表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

微熱の残滓(ざんし)

作者: 夜乃 凛
掲載日:2026/06/09

窓硝子を濡らす雨は、午後になっていっそうその密度を増していた。

庭園の薔薇は、咲き誇る一歩手前の、最も重たい花弁を項垂れさせている。まるで、これからこの部屋で交わされる言葉の重さを、あらかじめ知っていたかのように。


「エレン。すまないが、この婚約はなかったことにしてほしい」


ヴィクトールの声は、驚くほど平坦だった。

雨音に紛れてしまいそうなほど静かで、それでいて、私の胸の最も柔らかい部分を正確に穿つ硬さを持っていた。


彼の手元にある陶器のカップからは、もう湯気が立ち上っていない。

運ばれてきたばかりの時は、確かにアールグレイの華やかな香りが部屋を満たしていたはずなのに、今ではすっかり冷え切り、ただの濃い琥珀色の液体としてそこに佇んでいる。私たちの関係そのもののように。


「……そうですか」


私は、自分の声が思いのほか穏やかだったことに、小さな失望を覚えた。

泣き叫び、彼の仕立ての良い上着の袖を掴んで理由を問い詰めるような、そんな烈しさは私の中には残っていなかった。ただ、足元からじわじわと体温が奪われていくような、心地の悪い冷えだけが這い上がってくる。


ヴィクトールは、私の反応を予想していたのだろう。動揺の欠片も見せず、ただ静かに視線を落とした。彼の長い睫毛が、端正な横顔に暗い影を落としている。その影の中に、私が触れることのできない「別の誰か」の存在が透けて見えた。


「君に落ち度はない。すべては、俺の身勝手だ。慰謝料や、今後の君の立場についての調停は、追って弁護士から連絡をさせる」

「理由を、伺ってもよろしいですか」


遮るようにして、私は尋ねた。

形式通りの手続きの話など、今はどうでもよかった。私が知りたいのは、彼がいつから私を「過去」にしようと決めていたのか、その一点だけだった。


ヴィクトールは一度だけ、躊躇うように唇を噛んだ。その僅かな仕草が、彼にとって私がまだ「気を使うべき対象」ではあるのだと告げていて、かえって惨めだった。


「彼女が……リリアが、戻ってきたんだ」


リリア。

その名前が部屋に響いた瞬間、部屋の空気が一気に凍りついた気がした。

彼女は、ヴィクトールが数年前に異国へと送り出した、彼の「かつてのすべて」だったはずの女性。病弱で、儚げで、そして彼が命を懸けてでも守りたかった、最初の恋。


彼女が去った後、空殻のようになっていた彼の隣に、そっと寄り添うようにして収まったのが私だった。

私たちは、愛を囁き合うことはなかったけれど、穏やかな信頼を積み重ねてきたはずだった。少なくとも、私はそう信じていた。この、冷めかけた紅茶の海に溺れてしまうまでは。


