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第8章ー1




 入宮してから二週間目の朝、ユイカは王太子殿下の前で礼をしていた。ユイカの前では女官長が同じように頭を下げている。王太子宮の主席女官ではなく、全ての宮の女官を束ねる女官長様である。


 ユイカが王太子宮に着くと同時に女官長が現れ、付いてくるように指示されて、今ここである。


(女官長様は正宮にお勤めだったはずなのに……どうして?)


 不思議に思っていると、アルベルトに顔を上げるよう言われ、女官長が姿勢を正すのを見てからユイカも同じようにした。アルベルトの後方、窓際にはカイが控えている。


「ようこそ、王太子宮へ、フォルンシュタイン嬢」


 相変わらず無駄にキラキラした笑顔を浮かべて王太子は微笑んでいる。そんな様子の王太子に女官長がぴしゃりと言い放った。


「殿下。この企みを全てフォルンシュタインにお知らせくださいますよう、王女殿下からもお言葉をいただいております。今、この場で、この私の前でお願いしとうございます」


「!?」


(企みって……? 女官長は何かご存じなの?)


 自分だけが知らないのに、王宮内で自分を巻き込んだ何かが始まっている、ということは分かった。


 足元が急に心もとない砂地になったような気がしてきたユイカを見て、アルベルトは額に手を当て長く息を吐いた。


「……分かっている」


 そしてアルベルトは叱られた子どもみたいな顔で女官長の諫言を受け入れる。そして戸惑っているユイカに視線を向けて言った。


「今この部屋にいるのは、私が信頼する今後共に国を治める仲間だと思っている友ばかりだ。フォルンシュタイン嬢、君も含めてね」


「……?」


 ユイカには、王太子が何を言ったのか、理解できなかった。言葉としては理解したけれど、意味として理解できないというか、脳が理解を拒んでいるというか……。


「特別に私が望む何かをして欲しいと思っているわけじゃない。ただ、最後までこの王宮で君らしく在り続けて欲しいと思っているだけだ。それが私の理想だから」


 更に意味が分からない。ユイカは首を横に振り続けることしかできない。


「君に王宮で辛い想いをさせてしまったことは承知している。けれど、男爵家の出でありながらも聡明で、物事の常識や身分に囚われない考え方をする君を、王宮の者に知って欲しかった。だからこそ、逆境に置くことが君の力を発揮させる近道だと……」


「ですから、それは研修が終わった後の正式配属された後で良いでしょうと私は申し上げました! 新人である女官見習いがどれほど負担を強いられながら研修をこなしているとお思いですか!?」


 女官長が呆れたように額を指先で押さえる。


「いや、だから……姉上には『フォルンシュタイン嬢の素晴らしさを家格至上主義の連中に知らしめるために、いつかお力をお借りしたい』と伝えたんだ。でも、その『いつか』を、『初週』でしかも『研修二日目』にぶつけるだなんて誰も思わないだろう!?」


 ユイカには何が何だか分からない。


(……殿上人てんじょうびとたちがあたしの理解の及ばぬ高みで言い合いしている……のか?)


 半分意識が遠のきかけていたところに、扉がノックされた。


「お話中、失礼致します」


「!?」


 ユイカにとっては懐かしい声がして、開いた扉から現れたのは……。


「エグランティーヌ様……?」


 王太子殿下の婚約者候補筆頭、エグランティーヌ・ド・ローランその人だった。





・・・*・・・*・・・*・・・*・・・



 人払いがされ、室内にはアルベルトとエグランティーヌ、カイと女官長、それからユイカが残っていた。


「ユイカ……苦労しているのではなくて? 随分顔色が悪いわ」


 一週間ぶりに会うエグランティーヌが心配そうにユイカを見つめている。


「いえ、大丈夫ですよ! まだ身体が慣れていないだけで……」


「いいえ。身体の疲れだけではないはずです」


 否定したのは女官長だった。


「私は王太子殿下より、育ててほしい女官がいる、と昨年の夏ごろに話を伺いました。女官の仕事が嫁入り前の高位貴族の腰掛け職と言われていることに鬱屈している時でした」


 初耳だった。それにユイカは女官長と個人的に話をしたことは今までなかった。


「私は女官の仕事が好きでしたが、結婚が早く決まり、すぐに身ごもり、出産をしてから戻ってまいりました。前例にないことでしたが、王太子殿下の口利きでした」


「女官長の有能さは知っていたから、このまま埋もれさせるのはもったいないと思ってね。しかし、私が口利きをして女官の席を用意しただけでは何も変わらない。だから、王宮内の風通りを良くしたいと思っていた時に君に出会った」


