リコリスの恋人~25~
「ロゼ……」
まさか、今ここで君と会うなんてーー。
俺は酷く動揺していた。
どうする?
彼女を捕らえたほうがいいのか?
しかし、まだ確証はない。
ならば、彼女の正体を確かめるべきか?
「ミヒャエル様。私は……、いえ、私は貴方を心の底から愛しております」
彼女は、真っ直ぐにこちらを見てはっきりとそう言った。
その言葉に、心を揺さぶられる。
彼女をまだ、愛している自分がいる。
ここは住宅街だ。
人通りは少ない。
もしも、彼女が傘の魔女なら、俺は殺されてもおかしくない。
今までの犠牲者達のように。
もっと、警戒してしかるべきなのにーー。
「さよならくらい、言わせてください」
曇りのない瞳。
嘘を言っているようには、到底見えなかった。
真っ直ぐに凛とした表情。
俺の心の中まで見透かされているような気分になる。
堪らず目を逸らしてしまう。
「ミヒャエル、私は……私、初めてこんなに人のこと好きになったの。貴方と出会えて初めてこんなにも、人を愛しいと思えた」
彼女はこちらを見ていた。
胸元を手でおさえて、訴えかけるように言う彼女。
……やめてくれ。
「全部、貴方が私に教えてくれた」
頼むから。
……やめてくれ。
「私、貴方のことをまだあーー」
「やめてくれ!」
彼女の言葉を遮るように、そう叫んだ。
自分の声が、夜の住宅街に響く。
俺は、彼女の顔が見れず地面ばかり見ていた。
顔を上げられずにいたーー。
「俺は、君が思ってるような人間じゃない」
心が冷えていくような気がした。
彼女の言葉は本当なのだろうか?
演技はないだろうか?
そんなことを考えている自分に嫌気がさす。
愛している人を疑わなくてはいけない自分に嫌気がさす。
本当はまだ彼女を愛している。
彼女と別れたくない。
彼女の幸せを願って別れた。
そんなのは詭弁にすぎない。
自分は醜い人間だ。
彼女をこの手で幸せにしたかったのは、本当。
でも、それが出来ないと思ったのも本当。
彼女の幸せを願っているのも本当。
でも、何よりも俺は怖かった。
幸せになる自分が怖かった。
「俺がどうして、准尉まで昇進出来たか、分かりますか?」
俺は勇気を振り絞り、彼女の顔を見つめた。
彼女は、突然の質問に驚いてるようだった。
「それは、貴方がゆーー」
「優秀だからではありません」
セオリア軍は確かに実力主義だが、だからといって平民がそうほいほい出世できるようには出来ていない。
たとえそれが准尉という低い身分であったとしてもだ。
「俺が人殺しだからです」
そう告げると、彼女は目を見開き一瞬固まる。
その後ゆるゆると首を振り、俺の言葉を否定した。
「嘘でしょう?」
「いいえ、嘘ではありません」
忘れていた。
思い出さないようにしていた。
でも、それは間違いだ。
忘れるなんて、許されるわけがない。
「俺は貴方と出会う前、戦場の最前線で戦っていました。……命令だから、ただそれだけの理由で大勢の命を奪ってきた」
そんな俺が今さら、全て忘れて幸せになろうだなんて、虫がよすぎる。
「……でも、それは他の方も同じでは? 軍人ですもの、仕方のないことでしょう?」
彼女の言葉に俺は首を振る。
「俺が行ったのは単なる虐殺です」
風が吹いて、彼女の髪を揺らす。
今日は本当に静かな夜だ。
酔っ払い笑い声すら聞こえない。
「……俺は出世する為に、女子供関わらず殺しました。それが命令であったから。……でも、それだけではありません。殺すことが一番出世の近道だったから、俺は進んで虐殺を行いました」
自分の手のひらを見た。
そして、自分の足元を見る。
かつて、この手もこの足も全て血にまみれていた。
「俺は自分の為に、人を殺す。そういう醜い人間なんです。貴女はこんな俺といちゃいけない。……いえ、俺がいてほしくないんです」
思い出したのは、つい最近だ。
過去に俺が味わった理不尽。
それと、同じことを俺は他人に与えた。
なのに、そんな俺が幸せになろうだなんて、おこがましい。
だから、彼女を振った。
俺は、本当に身勝手だ。
「……理由が聞けて良かったです。貴方のことは忘れます。そうするように努力致します」
彼女はポツリとそう言った。
その表情は、言葉とは正反対で悔しそうであり、悲しそうであり、寂しそうであった。
とても、良かったと思ってる人の表情ではない。
「貴方と元の関係に戻れるとは、期待していませんでした。……ですから、婚約も正式にお受けしました」
夜の闇をいっそう暗く感じた。
俺の気持ちがそう感じさせているのだろうか?