「彼女は、もう長くはないそうだ」

ヴィクトールは、絞り出すように言った。その声には、私に向けられたことのない、切実な熱が孕んでいた。

「残された時間を、俺の側で過ごさせてやりたい。……エレン、君を傷つけることは百も承知している。だが、俺はもう、自分に嘘を吐くことができないんだ」


嘘。

では、この二年間、彼が私に見せてくれた優しい微笑みも、誕生日に贈ってくれた細い銀の指輪も、すべては精巧に作られた嘘だったのだろうか。

私は左手の薬指に触れた。そこにはまだ、彼の選んだ冷たい金属がしがみついている。


「……分かりました」


私は立ち上がった。

これ以上、この部屋の湿った空気を吸い続けていれば、本当に息ができなくなってしまいそうだった。

背筋を伸ばし、令嬢としての完璧な礼を取る。それが、私が彼に示せる最後の、そして唯一の抵抗だった。


「ヴィクトール様。どうぞ、お幸せに」


その言葉が、ひどく白々しく、そして歪んだ形で私の口から滑り落ちた。

彼の顔を見ないようにして、私は静かに部屋を後にした。

背後で、雨の音が一段と大きく聞こえた気がした。


『微熱の残滓ざんし』―― 第二部

応接室の重厚な木の扉が閉まった瞬間、遮断されたはずの雨音が、かえって鼓膜の奥で激しく鳴り響いたような気がした。


長い廊下を、私はただ前だけを見て歩いた。

すれ違う使用人たちが、私のただならぬ気配を察して小さく頭を垂れる。その同情を含んだ視線が、今の私には何よりも鋭い刃となって突き刺さる。彼らはきっと、遠からず知ることになるのだろう。この屋敷の新しい女主人として迎えられるのは、私ではなく、あの「リリア」という女性なのだと。


屋敷の車寄せには、私が乗ってきた馬車がすでに待機していた。

御者が扉を開け、私を中に促す。ステップを上る私の足元は、まるで泥を孕んだドレスの裾に引かれるように重かった。


「お嬢様、ヴィクトール様とは……」


馬車に同乗していた年配の侍女、マーサが心配そうに私を覗き込んできた。彼女は私が幼い頃から我が家に仕え、今回の婚約も我がことのように喜んでくれた人だ。その慈愛に満ちた瞳を見た瞬間、張り詰めていた心の薄氷が、ピシリと音を立てて軋んだ。


「……終わったわ、マーサ」


私はそれだけを告げて、窓の外へと視線を逸らした。

動き出した馬車の振動が、座席を通じて身体に伝わってくる。

ガラス窓を伝い落ちる水滴は、まるで行き場を失った涙の軌跡のようだった。私は泣いていない。泣いてなるものか、と強く奥歯を噛み締める。ここで涙を流してしまえば、ヴィクトールとの二年間が、ただの惨めな敗北の歴史に変わってしまうような気がしたのだ。


膝の上で、両手をきつく握りしめる。

手袋越しにも分かる、左手薬指の小さな突起。ヴィクトールから贈られた銀の指輪だ。


『エレン、君には華美な宝石よりも、静かに光る銀の細工が似合う』


そう言って、彼は私の指にこれを嵌めてくれた。

あの時の彼の瞳には、確かに温かな光が灯っていたはずだった。穏やかで、凪いだ海のような、心地よい温度。私はその温もりに甘え、彼が抱える深い闇に気づかない振りをしていたのかもしれない。


彼はリリアを失った痛みを忘れるために、私という「静寂」を求めたのだ。

激しい情熱ではなく、ただ穏やかに流れる時間の中に身を置くことで、自らの傷を癒そうとしていた。そして傷が癒え、彼女が再び目の前に現れた今、私の役割は終わったのだ。


「身代わり、だったのね……」


ぽつりと呟いた言葉は、馬車の車輪が立てる水飛沫の音にかき消された。


実家である公爵邸に到着した頃には、雨はさらに激しさを増し、世界を白く塗り潰していた。

玄関ホールでは、父が厳しい表情で私を待っていた。ヴィクトールの執事から、すでに何らかの急報が届いていたのだろう。貴族社会における婚約破棄は、単なる男女の決別ではない。家格や面目をかけた、政治的な事変でもある。


