間章~3~
噎せ返るような、キツい香の匂いがした。
脇息に凭れかかり、古世未はため息をついていた。
この頃ため息が多くなったようにも思う。
それだけ、気苦労が多くなったということか。
『ため息が多いな』
男の声が古世未に向かってそう言った。
部屋には古世未一人きり。
声は古世未の正面に置かれた西洋風の鏡からしていた。
「余計なお世話じゃ」
古世未は鬱陶しそうに応える。
鏡に写るのは古世未の姿のみだったが、例によって例の如く力を使って遠く離れた場所にいる人と話しているのである。
勿論、その人物の姿を鏡に写すことも可能だがしないのは、そうすると疲れやすいのと古世未が面倒くさがっているのである。
何よりーー。
「お主の顔など見とうないわ」
『それはお互い様だろう』
一人言のつもりだったが、聞こえていたようだ。
『お前の愚痴を聞くために力を使っているわけじゃないんだ。さっさと本題に入れ』
愚痴など一言も言っておらんだろうが。
「妾もお主の色恋沙汰を聞くために時間を割いておらんわ」
『なっ……!』
そう茶々を入れてみると、鏡の向こうで相手が狼狽えるのが分かった。
何とも可愛らしいことよ。
「妾が知らぬとでも思ったかや。可愛らしい女子ではないか」
ならば、もう少しからかってやろうではないか、と話を掘り下げる。
『俺達はそんな関係ではない! それに俺はお前にそんな話をしていないだろうが!』
怒ったように言う声。
ムキになりおって、余計に可愛らしいことよ。
「おや、俺達とは一体お主と誰のことじゃ? 妾は女子としか言っておらんがのう。すぐに思い浮かぶ女子がいるとは」
相手のしまった、という顔が目に浮かぶようだ。
古世未は一人ほくそ笑む。
「流石じゃのう」
肩にかかった髪を一房手に取り、指先で弄ぶ。
ある程度、手入れをしている為か、艶のある滑らかな髪を保っている。
髪から視線を鏡に戻すと、相手は沈黙している。
はて。少し、苛めすぎたか。
「どうかしたかの?」
訪ねるとようやく返答があった。
『もういい。俺が悪かったからその話は止めろ』
意気消沈したその声に少しからかいすぎたと反省する。
「本題じゃがの」
今回こうして話をしているのは、古世未自身が相手を呼び出したからだ。
古世未とて暇ではない。
用もなく相手を呼び出すような真似はしない。
相手もそれを分かった上で話しているのだ。
元々、我々は仲良く話をするような間柄でもない。
「ーー」
口を開きかけた、その時。
誰かがこちらに、向かってくる気配がした。
千鶴ではない。
気配の主を探り、その正体に気付いた。
それから少し考え、躊躇いつつも早急に結論を出す。
また、ため息が漏れた。
「すまぬ。邪魔が入った」
相手からは意外な声が上がる。
『人払いをしてるのではなかったのか?』
していたに決まっておるではないかーー。
思いつつもそれは言わず。
「そう急ぎの用ではない。またの機会に話そう。耳の早いお主のことよ。どうせもう知っておろう」
そう言うと向こうは何のことかピンときたようだ。
『あれか……。分かった。またの機会に話そう。それじゃあな』
軽く挨拶をして、鏡から相手の気配が消える。
それと同時にドタバタとした足音が近づいてくる。
足音と共に女共の声もした。
目を閉じて、ため息をつく。
神経を集中するまでもない。
女達の彼を止める声がして、彼はそれに構うことなく真っ直ぐにこちらに向かってくる。
気配が部屋の前に来た。
「古世未。朕だ。入ってよいな」
そう言ってこちらの返事を待っている。
襖をいきなり開けないようになっただけ、大きな進歩か。
以前は断りもなく、いきなり襖を開けてきたのだからーー。
「どうぞ」
短く了承すると、襖を勢いよく開けて、良い身なりをした少年が入ってきた。
少年は帝や公家のみが着用を許される束帯と呼ばれる衣装を着ていた。それだけで彼の身分が分かるというものだ。
束帯とは上半身は着物を着用し、下半身は袴をはく。その上に袍と呼ばれる上衣を上から被るように着用し、腰の辺りを石帯と呼ばれる革製の細い帯で縛った格好のことだ。
彼の着ている袍の色は白。冠は被っておらず、腰辺りまで伸びた長い髪は無造作に後ろで一つに縛られている。何とも彼らしい。
脇息を奥に押しやり、背筋を伸ばす。
そうして、恭しく両手をつき、そのままひれ伏す。
「ようこそ、お越しくださいました。帝様におかれましてはーー」
「長ったらしい口上はよい。顔を上げよ」
そう言って帝は鏡の前に座る。
勿論、鏡側ではなく、古世未の方を向いて。
古世未は顔を上げて、背筋を伸ばして座った。
そのまま、帝の顔を見る。
本来であればこれは不敬に当たるが、帝は気にしていない。
これは公式の会見ではないから、良いとのことだった。
帝はまだ、少年といっても差し支えない年であった。
今年で14だという。千鶴より一つ下だ。
若すぎるとは思うものの、誰がそれを言えようか。
「どうかなさいましたか?」
古世未は端的にそう聞いた。
帝のご機嫌伺いは古世未の仕事ではない。
それに、帝も古世未にご機嫌取りをしてほしくはないだろう。
「この部屋は香が少々キツくないか?」
早く答えればよいものを。
帝はそう言ってキョロキョロと部屋を見回す。
どこに香が置いてあるか探しているのだろう。
「妾の勝手にございます。それで、帝様。わざわざ、このような所に足をお運びになられて、一体何用でございましょうか?」
子どもの暇潰しに付き合っているほど、こちらも暇ではないのだ。
早く解放してもらいたい。
第一、今日来るなどとは聞いていない。
何故、突然やってきたのか。
理由がさっぱり分からない。
「古世未。先日、朕が使者に持たせた贈り物だったのだがな。気に入らなかったか?」
少年の言葉で先日の出来事を思い出す。
そう言えば、この間使者を追い返したのだったか。
流石に二度も連続で追い返したのはまずかったか。
直接来ると分かっていれば、追い返したりはしなかったものの。
過去の自分の行いを後悔する古世未だったが、後悔先に立たず。覆水盆に返らずだ。
「よく、朱鳥様がお許しになりましたね」
古世未は問いには答えず、そう言った。
すると、帝は一瞬にして苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……どうでもいいだろう」
言いずらそうに答える帝の様子を見て、察した。
なるほど。こっそり抜け出してきたのか。
「早くお戻りになったほうが宜しいのではないですか?」
さっさっと帰れという意味も込めて言ったのだが、帝は気づいていないだろう。
そういう奴なのだ。
「構わん」
短くそう言い、古世未の顔をじっと見つめる。
真っ直ぐにこちらを見つめるその視線に耐えられず、目をそらす。
わっちを見ないでくんなましーー。
「……気分が優れませぬ。お帰り頂けますか?」
古世未は顔をそらし、袖で口元を隠す。
気分が悪いというのは、半分は早く帰ってもらうための口上で、もう半分は本当のことだった。
帝に見つめられるのが、古世未は苦手だった。
その真っ直ぐ澱みのない瞳が嫌いだった。
帝に見つめられると、古世未が必死に取り繕っている美しい仮面を剥がされ、その下に潜む醜くおぞましい化け物の姿を暴きたてられているような気になる。
帝のその幼さ故の、純粋で偽りのない瞳を直視するのは耐え難い苦痛だった。
わっちを見ないでくんなまし。
お頼み申す。
わっちを見ないで、くんなましーー。