序章
子供に蹴っ飛ばされて、路上に転がる小石のように。あるいは、大人に捨てられた煙草の吸殻のように。
私は何処かへ続く道の上に…ただ一人、転がっていた。
「……」
長い夢を見ていたような気がする。その夢路から目を覚ましたばかりだから、未だに夢見心地だ。
ぼうっと、朧気な視界の中。空はくすんだ色をしている。
黒い雲がびっしりと空に敷き詰められているのだと、どこか遠くで理解した。
「……暗」
ぽつっと、呟く。
その声が自分の内側から響いてきて、あぁこれが私の声なのかと認識した。
「…………起きました?」
突然、誰か知らない人が現れて、私の顔を除き込んだ。
若い男だ。色の薄い、優男。
その表情はよく分からない感情に色付けされていた。
怒りとも悲しみとも捉えられない負の表情に、私は目を逸らす。
直視できないのは、何故か。それすら、分からない。
ただ、なんとなく彼を見るのがつらかった。
理由が分からない代わりに、分かることを素っ気なく言った。
「……起きたわ」
「良かったです…。随分と、長い間眠ってらしたので、心配しました」
「………それは、どうも」
この男は一体、何。
それを本人に問うより先に、男は私に聞いた。
「自分が誰か…お分かりになりますか?」
「……それがね、困ったことに全く分からないの」
記憶が、すっぽりと抜けてしまった。
すっぽりと? いや、私の頭の中には、何が残ってる?
ありふれた知識と、言語力くらいじゃないかしら。
「もしかすると、貴方は私の知り合い?」
「どうだと思います?」
「今の私に分かるわけないでしょ」
もしかして、からかわれてる?
でも、彼は人を困らせて面白がるような人には見えない。
と。
視界がクリアになって来た頃、黒い空から雪が降ってきた。
白く儚いそれが真っ黒な空から産まれるものだから、とても不釣り合いでなんだか笑えてくる。
「……雪」
男の髪と同じくらいに真っ白な雪。
私の頬にはらりと落ち、すぐに溶けて形を無くした。
「雪が降ってきたわ」
「違いますよ、これは雪ではありません」
「じゃぁ、なぁに?」
私の問いに、彼は優しく微笑んで、
「地上の様子を見に来た、天使の翼です」
なんて言うのだ。
滑稽な回答に、私は苦笑いする。
「……こんなに降ってきたら、すぐにはげちゃうわね」
「大丈夫ですよ。彼らの切り離した翼はすぐに再生します」
「どうして、切り離すの?」
「天使の翼は、彼らの心。人間に絶望した、その憂いを無くすためです」
「だから、雪は冷たいのね」
「えぇ。何せ、聖なる天使が抱いた哀れみですから」
「それを注がれた生き物たちはどうなるの?」
「貧しい心に、薬を塗るようなものです。彼らは慈悲で癒されない。彼らを満たすのは、他人の不幸や憂いだけです」
……それは、なんて悲しくて、可哀想なのだろう。
不幸を欲しがる彼らや、心を切り離した天使よりも…それを語る彼自身が。
彼が穴の空いた心を抱えているのが、すぐに分かってしまった。
穴の空いた心を持つ彼と、記憶を無くした私。
私たちにも、天使の翼の一片が注がれる。
生憎、私の心は満たされないけど。
彼は、しばらくぼんやりと上を見上げていた。
そんな彼に、手をあげる。
「上げて?」
寝転んだままの私を見下ろして、彼は優しそうに笑った。
「かしこまりました」
上げた手を引かれ、私はやっと立ち上がった。
ふらりと、足元がおぼつかない。
ずいぶん、長い間寝ていたようだ。
そんな私の体を、彼は支えるように抱き止めた。
「ありがとう」
「いいえ。触ってもよろしかったですか?」
「勿論よ。助かったわ」
私が感謝を述べると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせる。
なんとなく可愛いなぁと思いながら、私は尋ねた。
「貴方、名前は?」
「……ティキです」
「ティキ。良い名前ね」
「はい。大事な人に貰った大事なものです」
そう言って、ティキが少し悲しそうな顔をした。
それがなんとも儚げで、今にも消えてしまいそう。
だから、私は彼の服をぎゅっと掴んだ。
すると、ティキは微笑んで、私に囁いた。
私が一番、知りたかったことを。
「貴女の名前は……アリス」
アリス。
その名を聞いても、ただ漠然と認識しただけで、なんにも思い出せやしなかった。
粉雪が舞い散るその日。私は目覚める。
それは、仕組まれた運命の幕開け……。