「エレン。ヴィクトール卿から、婚約解消の申し入れがあったというのは本当か」


父の声は低く、怒りとも落胆ともつかない響きを帯びていた。

「はい、お父様。真実です。……彼には、どうしても添い遂げたい女性が他にいるとのことでした」


私は感情を完璧に排した声で答えた。

令嬢としての教育が、このような場面で役に立つとは皮肉なものだ。取り乱さず、気高く、家の名誉を汚さないように振る舞うこと。それが今の私に残された、唯一の鎧だった。


父は深く溜息を吐き、私の肩にそっと手を置いた。

「……そうか。お前がすべてを背負う必要はない。あちらの身勝手な都合だ、我が家としても相応の対応を取らせてもらう。今日はもう、部屋で休みなさい」


「ありがとうございます、お父様」


一礼して、私は自室へと向かった。

螺旋階段を上る途中、窓から見える庭園が、激しい雨に打たれて輪郭を失っていくのが見えた。


自室に入り、マーサの手を借りて重いドレスを脱ぎ捨てる。

薄手の寝衣に着替えた私は、ようやく一人になることを許された。

ベッドの端に腰掛け、ゆっくりと左手の手袋を外す。


白磁のような肌の上に、ぽつんと残された銀の指輪。

それを右手で掴み、引き抜こうとした――けれど、指輪はまるでお肉に食い込むようにして、どうしても外れなかった。まるで、ヴィクトールへの未練が、私の身体の一部になってしまったかのように。


「どうして……」


力を込めても、指輪は頑なにそこを動かない。

摩擦で赤くなった皮膚が、じくじくと熱を持って痛んだ。

その痛みが、冷え切っていた私の心を逆撫でする。


私は諦めて、ベッドに身体を沈めた。

枕に顔を押し付けると、微かに残るアールグレイの香りが鼻腔をくすぐったような気がした。いや、それは私の記憶が作り出した幻影に過ぎない。


目を閉じると、ヴィクトールが最後に言った言葉が、何度も、何度も耳の奥で再生される。

『俺はもう、自分に嘘を吐くことができないんだ』


ならば、私への優しさはすべて嘘だったとしても、彼が最後に放ったあの言葉だけは、紛れもない「本物」だったのだ。

彼は私を傷つけることを選び、同時に、自分の心に誠実であることを選んだ。

その残酷なまでの誠実さが、私の心をどうしようもなく惹きつけ、そして引き裂いていく。


雨は夜になっても止む気配を見せず、ただ暗闇の中で、静かに世界を濡らし続けていた。

私の胸の中に残った、微熱のような痛みを冷ますように。


翌朝、目を覚ますと、世界は残酷なほどに澄み切った青空に満たされていた。


昨夜までの烈しい雨が嘘のように止み、洗われたばかりの窓硝子からは、きらきらと輝く光の粒子が容赦なく部屋の隅々にまで滑り込んでくる。庭園の薔薇の葉に残った水滴が、朝日に反射して小さな宝石のようにまたたいていた。

その眩しさが、今の私には酷く痛かった。世界はこんなにも簡単に涙を拭い、何事もなかったかのように新しい一日を始めてしまう。取り残されたのは、私の心だけだった。


「……お嬢様、お目覚めですか」


控えめなノックの音とともに、マーサが静かに部屋へ入ってきた。彼女の手にあるトレイには、温かいカモミールティーと、薄く切られたトーストが載っている。けれど、今の私には食べ物の匂いさえ、胃の腑を重くさせる原因でしかなかった。


鏡の前に座ると、そこに映っていたのは、血色を失った白磁のような肌と、心なしか窪んで見える虚ろな瞳をした一人の女だった。これが、昨日すべてを失った私。

私は深く息を吐き出し、背筋を伸ばした。令嬢としての仮面を、もう一度顔に貼り付けるようにして。


「マーサ、髪はシンプルにまとめて。今日は、お父様の書斎へ行かなければならないわ」

「かしこまりました。……お嬢様、どうかご無理だけはなさいませんよう」


マーサの優しい指先が、私の髪を梳いていく。その温もりに、また胸の奥がじわりと疼いたけれど、私は鏡の中の自分をじっと見つめ、感情を凍りつかせた。


――午後。私は父の書斎の、重厚な革張りの椅子に腰掛けていた。


机の上には、数枚の上質な羊皮紙が広げられている。それはヴィクトールの署名が入った、正式な婚約解消の合意書だった。


「条件は、我が家にとってこれ以上ないほど有利なものだ」

父は眼鏡の奥の目を細め、苦渋に満ちた声で言った。

「あちらの領地の一部の割譲、多額の慰謝料、そして……今回の件はすべてヴィクトール卿の有責であり、お前には一切の瑕疵かしがないことを公的に証明する文言が入っている。彼がこれだけの条件を無条件で呑むということは、それだけ必死だということだ」


