リコリスの恋人~10~
突然触れた唇はゆっくりと離れていった。
そのまま放心していると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「舞踏会を抜け出して、こんなところに男女が二人。することは一つでしょう?」
その言葉に動揺する自分に彼女は耳元で囁く。
「疑われてしまいますわよ?」
その言葉にハッとする。
彼女の目を見ると、エメラルドグリーンの瞳が光っていた。
「こんばんは、ミヒェエル様。お仕事の邪魔をしてしまってご免なさい」
ロゼはそう言っていつもの笑みを見せる。
その表情に少し、ほっとした。
「いえ」
貴族でもない自分がこのような場にいる理由は一つ。彼女はそれを察してくれたのだろう。
彼女なりに俺が周囲から不審に思われないよう、配慮してくれたのだ。
「気を使わせてしまってすみません。ロゼはどうしてーー」
ここに? と聞きかけて、止める。
彼女は貴族だ。舞踏会に参加するのは、当たり前のことだろう。
「私の父がレイノン伯とは懇意にしていたのですわ。その付き合いもあり、彼が主催する舞踏会によく参加致しますの」
途中で止めた言葉の先を、ロゼは察して説明してくれる。
ロゼはとても聡い女性だ。
彼女の聡明さに助けられることもしばしばだ。
「そうでしたか」
バルコニーの扉は硝子張りで、その向こうに先程の広間がある。
そこでは男女が音楽に合わせて踊り、ワイングラス片手に談笑している。
ここからは、ソート准尉の姿もガーゼルの姿も見えなかった。
「ロゼ……。これは自分の勝手なお願いなんですが」
自分でも歯切れの悪さを感じながら、言葉を紡ぐ。
「何ですの?」
彼女は純真無垢な子供のように、首を傾げて自分の言葉を待っている。
扉から漏れ聞こえるオーケストラの演奏。
「……今すぐ家に帰って頂けないでしょうか?」
そう切り出すとロゼは一瞬驚いた顔をして、その後何を言われているのか分からない、といった顔をした。
俺は真っ直ぐに彼女を見ていた。
銀色の仮面は満月に照らされて、時々光を反射していた。
「お仕事の邪魔になる……ということでしょうか?」
彼女は少し思案するようにしてから、そう言った。
「いえ、そうではないんです。ただ……」
慌ててロゼの言葉を否定する。
そうではない。
彼女の存在が仕事の邪魔になるとは一ミリも思わない。
ただーー。
ここは、連続殺人犯がいるかもしれない場所だ。
そんな場所に彼女をいさせたくはない。
もし、ここに犯人がいたとしたらーー。
もし、犯人が彼女に目を付けたらーー。
次の犠牲者はロゼになるかもしれないのだ。
だから、帰ってほしい。
出来れば、犯人がいないと確信出来るまで、もしくは犯人が捕まるまで、この仮面舞踏会には参加もしてほしくない。
けれど、それを彼女に伝えるわけにもいかない。
彼女を疑うわけではないが、どこから情報が漏れるかも分からない。
ましてや、本当にここに犯人がいるとも限らない。
それにこれは、仕事のことだ。自分には守秘義務がある。
ぐるぐると、頭の中で思考が回る。
俺が言葉を迷っていると、彼女はその様子を見てふっと笑った。
そうして俺の手を取る。
「話せないことでしたら、無理には聞きませんわ」
ロゼはそう言って笑顔を見せる。
きゅっと握られた手は彼女の胸の前で握りしめられる。
「私、本日はおいとまさせて頂きますわ。また今度、私の屋敷に来てくださいな」
そう言って手を放す。
明るく振る舞ったロゼ。
無理をさせてるのではないか?
そんな疑問が頭を過る。
「……あ」
次に自分が言葉を発しようとしたその時。
「そうですわ。最後に一つ、噂話を」
彼女は胸の前で手を合わせる。
「噂話……?」
鸚鵡返しに聞き返すと、彼女は微笑む。
「ええ。レイノン伯のお話ですわ」
遠くの方で、ミミズクの鳴く声がした。
「彼は吸血鬼だ、何て噂があるのですわ。仮面舞踏会を開くのは、若い女性を拐ってその生き血を啜る為だとか」
そう語るロゼの唇は、真っ赤なルージュが光っていた。
風が吹いて、体温を奪う。
寒く感じたのは、それだけではない気もした。
「あくまで、噂ですけれど」
彼女はそれだけ言うと、硝子の扉を開いて、広間へと戻っていった。
残された俺は、ロゼの語った噂話について考えていた。