 アルベルトはそう言ってユイカを見た。


「君は、エグランティーヌ嬢を変えた。リリア嬢も変えた。そしてカイをも変えた」


 エグランティーヌとカイが力強く頷くのが見えた。


「私が命令すれば皆はその通りに動いてくれるだろう、しかし、私は自ら考えて動く者たちとこの国を支えていきたい。自分以外の者の意見を聞きながらより良い方法を考えたい。そのためには家格と歴史と様式美だけを大事にする連中を変えなければならない」


(殿下は本気でこの国を変えていこうと思ってらっしゃるんだ……)


 アルベルトの演説は不思議にユイカの心を躍動させた。しかし、それはあくまで自分とは関係ない世界の話だと思うからこそである。


「君ならば変えられる」


 それまで躍動していた心がこの言葉で一気に冷水を浴びせかけられたようになる。自分が? 王宮を変える? 末端貴族でしかない自分が? ユイカの心に一瞬で恐怖が満ちた。


「無理です!」


 ユイカは思わず立ち上がる。王族のお願いは命令と同義、といつか自分で思ったことを思い出したけれど、こればっかりは無理に決まっている。


「王太子殿下、一体何を仰っているのかお分かりですか? こんな私に何の力があると?」


(こんなに王宮内で嫌われて、軽蔑されて、存在さえ無視されているのに……!?)


 一体何を考えているのか。高貴なる方たちの一時の理想のお遊びに使われるのか、駒のように適当に色々な場所に落とされるのか。


 困惑と恐怖がだんだんとユイカの心の中で怒りに変わりつつあったその時。


「ユイカ……私は貴女のおかげで変われたわ」


 エグランティーヌの真剣な瞳がユイカを見つめていた。


「それは……エグランティーヌ様がご自分で……」


 彼女は首を振り、紅い髪がふわりと揺れた。そして立ちすくむユイカの目の前にゆっくりと歩を進め、震える女官見習いの手を取った。


「貴女の言葉には力がある。行動には心がある。貴女の言葉と行動があったからこそ、私はエグランティーヌ・ド・ローランとして今ここに立っていられるのよ」


「……」


「何かを始めようとしなくてもいいの。ただ、貴女が感じた違和感をそのままにしないで教えて欲しい。それが、きっと王宮が変わることに繋がる。殿下はそうお考えになられたのよ。お話を聞いた私も同じ気持ちよ、ユイカ」


「……」


(あたしが王宮を変えるって……そんなことできるわけがない……)


 実際にユイカの能力を買いかぶった結果、ロザリンデが暴走して現状を招いたのだ。彼らの言う通りにユイカが聡明で優秀だったなら、こんなことになっているはずがないのだ。


(でもきっとあたしがどんなに無理だって言っても、殿下たちは考えを変えない……なら、実際にとことん嫌われて仕事もできないあたしを見てもらえば……)


 ユイカは言葉を絞り出した。


「時間を……ください。一カ月の研修が終わる頃には答えを出しますから」


(本当はもう……答えは決まっているけれど)


 もちろん、ユイカの答えは『ノー』だ。無理に決まっている。けれど、アルベルトもエグランティーヌも、そんなユイカの覚悟には気づいていない様子でホッとした表情を見せている。


 そしてエグランティーヌとアルベルトは互いに顔を見合わせてから頷いた。


「あぁ。話を聞いてくれて……ありがとう。すぐに結論を出さないで、よく考えて欲しい」





・・・*・・・*・・・*・・・*・・・


 アルベルトたちとの面談の場を辞した後、ユイカは王太子宮の女官たちとの顔合わせの場に向かった。先輩女官たちは王女宮の女官と同じような態度でユイカに接した。つまり、最低限の指導のみ。やらなければならないことだけを伝え、それ以上は求めないし教えない。ユイカはため息を吐いた。


