01
まただ。ぎゅっと唇を噛みしめる。自分の机の上に散らばったごみを左右に払いのけ席に座る。もうこんなことにリアクションを示す気力なんかない。周囲からくすくすと笑う声が聞こえる。
いっそ構わないでくれたらいいのに。そんなつぶやきが漏れそうになる。
授業が始まるので鞄から教科書やノート、筆記具を取り出し机に置き開いてみるが、教師の声は右から左へ通り抜けていく。どうせノートを取ったって破られて捨てられるんだから。
ぼんやりと見上げた窓の向こうは眩しいほどの晴天だ。何故私はこんなところにいるんだろう。不毛な問いが脳裏に浮かぶ。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「槇村、ちょっと職員室来い」
思いがけず名前を呼ばれ意識が外から戻ってくる。また周囲からくすくすと笑う声が聞こえる。
面倒くさいな。そう思いつつも仕方がないので職員室へと向かう。担任は山田という50歳前後の恰幅のいい男性教師で、いかにも人のよさそうな顔をしている。
「槇村、お前授業中何してんだ」
何もしていませんでした。そう答えることもできずただ黙って俯く。
「お前、いつも授業中上の空だよな。何か悩み事でもあるのか」
クラス中からゴミ扱いされています。また答えることが出来ずにただ唇を噛む。
担任はしばらく黙ったあと何を了解したのか頷き、「かえっていいぞ」と解放してくれた。
会釈をして職員室を出てのろのろと教室に戻る。小学校までは親友を自称していたクラスメートの山口が嘲るような視線を向けにやにやと私を見る。机の上には花瓶が飾られていた。
払いのけてガラスの砕ける音を聞いてみたい。そんな衝動に駆られるが、それをすれば後片付けをしなければならず、それもまた嘲笑に晒される中やらなければならない。
出来るだけ無表情を装い花瓶を元々置いてあった場所に戻すとクラスメートが明らかにつまらなそうな顔をするのがわかった。少しだけ溜飲が下がる。
鞄を持ち教室を出るが気分は晴れない。重い気持ちのまま帰宅する。
「ただいま」
玄関のドアを開けて声をかける。
「おかえり」
母親のおざなりな返事が聞こえる。顔を合わせないまま自分の部屋へ入る。
鞄をベッドに投げ出し、そのままベッドに腰掛けるとため息が出た。制服から私服に着替えても気持ちは暗いままだ。
一緒に遊ぶ友達のいない放課後は何もすることがない。そんな環境は私をいつの間にか本の虫にしていた。
今日は何を読もうか。ミヒャエル・エンデのはてしない物語がいい。バスチアンの冒険に胸を躍らせながらファンタージエンの世界に自分もいるような気持ちに浸る。
「ごはんよ」
母親の呼ぶ声が私をファンタージエンの世界から疎ましい現実の世界へと引き戻した。
母と兄と私と弟。特に会話のない食卓にテレビの音声が虚しく聞こえている。父親はまだ帰宅していない。今夜も遅いのだろう。
味のしない食事をなんとか飲み込み食事を終える。
「ごちそうさま」
そう言って自分の食器を下げるが誰もその声には応えない。無関心な母と兄。弟はそんな二人の様子を見ながらどう反応していいのか戸惑っているのがわかる。
私はそのまま自室へ戻りまたファンタージエンの世界に浸る。このまま時間が止まればいいのに。
そう思っても夜が来れば寝るようにと母親に急かされる。
いつも通りベッドに横になり目を閉じると、起きていようと思ってもいつの間にか眠ってしまう。しかしその眠りは度々破られることがあった。
始めはいつのことだったのか覚えていない。多分小学校の高学年の頃からだと思う。睡眠が邪魔されないことを願いつつ今夜もベッドに入る。
徐々に訪れた眠気は私を夢のない眠りに落とし込んでいった。
目覚まし時計がやかましく朝を告げる。叩くように止めるとベッドの縁に腰をかけて毎朝同じ問いを繰り返す。
学校ってどうしても行かなきゃダメなのかな。
ベッドの縁に腰掛けて俯いたまま足の親指を見つめて問い続ける。もちろん誰も答えてはくれない。
「穂乃果!いつまで寝てるの!」
母親の癇性な声が聞こえる。ぐずぐずしている暇はないようだ。
「おはよう」
部屋を出て母親に言うが彼女は答えずに早く朝食を食べるように促す。
「いただきます」
やはり答える声はない。
もそもそと口に押し込むように食べる。味なんかどうでもいい。朝食という儀式を済ませるだけだ。
「ごちそうさま」
そそくさと儀式を済ませると部屋に戻り制服に着替える。着替えが終わると一段と気持ちが重くなる。
「早くしないと遅刻するわよ」
今朝の彼女はかなり機嫌が悪いようだ。きっと父の帰りがよほど遅かったのだろう。
通学鞄を持ち玄関で靴を履く。普通のスニーカーなのに、すごく重く感じる。
「行ってきます」
呟いて玄関を閉める。送り出す言葉は当然のごとくなかった。
学校までの道のりは徒歩で数分、どんなにゆっくりと歩いてもすぐに着いてしまう。
またあの牢獄のような教室で延々と終わらない時間を過ごすのか。暗澹とした気持ちが足取りを重くするが、着実に私は牢獄へと近づいていく。
