第5章ー2
「本当に……今日で終わりなのね」
感慨深く学園の校舎を見つめる公爵家令嬢に、クロエが優しく笑いかけた。
「エグランティーヌ様、お寂しいのですか?」
「寂しいというか……一年前とは随分……心の在り方……とでも言えばいいのかしら、最後の一年で、私の気持ちの質が変わったような気がしてぼんやりしてしまいましたわ」
その言葉を聞いたサラが深く頷き、そして呟く。
「今思えば、突然ユイカ様が激変なさってから、私たちもすっかり変えられてしまいましたわね」
本当に、そうね……と、卒業式を終えたばかりのエグランティーヌとそのご学友二人、サラとクロエがこの一年間を思い出し、こみ上げてくる様々な何かを噛みしめていた。
思えば、あの頃は王太子妃候補筆頭と呼ばれてはいたものの、他の女生徒と何も変わらない自分にひどく腹を立てていた。筆頭の立場に在るのは家の力だけであることもエグランティーヌ自身が一番よく分かっていた。
その焦りと不安から、身分に物を言わせて相手の気持ちも状況も慮ることなく追い詰めていたのだということも。
(今となってはもう、その頃の自分こそが情けないと思えるようになった……)
目を覚まさせてくれたユイカ、最初からそうあるべきだと伝えてくれていたアルベルト、一緒に変わる努力をしてくれたサラとクロエに、エグランティーヌは感謝の気持ちを伝えたかった。
けれど、その言葉は、エグランティーヌが正式に王妃となるその時まで取っておくことにした。
感謝の気持ちを持ち続けていれば……正妃となったその時に彼らに伝えるのだという確固たる目標があれば……きっと頑張れるような気がしたから。
「それにしても、エグランティーヌ様はめでたく王太子妃候補筆頭のまま最終選定に進まれて……私たちもとても嬉しいです」
「筆頭と言っても最終候補者は二名しかいないのだけどね」
「殿下とエグランティーヌ様のお姿を見ている者たちからすれば、もう決まりのようなものでございましょう?」
「サラ様は夢見がちですのね。殿下とエグランティーヌ様だけのお気持ちで決まるわけないじゃない。もしも、そうだったとしたら、とっくにエグランティーヌ様で決定だわ」
三人はくすぐったそうに顔を見合わせて笑うのだった。
その時、遠くで人だかりができているのが見えた。エグランティーヌがよくよく目をこらして見てみると、人だかりの中心にいるのは、アルベルト殿下と、一般的には目立たない灰色の髪と瞳ではあるものの、今となっては学園内で知らぬ者はいないともされている男爵令嬢その人であった。
「ででっでででん殿下! わた、わ……私、配属先欄に王宮女官って……何かの間違いでは? 女官なんて、ものすごいエリート中のエリート集団じゃないですかっ!」
非常に狼狽した様子のユイカ・フォン・フォルンシュタイン男爵令嬢が、がたがたと足も手も震わせながら王太子殿下に縋っていた。王宮から風の魔術によって、合格者たちに先ほど届けられたらしい、決して偽造できず、破れず燃えもしない国王玉璽による魔法印つきの用紙を手に持って。
「あぁ、届いたんだね、フォルンシュタイン嬢。王宮女官着任、おめでとう」
にこやかに爽やかに微笑む貴公子。しかしエグランティーヌはその笑みが仮面であることをよーく知っている。いや、知らされてしまっている。
(もう殿下はユイカ様を手放す気はないわよ……)
気の毒に思いながらも、公爵令嬢は美しく微笑む。
(ま、私も、大切な友人を手放す気はないけれどね)
・・・*・・・*・・・*・・・*・・・
そして衆目の中にいる二人を少し遠くで見つめる騎士がひとり。彼には最初からこの未来は見えていた。
「殿下は私に図書館職員になることを勧めてくださったのでは……?」
何なら泣きそうな顔でユイカはアルベルトに訴えている。
(殿下はあの時、女官と同列に貴女に図書館職員を勧めていたんだがな)
それに、カイはユイカに最初に警告したはずだ。『お気をつけください。殿下はひとつ執着すると長いですよ?』と。
警告はしたものの、この一年でカイ自身もユイカの真っ直ぐな人柄に心を掴まれてしまったものだから、彼女には本当に申し訳ないが逃がしてはやれなかった。
そんなカイの目の前では、一人は半泣きで、一人は心から嬉しそうにまだ話している。
「私の希望は知っているから心配はいらない、と……」
「あぁ、社会の歯車の一部になりたい、だっけ? 女官なんて、本当に文字通り歯車の一部でくるくる働くことになるね」
「そ、そこですか? 私が申し上げた希望の中でよりによって……そこ……?」
へなへなとユイカは地面に崩れ落ちた。そんな彼女に王太子殿下はそっと寄り添っている。カイはただその様子を黙って見つめていた。
(私が何か嘘をついた、とでも?)
