
一時間経ったのか、寒河江先生がカーテン越しに声をかけてきた。
「だいぶいいです」
「カーテン、開けても大丈夫?」
「はい」
声をかけてからカーテンをあけるあたり、この先生は気遣いが濃やかで好感が持てる。
「さっきよりは顔色もいいみたいだけど...どうする?無理はしなくていいのよ」
優しい言葉に気持ちが揺れる。
「早退しましょ。あまり具合良くないみたいだし。無理は良くないわ」
揺れる気持ちを後押しされて私はつい頷いてしまった。
「あなたの鞄、山田先生が持ってきてくれているから教室には戻らなくて大丈夫よ」
そうか、寒河江先生は知っているんだ。
「何かあったら遠慮しないでここに来ていいのよ」
この先生の笑顔は嘘じゃない。そう思えた。
「ありがとうございます」
言うと何故か目頭が熱くなってきた。
先生は私をベッドに座らせると自分も隣に座る。そしてそっと優しく頭を撫でてくれた。
ぽろぽろと涙が零れる。こんな優しい時間を、私は今まで知らなかった。
私が泣き止むのを待って寒河江先生が立ち上がった。
「さ、帰ろうか。一人で帰れる?家の人に来てもらう?」
「一人で帰れます」
思わず口調が頑なになる。先生はそれだけで何かを察したようだった。
「明日からも、具合が悪かったらすぐ保健室においでなさいね」
先生は私の母親と同年輩だろうか。確か独身だったはずだ。それなのに、よっぽど寒河江先生のほうが母性を感じさせる。
「ありがとうございます」
再度言ってお辞儀をして保健室を出る。
さて、どうしようか。このまままっすぐ帰ればあまりにも早い時間の帰宅に母親が不審に思うのは間違いない。
どんな理由を言ったとしても癇性な母親がそれを聞いてくれるとは思えない。
そうだ、小学生の頃よく遊びに行った川辺へ行こう。そう思い立って家とは違う方向へ足を向けるといつになく気持ちが軽くなる。
いつも重く感じるスニーカーさえ軽くなったようだった。軽々とした気持ちで川辺への道を急ぐ。
住宅街から外れて、町を囲む林の中の山道に入りしばらく歩くと子どもが遊ぶのに程よい浅い川がある。
小学生のころはよくこの川辺で水遊びをしたりしたものだ。
こんな時間にこの場所には誰もいないはずだった。しかし思いがけず先客がいた。
同年輩くらいのはずだがまったく見覚えのない女の子だった。
狭い町内で小学校から中学校まで持ち上がりなので、基本的には全員が幼い頃から見知った顔ばかりのはずのこの町に、こんな女の子がいただろうか。
白い膝丈のワンピースを着て裸足で浅瀬を歩いている彼女には、未だかつて見たことのない洗練された何かがあった。
「こんにちは」
私を見て鈴を振るような可愛らしい声で言う。
「...こんにちは」
気おくれしながらなんとか答える。
「あなたも川に入らない?気持ちいいよ」
頷いて靴と靴下を脱ぐと恐る恐る浅瀬に足を踏み入れる。早春の冷たい水が足を洗う。
「ひゃっ」
思いがけない冷たさに思わず変な声が出る。彼女はくすくす笑いながら私の手を取って歩き始める。
「あなた、学校は?」
思い切って話しかけてみる。
「行ってないの」
「どうして?」
「内緒」
くすくす笑いながら彼女が答える。
「そういうあなたは?」
「...早退したの」
「そっか」
しばらく黙って手を繋いだまま浅瀬を歩く。そうしていると冷たい水の中を歩いているのに気持ちは温かくなってくるのを感じる。
どれくらいそうしていただろう。いつの間にかもう昼を過ぎていた。母親から持たされた弁当をそのまま持って帰るわけにはいかない。
「私、お弁当食べるけど、あなたどうするの?」
彼女はきょとんとした顔で私を見ている。
「何も考えてなかった」
「じゃ、半分こしようか」
「ありがとう」
川原に上がり腰をかけ、お弁当を広げる。体裁を気にする母親のお弁当は普段の態度のそっけなさとは違い手が込んでいる。
「美味しそう」
無邪気に笑う彼女と一緒に食べるお弁当はいつもと違い本当に美味しかった。
「ごちそうさまでした」
同時に言って顔を見合わせると思わず笑いがこみ上げる。
ああ、笑うって楽しいことなんだ。そんなこと忘れていた。
彼女が立ち上がって言う。
「そろそろ帰らなきゃ」
その言葉に胸が冷える。そっか、この楽しい時間はもう終わりなんだ。
「また会える?」
願いを込めて問う。
彼女は笑いながら頷くとさっと走り去っていった。
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