このままさぼろうか。でもどこへ行く。制服を着て街中を歩いていれば不審に思われる。補導されるかもしれない。そんなことになれば当然親へも連絡が行く。
それくらいなら、まだあの牢獄の中でぼんやりと過ごしたほうがマシというものだ。
牢獄へと近づく数分の間、何度も同じ問いを自分に投げ、同じ答えを導き出す。そして私は牢獄の入り口へと着いてしまう。
教室の扉を開けるとクラスメートの視線が一斉に私に集まり、すぐにそらされた。そしてまたくすくすと笑う声が聞こえる。
自分の席に着こうとして気付く。そもそも自分の着くべき机と椅子がない。それは教室の片隅に押しやられていた。
思わずため息が漏れる。机と椅子を戻そうと教室の片隅へ向かおうとした途端、何かに足が引っかかり私は思い切り転倒してしまった。
教室に爆笑が巻き起こる。膝を強打した私はしばらくそのまま動けずにいた。どうやら誰かに足をひっかけられたようだ。なんとか立ち上がると膝に血が滲んでいた。
のろのろと机を椅子をあるべき位置に戻して鞄を置くと、私はそのまま保健室へ行った。
膝の怪我を見て養護教諭に理由を問われたが説明するのも面倒だったので転んだと端的な事実だけを言う。
訝しげな顔をしたまま、それでも丁寧に傷を消毒し絆創膏を貼ってくれた先生に礼を言って教室へと戻る。
くすくす笑いに迎えられながら自席に着くと間もなく担任教師の山田が入ってきて朝のホームルームが始まった。
いつも温厚で笑顔のはずの山田が今朝は若干険しい顔をしているのを見てクラスの雰囲気がさっと変わるのがわかる。
「お前ら、何かやましいことはないか」
山田が話し始める。
「意地悪な人間はな、それが顔に出るんだ。俺からは細かいことは言わないがな、思い当たるやつは胸に手をあててよーく考えてみろ」
教室はしんと静まり返っている。山田は教室を見渡すと引続き連絡事項の伝達を始めた。張りつめていた空気が緩むのがわかる。
ホームルームを終え山田が教室を出ていくとあちこちでひそひそと話す声が聞こえてきた。そうするうちに一限目の授業の開始を告げるベルが鳴り、それと同時に数学の担当の瀬川が入ってきた。
横から見ると三日月に見えるくらいあごがしゃくれている為、あだ名はわかりやすく「あご」だ。
あごの退屈な授業をまた右から左へと聞き流し窓の外を眺める。今日は雲が低く垂れこめた暗い曇天だ。
二限目、三限目、四限目と教師が変わるだけで退屈なのは変わらない。そしてさらに憂鬱なランチタイムがやってくる。
仲の良いもの同士が机を寄せてお弁当を一緒に食べるこの時間、当然私に声をかける人間なんていないはずだった。少なくとも昨日まではそうだった。
「まきむー、一緒に食べよ」
懐かしいあだ名で呼ばれ反応に困る私に元自称親友の山口が笑いかけていた。なんだこれ。
山口のほかにも数人が私を囲い一緒にお弁当を食べようと言ってくる。返事が出来ないでいるといつの間にか山口達は私の机に自分たちの机をくっつけて弁当を広げだした。
「ほら、まきむー、食べようよ」
引き攣った笑いらしき表情をなんとか取り繕い私はお弁当を広げる。こんなふうに誰かとランチタイムを過ごすのはいつ以来だ。
昨日のテレビ番組のこと、流行りのアーティストのことなど他愛ない話できゃっきゃと騒ぎながら私を取り囲んでいるこの人達はいったいどういうつもりなのだろう。
わけのわからない気持ち悪さに戸惑う。お弁当も味がわからない。
味のしないお弁当をなんとか食べ終わっても、山口達は私を解放してくれなかった。
どうでもいい話題をふって寄越されるがどう反応していいのかわからず曖昧な笑いをなんとか返す。そんな昼休みは苦痛でしかなかった。
なんとか昼休みと午後の授業を終え帰ろうとするとまたしても山口が声をかけてくる。
「まきむー、一緒に帰ろうよ」
気持ち悪い。山口の笑顔の裏にあるものが怖い。
「ごめん、用事あるから」
なんとか振り切って学校を出る。いつものろのろと歩く帰り道を今日は駆け足で急ぐ。
別に家に帰りたいわけじゃない。しかし山口に追いつかれるのが嫌だった。鞄の中でペンケースが音を立てる。その音に急き立てられるように家へと急ぐ。
「ただいま」
玄関のドアを開き呟くように言う。母親は振り返りもせずリビングでテレビを見ている。
いつも通りおざなりのおかえりを言うとすぐに関心はテレビへと戻ったようだ。
自室に入り制服から私服に着替えるとすぐに本を手に取ったが、ランチタイムの気持ち悪い感覚が拭えず物語の世界へと入り込めない。
本を本棚に戻すとベッドに仰向けになり天井を見上げる。
「学校行きたくないな」
ぽつりと呟くと急に吐き気がこみ上げてきた。横向きに体勢を変え赤ん坊のように丸くなり呼吸を整えるとなんとか吐き気が収まる。
母親に夕食に呼ばれるまで、私はずっとその体勢のままじっとしていた。
拙作をお読み下さりありがとうございます。
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