(やりにくい……な)


 向こうがこっちを嫌うのなら、こちらから何をしても相手にとっては不快でしかない。こちらにしても不快である。ならば、関わらない方がお互いのためで、最低限の仕事さえしていれば文句は言われないのだから、それでいいのではないか。


(ほら、結局あたしは何も出来ないのだから……)


 ユイカをできる人間だと思い込んでいるアルベルトとエグランティーヌ達には悪いけれど、結局はそんなものなのだ。


 でも……と心のどこかでユイカは思う。なんだかもやもやする。どこか、間違っているような……でも正解が分からない。どうしようもなくて……実際にすることもなくて、気がつけばユイカは王太子宮の中庭でぼんやりとしていた。


 お昼に近い時間帯である。太陽はほぼ真上にあり、春の木漏れ日が中庭に降り注ぐ。静かで、鳥のさえずりが遠くから聞こえ、王太子宮で働く人々の喧騒も遠くから聞こえる。まるでユイカだけが切り取られた別の空間で過ごしているかのようだった。


(だるーんとした時間……でもなんか……すっきりしない)


 ベンチに座って空を見上げていると、自分の名を呼ぶ声がして振り向く。数歩後ろにいつの間にかカイが立っていた。


「お疲れ様です。フォルンシュタイン嬢は休憩ですか?」


「……はい。そんな感じです」


(休憩というか、何も用事を頼まれてないからぼんやりしてるだけだけど……)


 何だか情けない姿を見られてしまったような居たたまれない気持ちになり、笑おうとしたけれど、うまく笑えていない気がした。そんなユイカにカイは柔らかく微笑んだ。


「私もです。もし良ければ、散歩にお付き合いいただけますか?」


「散歩……ですか?」


「はい。この辺りを……。大丈夫、中庭からは出ませんよ」


 ユイカがここで時間を潰すしかないことに気づいて気遣ってくれているのだと分かった。そんなカイの心が嬉しくて、ユイカは頷いた。


「でしたら……ぜひ」


 そう言ってカイについて少し歩くと、中庭の隅の生垣が少しだけ不自然に途切れている場所があった。


「この先です」


 カイに先導されて生垣と生垣の間を縫うようにして進んだ先には……。


「わ……可愛い野原!」


 サッカーコートくらいの敷地に、小川が流れ、こじんまりした野原が広がっていた。ひとの気配は無く、柔らかな春の日差しに溢れ小さくて丸い可愛い色とりどりの花が色を添えている。


「ここは?」


 ユイカが尋ねると、カイは懐かしそうに目を細めた。


「老朽化が進んで使われていない建物があった場所です。建物は撤去されましたが、幼い頃の殿下と私の遊び場でした。あまりにも奥地なので使い道が決まらずほぼ人も来ません」


「秘密基地みたいですね」


 フフッと笑うと、カイが小さくホッとしたように息を吐くのが聞こえた。


「……」


「カイ様?」


「外なので万が一、人の目があるかもしれないので、このまま話します。フォルンシュタイン嬢、大丈夫ですか?」


「え?」


 何に対して大丈夫かと確認されているのか分からず、きょとんとする。そんなユイカを、カイが戸惑いがちに見下ろした。


「私の目から見ても、貴女はひどく疲弊しているように見える。それに今朝の殿下からのお言葉。心労がたまっているのでは?」


(カイさんにまで心配させちゃってたのか……情けない)


 ユイカは自身の弱さに唇を噛みたい気持ちになる。ユイカはまだ大丈夫なのだ。人に心配をかけて良いほどの状態ではない。


「……だいじょう……」


 軽く笑って答えたのに、途中で腹立たしげなカイの言葉に遮られてしまった。


「そう見えないから、殿下もエグランティーヌ嬢も、女官長も、心配しておられるのです」


「!?」


(なんで……そんな怒ったように言うの……? あたしは……心配かけたくないだけなのに……)


