リコリスの恋人~28~
絨毯の上を歩く足音。
カサカサと紙の揺れる音。
ペンが紙の上を走る。
「これ、頼まれてた資料です」
パサリと書類を置く音が聞こえる。
止まる足音。
「ご苦労」
低くよく響く声。
メリボーン大佐の声だった。
カリカリ、書類にペンを走らせる音だけが響く。
数分間、誰も何も話さない。
少しして、口を開いたのはメリボーン大佐のほうだった。
「そこで、何をしているのかね?」
早く出ていけ、と言わんばかりの口調である。
「……いえ、よろしいのですか?」
躊躇いがちに言う男の声。
これは……誰の声だ?
聞き覚えがある。
それなのに、誰なのかよく分からないーー。
「何がだね?」
カリカリーー。
きっとメリボーン大佐は書類から目も上げていないだろう。
「ミヒャエルに何も告げずによろしいのですか?」
自分の名前が出てきて、一瞬ドキリとする。
ピタリとペンの音も止まる。
しかし、すぐにそれは再開した。
「……」
ペンの音だけが聞こえる。
「……知らせたほうがいいとでも?」
しばらくして、深い溜め息と共にメリボーン大佐は言った。
「知らないほうが彼にとっても、我々にとっても良いと思ったがね」
一体、何の話をしているのか……。
「今回の婚約が偽装だとしれば、ミヒャエルは何て言うでしょうね」
背筋が凍るような冷たい声だった。
自分に向けられているわけではないのに、冷や汗が流れた。
いや、待て。
今、何て言った?
婚約が偽装ーー?
誰の?
「怒っているのかね? 珍しいこともあるものだ。君は興味がないと思っていたよ」
ペンの音が止まる。
即座に声が反論した。
「別にそういうわけじゃありません。でも」
「これは、決定事項だ。余計な情で、仕事に支障をだされても困る。オーデンスには知らせるな。オッフェンバーグとヴィレイユの婚約が偽装だとな」
どういうことだ!?
偽装? 一体何のためにーー?
「あの魔女の化けの皮を剥ぐ。その為の手段など選んでいられるか!」
ドン!っと机を叩く音がした。
珍しいこともあるものだ。
メリボーン大佐が声を、あらあげるなんて。
……。
ロゼとヴィレイユ中佐の婚約は偽装だった。
きっと、皆知ってて俺に隠してた。
俺が、ロゼと付き合っていたのを知ってたから。
いざという時に彼女を殺せないと困るからか……?
軍は何としてでも、ロゼを魔女にしたいのだろう。
実際に彼女が魔女かどうか、それはどうでもいいに違いない。
ああ、そうかーー。
それが、俺には分かるから、彼女を逃がすとでも思ったのだろう。
ロゼを愛しているから。
「……全く」
頭を抱えてしまうな、本当に。
「知りたくなかった?」
顔を上げれば、マリーが俺の顔を覗きこむようにして見ていた。
心配そうなその表情。
「いや、知れてよかったよ。マリー。ありがとう」
水晶玉をマリーに渡して、扉を振り返る。
そのまま、部屋を出ようとすると、マリーが呼び止める。
「どうするの? あの女逃がすの?」
感情の読み取れない声だった。
返答次第では、マリーは俺を裏切り者として殺すかもしれない。
「……いや。彼女が、ロゼが本当に魔女か、明日確かめる」
首だけ回して、マリオメットを見ると彼は無表情に俺を見ていた。
彼の目から逃れるように、再び前を向いて扉を開ける。
「……事はそれからでも遅くはないよ」
明日、きっと全てが決まる。
ロゼの今後も、俺の今後も。全て。