さいごの夕日
「もうすぐ、夕日が一番いい色になるよ」
陽子はそう言った。
都心からいくらか離れた、小高い丘陵地に佇む住宅街の公園に二人はいる。螺旋状に高台を登った先にあるベンチから見下ろす街並みは壮観だった。
悠太は手の平で両目を覆った。指先の間から低い太陽を視線の先に捉える。
「うわ」
悠太はその眩しさに思わず声を上げた。
「ばか」
陽子はそう言うと立ち上がり大きく深呼吸をした。そしてぼんやりとした様子で「きれいね」と言った。
悠太は顔を皺くちゃにしながら「そうだね」と答えた。見下ろす街のもっと向こうにそびえるビル群の存在に気付くと「ビルがまっくろだよ」と悠太は言った。
「影になっているだけよ」
「かげ?」
「そう、影、私の背中も、あなたの背中もあのビルみたいに真っ黒なのよ」
悠太は驚き、顎をしゃくりながら首を左右に回して自分の背中を覗いてから立ち上がり、陽子の後ろに回り込むと「うわあ、ほんとだね、ほんとだね」と嬉しそうに何度も言った。
陽子はほとんど背中だけで雄太の声を聴き、夕日そのものを見つめた。眩しさに目がちらつくと、今度は夕日の照らす街並みを、眺めた。悠太はベンチの周りを走り回り、ついて回る影を追い掛けたり、逆に影に追い掛けられたりして遊んでいた。
「行くよ」
陽子はベンチを離れ、公園の入り口に向かって歩き出した。悠太は「まって、おねえちゃん、まって」と言って陽子を追い掛けた。
夕日を背負いながら坂道を二人で歩いた。
「おじいちゃんは、しんだの?」
悠太は陽子の顔を覗き込んだ。
陽子は微笑むだけだった。
指先を複雑に絡ませながら悠太は「おじいちゃん」と呟いた。
何かを思い立ったように急に走り出した陽子は、坂道を一気に駆け上がった。坂のてっぺんで振り返り「おじいちゃんに会わせてあげる」と声を張った。
悠太は笑って、走り出した。悠太がてっぺんまで辿り着くと陽子は手を取り一緒に走り出した。二人は手を繋ぎ、最初の一歩目で空を蹴った。無色透明の階段を駆け上がるように宙に浮かぶ。声にならない感嘆の声を上げ足元を見つめながら走ると、やがてさっきいた公園が何十メートルも下にあるのに気付いた。
「いくよ、飛んで」陽子がそう言うと二人は息を合わせて幅跳びのように飛び跳ねた。
二人は風になった。上昇気流に吹き上げられ二人は無重力世界に放り込まれた。夕日が二人と二人の目に映るすべてのものを橙に染め上げている。それは大空に大きなカラーフィルムが敷かれているようだった。
二人は手を繋いだままフィルムの上に仰向けに寝転がった。
心地よい風が吹き、一羽の鳥が視界を横切る。
「悠太、いい?」
陽子が言うと悠太は「うん」と言った。
「これが、本当に、最後だからね」
悠太は唇を固く結んで頷いた。
二人は起き上がり全身に力をこめた。
「いくよ、せーの」
二人は結んだ手をさらに強く握り締めた。
「おじいちゃん!!!」
精一杯の声で叫んだ。その瞬間物凄い勢いで風が二人を吹き付けた。二人は目をつぶり身を屈めて風が過ぎるのを待った。
風が過ぎると、静寂だけが残った。
悠太は陽子の手を握って離さなかった。瞼に力が入る。
そして束の間の静寂は街の喧騒に引き裂かれた。車の走る音、人々の行きかう雑踏が広がり、二人はゆっくりと瞼を開いた。
目の前にいる白髪の老人の姿が目に入った。淡いベージュの作業着を着て、肩には白い手拭をかけている。薄っすら微笑を浮かべながら花瓶に花を二輪、挿していた。微笑みの向こうには大きな哀しみがひしめいている。
そこは二人の暮らす街の、見覚えのある交差点だった。
二人が何度も、何度も来たことのある場所でもあった。
「悠太、おじいちゃんにちゃんと、ありがとう、言うんだよ」
そう言って陽子は優しくそれでも力強く悠太の背中を押した。
悠太は真っ直ぐに歩き出し老人の横に立った。老人はしゃがんで電柱の下に花瓶をそっと置いて、祈りを捧げるように目を閉じた。
悠太は今にも泣き出しそうになるのを堪えながら何度も口を開こうとした。しかしその瞬間堪えきれなくなったものが、一気に溢れ出しそうな気がしてなかなか口が開かなかった。
悠太はくるりと振り返り陽子を見つめた。
陽子は真っ直ぐな眼差しで悠太を見つめ返し「最後だよ」と言った。
悠太は両目を手の甲で拭ってもう一度老人に向き直る。
そして大きく息を吸い込み「おじいちゃん、ありがとう」と言った。
老人は目を瞑ったままだった。陽子は二人の様子を目を潤ませながら見つめている。
「陽子ちゃん、悠太くん、また来るからね」
そう言うと、白髪の老人は立ち上がり、悠太と陽子に背を向け歩き出した。
陽子は駆け寄り背中から悠太を抱き締めた。一瞬風が通り抜けると、二人は消えた。
老人は、立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返った。顔は微笑んだままだが、もう哀しみは感じられなかった。
「陽子ちゃん、悠太くん、こちらこそありがとう、元気でね」
そう言うと頭を下げた。そしてまた歩き出し、やがて人ごみの中に紛れた。
花瓶に挿された長さの違う二輪の花を、夕日が包んだ。 そして橙と紫のグラデーションを残し、地平線の向こうに沈んだ。