必死。

その言葉が、私の胸を鋭く抉った。

ヴィクトールは、それほどまでに早く私との関係を清算したかったのだ。多額の富や領地を差し出してでも、私という存在を自分の人生から取り除き、あのリリアという女性を堂々と迎え入れるための「綺麗な席」を用意したかった。

彼の誠意は、私にとっては、最も残酷な拒絶の証明でしかなかった。


「……分かりました。お父様、この内容でサインをいたします」

「エレン、本当に良いのだな? 我が家の権勢をもってすれば、王家に訴え出て、この不条理な破棄を覆すことも不可能ではないのだぞ」


父の言葉は、娘を想う親心からのものだった。けれど、私は静かに首を振った。

「形だけの婚約を繋ぎ止めて、彼の心を縛り付けたとして、そこに何の意味があるのでしょう。私は……誰かの抜け殻を愛せるほど、強くもなければ、惨めになりたくもありません」


羽ペンをインクに浸し、私は自分の名前を滑らかな筆致で書き込んだ。

インクが乾いていくにつれ、私とヴィクトールの二年間が、完全に過去のものへと変わっていく。紙の上に残された黒い文字だけが、私たちが確かに婚約者であったという、最後の、そして唯一の物証だった。


書斎を出て自室に戻ると、机の上に一通の手紙が届けられていた。

差出人は、社交界での数少ない友人である、伯爵令嬢のクラリスからだった。彼女の手紙はいつも華やかで軽快なものだったが、今日届けられたものは、どこか躊躇いがちな、探るような文面だった。


『エレン、体調は崩していませんか?

実は……昨日、王都の静養地の近くで、ヴィクトール様のお姿を見かけたという噂を耳にしました。お傍には、酷く儚げな、白いドレスを着た女性がいらっしゃったとか。社交界では早くも、あなたの婚約について心ない憶測が飛び交っています。私は信じていませんが、もし、あなたに何か辛いことがあったのなら、いつでも私を頼ってください』


心臓が、ドクンと大きく脈打った。

やはり、もう始まっているのだ。私が実家に戻り、泣き濡れていたその時間に、ヴィクトールはすでにあの女性の傍にいた。彼女の細い肩を抱き、残された短い時間を慈しむように、優しい眼差しを向けていたのだろう。


脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇る。


一年前の秋、私たちは公爵邸の静かな図書室で、二人きりで過ごしていた。

窓外では紅葉した葉が舞い、室内には古い紙の匂いと、ヴィクトールが好んでいたアールグレイの香りが漂っていた。彼は椅子に深く腰掛け、難しい魔導書のページを静かにめくっていた。その長い指先や、伏せられた睫毛の美しさに、私はそっと見惚れていた。


『エレン。どうかしたか?』

視線に気づいた彼が、本から目を離さずに、低く心地よい声で尋ねてきた。

『いえ。ただ……こうしてヴィクトール様と過ごす時間が、とても心地よいと思って』


私が少し照れながら答えると、彼はほんの僅かに、唇の端を和らげるような笑みを見せたのだ。

『俺もだ。君といると、胸の奥が静かになる』


あの時の言葉。あの時の、凪いだ海のような優しい微笑み。

私はそれを、彼が私に寄せてくれている「愛の萌芽」だと信じて疑わなかった。けれど、違ったのだ。彼の胸の奥が静かになっていたのは、私を愛していたからではなく、私という静寂の陰に隠れて、失ったリリアへの痛みを麻痺させていただけだった。

私は、彼の傷口に貼られた、一枚の包帯に過ぎなかった。


「……痛いな」


ぽつりと言葉が漏れた。

左手の薬指に視線を落とす。そこには未だに、あの銀の指輪が頑なに居座っている。

昨日、無理に外そうとしたせいで、指の根元は赤黒く腫れ上がり、触れるだけでじくじくと熱い痛みを放っていた。


まるで、私の中に残された、ヴィクトールへの想いの温度そのもののようだった。

愛はすでに失われ、婚約も書類の上で消滅した。それなのに、私の胸の奥には、彼に焦がされた記憶の熱――「微熱の残滓」が、消えない棘のように深く、深く刺さったまま、私を苛み続けている。