「……ロゼ。どうしてあの日、リコリスの髪飾りをつけてきたんですか?」
俺の質問に彼女は一瞬キョトンとした顔をした。
いつのことか、分からなかったのだろう。
俺が言っているのは、あの仮面舞踏会の日のことだった。
彼女は不吉な呼び名をもつ、リコリスの花をつけてきた。
それは何故か?
彼女は知っていたのではないか?
あの日、人が死ぬことを。
彼女自身がその犯人だからーー。
今を逃せば聞くタイミングはもうなくなる。
だから、聞くなら今しかない。
そう思っての質問だった。
「ああ、仮面舞踏会の時のことですね」
何のことか分かったという様子で、彼女は言った。
その後、一瞬寂しそうな表情をする。
一体、その顔に何の意味があるのか?
けれど、すぐにその表情を打ち消し、彼女は微笑んだ。
「……リコリスの名前の由来をご存知ですか?」
「……由来ですか?」
残念ながら、花の名前の由来は知らない。
俺は首を横に振った。
「……そうですか」
すると、また彼女は寂しそうな表情をするのだった。
リコリスに何かあるのか?
由来?
「リコリスの花言葉は情熱です。赤いドレスとよく似合っていたでしょう? つけていた理由はそれだけですわ」
彼女は笑ってそう言う。
それだけ?
本当にそれだけ?
彼女の答えに疑問を感じるも、それ以上は追求できなかった。
彼女が、泣いていたからーー。
驚いた。
そっと頬に触れ、涙を拭う。
濡れた瞳はじっと俺を見ていた。
彼女の頬は温かかった。
「私、何度も自分の生まれを呪ったわ。他人がしていることを、自分も同じように出来なかった時。規則に縛られてる時。好きなことを好きなように出来ない時」
彼女は震える声で俺に言った。
大きな瞳からは何度も大粒の涙が溢れ落ちる。
「でも、今ほど呪ったことはないわ。私、好きな人と添い遂げることも出来ないなんてーー」
そう言うと、彼女は俺の手を払い、一歩後ずさる。
「……さよなら、ミヒャエル」
その瞳から、涙が溢れる。
このまま、彼女は去っていくだろう。
このまま行かせていいのだろうか?
そんな疑問を抱きつつも、俺の足は動かない。
俺の声は彼女を止めなかった。
「……私の愛した人」
そう言うと、彼女は踵を返して走り出した。
俺はその後ろ姿を見つめていた。
追いかけなかった。
追いかけれなかった。
彼女の様子はいつもと少し違っていた。
あれが、本当の彼女だったのだろうか?
俺は、彼女の何を知っていたのだろうか?
ああ、俺は結局。
「……何してるんだ、俺は」
チャンスを大いに棒に振ってしまったわけだ。
それでもーー。
追いかけられはしないだろう。
あの手を掴み、お前は魔女なのか? なんて問えやしない。
そこまで、俺は無情にはなれない。
人は殺せるくせに、一人の女に嫌われるのが怖いなんて本当にーー。
「……最低だな」