 思うと同時に、胸の奥底から何かが湧き出そうになるのを必死で堪える。


「……でも……もし私が平気じゃないって言ったら、困るでしょう?」


(カイさんは優しい人だから……『困るでしょ?』なんて言って馬鹿正直に言うわけなんてないのに何言ってんだ、あたしは……)


 今や胸いっぱいに膨れ上がって湧き出ようとしている何かを押さえようと、ユイカは身体の前に降ろした両手をぎゅっと強く組んで握る。


 そんなユイカにカイはきっぱりと言い切った。


「困りません。そんな顔で『大丈夫』なんて無理して笑われるよりはよっぽど良いです」


「!」


 弾かれたように、ユイカはカイを見つめた。カイは、真剣に真っ直ぐにユイカを見つめている。


「今、貴女は何が一番お辛いのですか?」


「……」


 言えない。言えるわけがない。こんな弱音を吐いたら、その途端、きっと止まらなくなる。ユイカは奥歯を噛みしめる。


「どうか、私に少しでもいいから貴女の苦しみを……この手に分けてください」


 俯くユイカの固く組んだ手に、一瞬だけ、カイの握ったこぶしの甲が触れた。触れた個所から、張りつめていた気持ちがぐにゃりと形を失っていく気がした。ぐちゃぐちゃに、どろどろに……。


 もう、ダメだった。震える口元から、弱い言葉が零れ落ちる。


「……他人から拒否されることです。否定されることです」


 噂を鵜呑みにした人たちから、ユイカを悪く言われるのも辛いし悔しい。でもそれ以上に、アルベルトやエグランティーヌまでもが悪く言われるのが何よりも辛かった。


「私なんかを庇護する殿下やエグランティーヌ様の程度が知れる、と言っているのを聞くのが……悔しくて、申し訳なくて……」


 だから早く本当のユイカの姿を見てアルベルトたちに考え直して欲しいのだ。自分に期待したところで、何も起こらないし何も変わらない。何か出来ようはずもない。


「……否定されることを貴女は当然だと思っているのですか?」


「え?」


 思いもよらない返しに、ユイカは思わずカイを見上げた。


「いつかリリア嬢に貴女はこんなことを言っていたでしょう? 自分がそんな目に遭っても良い理由がないなら、拒否しなさい、と」


「!」


「貴女は誰に恥じることもしていない。堂々としていれば良いし、違うものは違うと言えば良いのです。貴女はそれができる人でしょう?」


「……」


(今から……出来るのかな……あたしに……)


 それでも揺れるユイカに、カイはきっぱりと自信たっぷりに言い切った。


「大丈夫。我々がついています。貴女は貴女が正しいと思うことをしてください。きっとそれが貴女だけでなく、殿下やエグランティーヌ嬢を守ることにも繋がるのだから」


「!」


 ユイカはハッと気づいた。


(あたし、いつの間に……、人の目や言葉を気にして。こっちが悪いって自分の価値を落として……自分に無理を強いて、心を削ってた?)


(もうあんな人生は送らないって決めたのに)


(ううん、自分だけじゃなく、エラ様や殿下のことも一緒に落としてた……!)


 自分などに期待する方が間違っている、と。本当にそうだろうか。


 期待されたのならば、自分が持てる力を出し切ったのを見てもらった上で判断をしてもらうべきではないか。


 わざと出来ないふりをして他人と同じ線上に立ってその他大勢の顔をして知らんふりをすることが誠実なのか?


 そんなの、あたしが望んだ生き方じゃない。


 ユイカは、ゆっくりと息を吸い、それから空を見上げて肺の中の空気を全部吐き出した。それから思いっきり大きくこの野原の空気を身体に取り込む。


 柔らかな空の色がユイカの心を晴れ晴れしたものに変えてくれた。


「カイ様」


 もう大丈夫です、という気持ちを込めてカイの名前を呼んだ。


「……切り替えられたようですね」


「はい。ありがとうございます。目が覚めました」


 良かったです、とホッとしたように目元を緩めたカイが向けた握りこぶしに、ユイカは自分のそれを軽く合わせて、一緒に笑い合うのだった。






次回(2/18)19時、ユイカ、復活!!

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