私は窓に近づき、外の眩しい光を見つめた。

この痛みが消える日は、本当に訪れるのだろうか。それとも、あの指輪のように、私の肉体の一部となって、一生疼き続けるのだろうか。

答えをくれる人は、もうどこにもいなかった。


『微熱の残滓ざんし』―― 第四部

季節は、私の足踏みなど待ってはくれず、静かに、けれど確実に進んでいく。

あれから半月が経ち、王都を騒がせていた「公爵令嬢の婚約破棄」という格好のゴシップも、新しい夜会や別のスキャンダルに押し流され、次第にその輪郭を失いつつあった。


私は父の配慮により、王都の喧騒から離れた湖畔の別邸へと移っていた。

ここは、亡き母が愛した場所で、驚くほど静かだった。朝には湖面から白い霧が立ち上り、夕暮れには水面が燃えるような琥珀色に染まる。その静謐せいひつな美しさだけが、今の私のひび割れた心をかろうじて繋ぎ止める防腐剤だった。


ある午後、別邸に一つの木箱が届けられた。

差出人の名はない。けれど、結ばれたリボンの色と、微かに漂う冷ややかな空気で、それがどこから来たものなのかはすぐに分かった。ヴィクトールの屋敷に残されていた、私の私物――彼との二年間で、少しずつ彼の空間に溶け込ませていた、私の「破片」たちだった。


「お嬢様、私が開けましょうか」


側を離れずにいてくれるマーサが、気遣わしげに声をかけてくれる。私は静かに首を振り、自分の手で箱の蓋を開けた。


中には、私が彼の図書室に置き忘れた何冊かの小説や、刺繍の途中で止まったままのハンカチーフ、そして……彼と一緒に選んだ、古い植物図鑑が入っていた。

図鑑のページをめくると、あの日、二人で庭園を歩いた時に挟んだ、名もなき白い花の押し花が、すっかり茶色く干からびて収まっていた。

かつての瑞々しさを失い、ただの記号と化した思い出が、容赦なく私の目へ飛び込んでくる。


けれど、箱の底には、もう一つ、見覚えのない小さな包みが入っていた。

上質な白い薄紙で包まれたそれを手に取ると、カサリと軽い音がした。開いてみれば、中から現れたのは、一通の短い手紙だった。


ヴィクトールの、あの整った、けれど少し硬い筆跡ではない。

それは、風が吹けば消えてしまいそうなほど細く、弱々しく震える、女性の筆跡だった。


『エレン様。

突然の無礼をお許しください。ヴィクトールの悪徳を、どうか彼一人のものにしないで堅忍けんにんしてください。私という存在が、あなた方の美しい約束を切り裂いてしまったこと、どれほど謝罪しても足りないことは重々承知しております。

私はもうすぐ、この世界から消え去ります。ヴィクトールが私に与えてくれる時間は、ただの、過去の続きに過ぎません。あなたが彼に与えていた「今」を奪ってしまった私を、どうか、呪ってください。

リリア』


手紙を持つ指先が、微かに震えた。

喉の奥が、焼けるように熱くなる。


呪ってください、と彼女は書いた。

その言葉は、一見、被害者である私への平伏へいふくのようでありながら、その実、これ以上ないほど残酷な「勝利宣言」でもあった。彼女は知っているのだ。自分が消え去った後も、ヴィクトールの心に、一生消えない純白の傷跡として残り続けることを。そして、私がどれほど彼を想おうとも、その死者という完璧な聖域には、決して手が届かないということを。


「……ずるいわ」


ぽつりと漏れた声は、湖から吹き込む風にかき消された。

彼女は、自分の命の短さを免罪符にして、ヴィクトールの愛を永遠のものにしようとしている。そしてヴィクトールもまた、その悲劇のヒロインを守る騎士としての自分に、酔いれているのかもしれない。

彼らの間にあるのは、他者が介入することのできない、完成された「美しき地獄」だった。


私は手紙を静かに机の上に置いた。

不思議と、涙は出なかった。ただ、胸の奥を満たしていたあの、じくじくとした「微熱」が、急速に冷えていくのを感じていた。


愛が憎しみに変わるのではない。

彼らの抱える圧倒的なエゴイズムの前に、私の純粋だった想いが、急速に白化し、乾燥していくような、そんな奇妙な感覚だった。私は、彼らの悲劇のスパイスにされるために、二年間も彼の隣にいたわけではない。


私は左手の薬指に視線を落とした。

半月が経ち、無理に外そうとして腫れ上がっていた皮膚は、すっかり元通りに治っていた。赤みは引き、ただ、銀の指輪だけが、最初からそこにあった肉体の一部のように、静かに収まっている。

肉が指輪を包み込み、馴染んでしまったがゆえに、もう普通に引っ張るだけではびくともしない。


私は立ち上がり、マーサを振り返った。


「マーサ。裁縫箱から、一番細くて硬い、小さなはさみを持ってきて」

「お、お嬢様……? 何をされるおつもりですか」

マーサの顔が、驚きに強張る。


「この指輪を、切るのよ」


私は冷徹な声で言った。

もう、この金属が私の体温を奪うのを許しておくわけにはいかなかった。外れないのなら、壊すしかない。私の身体に食い込んだ、彼という過去の痕跡を、力ずくで切断するのだ。


マーサは一瞬だけ躊躇ためらうような表情を見せたが、私の瞳に宿る、かつてないほどに冷徹で、そして強固な光を見て取ると、静かに頭を垂れて部屋を出て行った。


一人残された部屋で、私は窓の外の湖を見つめた。

水面は、夕暮れの光を浴びて、血のような赤から、深い、深い藍色へと移り変わろうとしている。


私の胸の奥に残る、微熱の残滓。

それを完全に埋葬するための時間が、すぐそこまで迫っていた。


『微熱の残滓ざんし』―― 第五部(最終部)

マーサが持ってきた小さな金工用の鋏は、鈍い銀色の光を放っていた。


「お嬢様、本当に……よろしいのですね」

「ええ。お願い、マーサ。私の心が完全に冷め切ってしまわないうちに」


私は右手を差し出し、机の上にそっと乗せた。赤みが引いた薬指の根元で、銀の指輪はまるで私の皮膚と一体化しようとするかのように、ぴったりと張り付いている。


マーサの指先が微かに震え、鋏の刃が銀の細工の隙間に滑り込んだ。

カチリ、と硬い金属同士が噛み合う音が室内に響く。マーサが息を呑み、ゆっくりと力を込めた。


――ミシリ。


金属が歪む不快な感触が、指の骨を通じて脳裏に直接届く。皮膚が少し引っ張られ、鋭い痛みが走った。けれど、私は目を逸らさなかった。この痛みこそが、私が過去を切り離すための儀式なのだと自分に言い聞かせる。


――パチン。


甲高い音とともに、銀の輪が跳ねるようにして割れた。

食い込んでいた金属の圧迫から解放された瞬間、指の根元にじわりと血の巡りが戻るのが分かった。マーサが慎重に、割れた指輪を私の指から引き抜く。


外された指輪の裏側には、私の体温がほんの僅かに残っていたけれど、それも空気に触れて瞬く間に消えていった。机の上に転がったのは、歪んで輝きを失った、ただの金属の塊だ。

指輪のあった場所には、白く、細い一本の線が残されていた。まるで、そこに何かがあったことさえ忘れてしまいそうなほど、頼りない跡。


「終わったわ……」


私は深く、深く息を吐き出した。

不思議なほど、胸の奥が軽かった。あのじくじくと私を苛んでいた「微熱」は、指輪が割れた音とともに、どこか遠くへ霧散してしまったかのように、もう何も感じられなかった。


リリアの手紙も、ヴィクトールのあの冷めた紅茶のような眼差しも、すべては私の人生という物語の、ほんの数ページに過ぎない。私は、彼らの悲劇を彩るための脇役ではない。私の人生の主役は、私なのだ。


窓を開けると、夜のとばりが降りた湖から、ひんやりとした、けれどどこか優しい風が吹き込んできた。私の頬を撫でる風は、もう二度と過去を振り返らないと決めた私の背中を、そっと押してくれるようだった。


それから、一年の月日が流れた。


季節は巡り、別邸の庭園には、あの嵐の日に項垂れていた薔薇ではなく、生命力に満ち溢れた鮮やかな大輪の向日葵と、涼しげな青い紫陽花が咲き誇っている。


王都の社交界では、ヴィクトールとリリアの物語が、文字通り「悲劇」として完結したことが噂されていた。リリアは冬の初めに静かに息を引き取り、ヴィクトールは彼女の遺品とともに、領地の奥深くにある古城に引き籠もったきり、誰とも会っていないという。

かつてなら、その報せに胸を痛めたかもしれない。けれど、今の私にとっては、遠い異国の歴史書に書かれた記述を読んでいるかのように、完全に他人事だった。


「エレン、見てごらん。今年の白ワインは、素晴らしい出来栄えになりそうだ」


テラスで木漏れ日を浴びながら、私は新しく淹れられたお茶の香りを愉しんでいた。

声をかけてきたのは、半年前からこの地域の領地経営の監査として王都から派遣されてきている、青年伯爵のレイモンドだった。


彼はヴィクトールとはまるで違う、陽だまりのような人だった。

燃えるような美しい琥珀色の瞳と、常に他者を包み込むような温かな微笑みを絶やさない。彼と過ごす時間は、凪いだ海のような静寂ではなく、常に新しい発見と、心地よい活気に満ちていた。


「まあ、レイモンド。まだお昼前ですのに、もうワインのことばかり考えていらっしゃるの?」

「おっと、手厳しいな。だが、君とこの素晴らしい景色を見ながら乾杯する瞬間を想像すると、どうしても仕事の手が早くなってしまうんだ」


レイモンドは快活に笑い、私の向かいの席に腰掛けた。

彼が自然な仕草で、私の左手をそっと包み込む。彼の大きな手は、驚くほど熱かった。かつて私が求めていた、どんなものよりも温かい熱。


私の左手薬指には、もうあの白い線すら残っていない。

けれど今、その指には、レイモンドが私の誕生日に贈ってくれた、大粒のトパーズが嵌められている。

それは、彼自身の瞳の色と同じ、黄金色の光を放つ宝石。


『エレン、君の強さも、優しさも、すべてが愛おしい。君のこれからの時間を、俺の熱で満たさせてほしい』


そう言って、彼は私の歪な過去ごと、私を抱きしめてくれたのだ。


「エレン、お茶が冷めないうちにどうぞ。君のために、最高の茶葉を仕入れたんだ」


レイモンドが手ずから注いでくれたカップからは、湯気が生き生きと立ち上っている。

一口含むと、オレンジ・ペコーの華やかで、力強い甘みが口いっぱいに広がった。それは冷めかけた過去の紅茶とは違う、今、この瞬間を生きている私を芯から温めてくれる、本物の熱だった。


「美味しいわ、レイモンド」


私は心からの笑顔を、彼に向けた。

鏡の中で怯えていたあの日の私は、もうどこにもいない。


私の胸を満たしているのは、かつての微熱の残滓などではなく、未来を鮮やかに照らす、眩いばかりの光と温もりだった。


私たちは互いを見つめ合い、優しく微笑みを交わす。

湖面には、初夏の澄み切った青空と、二人の幸せな影が、きらきらと輝きながら映し出されていた。

読んでくれてありがとうございました。

★★★★★評価をくださると、とても嬉しいです。最大5評価です。

また、どこかで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