(いえ……私が……勝手に勘違いを……)
(というような会話が繰り広げられているんだろうな。本当に殿下はお人が悪い……正論で人を変えてきた彼女に正論で道を塞ぐなんて)
崩れ落ちたユイカの手を引き、アルベルトが満面の笑みで再度立ち上がらせ、彼女の肩をポンポンと軽く叩いている。
完敗、とばかりにその場に茫然と立ち尽くすユイカを置いて、アルベルトだけがすっきりした表情でカイの元に戻り、肩に手を置いて耳元でささやいた。
「落ち込んでいるレディを励ますのも騎士の務め、だよね。後はよろしく」
「で、殿下……っ!」
もう一人、近くに控えていた護衛がアルベルトの斜め後ろを歩いて行くのを見送ってから、カイはため息と共に視線を戻す。先ほどの人だかりは解消されており、その場所には卒業生と在校生と保護者が入り乱れていた。
たくさんの生徒が思い思いの相手と笑って話して、一緒に歩いている。その中に、濃い白銀色の真っ直ぐで艶やかな髪が光る。本人は地味な灰色だと言っていたが、カイには美しい色に見える上に、ユイカがどこにいても光るその髪が彼女の居場所を教えてくれていた。
「なーに、女生徒に見惚れてんの? かわいい子でもいた?」
突然、後ろから肩を組まれ我に返った。声の主は騎士仲間で同期でもあるフェリックス・フォン・ハラー。カイとは正反対の、人好きのする、初対面の相手でも数分で酒を酌み交わせるような明るい男である。
「……え?」
フェリックスは自分から話しかけておいて、カイの顔を見て戸惑っていた。
「なんだ?」
「何、お前、その顔!」
フェリックスの瞳は驚きで見開かれている。何が、とカイが返せば、お前の顔、今まで見たことない顔してる、とニヤニヤし始める始末。
「ニヤついてなど……」
「何それ~。自覚無き恋ってやつ? うわー、いいもん見れたわ。カイが恋ねー。遅すぎる春に乾杯!」
一人で盛り上がる同僚に、カイは組まれたままの腕を振り払った。
「で? どの子?」
「は?」
「お前の初恋奪って行ったのはどの美人さん?」
「そんなんじゃない。ただ……」
カイはユイカを見つめて呟いた。
「ただ?」
「勝手に目が行く……」
「……」
自分でも何故なのか分からない。でも特別な存在だということは分かる。大事にしたいとも思う。しかしこれが恋かと言われると……正直分からない、というのが本音だった。
そう嘆息しながらもカイの心は少し軽い。ユイカが王宮女官となるのであれば、まだ自分も彼女の近くにいられる機会を得ることができるだろうか。
一生懸命に他人のために必死になれる彼女だから、自分も彼女のためにただ傍にいたい。そう彼は思うようになっていた。周りの人々に絶望していた少年の傷を癒してくれた彼女によって。
「本気なんだな」
フェリックスからは、さっきまでのカイをからかおうとする気配はもう消え失せていた。そしてにっこりと笑って、で、どの子? と聞く。
「……あの集団の中に、濃い白銀で美しい髪の女性がいるだろう。彼女は目立つからな」
諦めて正直に答えた。フェリックスは確かに軽いけれど、人の大事なものはきちんとそれなりに敬意を持って扱える人間だと言うことをカイは知っていたから。
「……」
カイはじっと集団を眺め、それから眉間に皺を寄せて睨むように見つめ、その後、目の上に手のひらを水平に当て凝視した後、両手を上げてぼやいた。分っかんねぇ、と。
「白銀……はいないだろ。灰色は何人かはいるけどさ、しかも正直どれがどれだか区別つかんわ」
「冗談だろ?」
今度はカイが目を瞠る番だった。けれど、フェリックスはこういう時に嘘を吐く男ではない。
釈然としない気持ちで首を傾げるカイに、フェリックスは再び肩を組み、遠い方の手でカイの胸をドンドン、と叩いた。
「お前ねぇ、それが恋だっていうの、まだ分かんない?」
「!?」
驚いて思わず至近距離にいるフェリックスの顔を見つめてしまう。そんな同期の顔を見て、フェリックスは豪快に大笑いした。
「ほんっと、良い顔するわー。殿下なんて喜んじゃうわー」
「なんでだよ」
そんな男ではない、と先ほど思ったばかりだが、なんだか遊ばれているような気持ちになり、カイはふてくされたような態度で顔を背ける。
「お前、ほんっと人の気持ちには鈍感だもんなー。殿下は、お前を唯一の友だと思ってらっしゃるよ。だから、お前のその気持ちの変化を喜んでいらっしゃるはずだ。あの聡いお方が気づいてないはずないもんな」
カイはハッとした。思い出したのだ。怪我をしたユイカと応接室で話した後、貴賓宮の廊下でアルベルトが無駄に何度も心底嬉しそうにカイの肩を叩いてきた時のことを。
「ちなみに、俺も本当に心から泣きそうなくらいに喜んでいる。今度飲みに行こうぜ、たくさん話、聞かせてくれ」
フェリックスの喜びが、本物だと伝わってきて、カイもぼそりと返した。
「……分かった。俺も……フェリックスの話を聞きたい」
気のいい同僚は、その言葉に、一瞬ポカンとした後、嬉しそうに破顔した。
「喜んで!」
フェリックスがじゃあな、と去った直後、背中から声がかかった。その声を聞けば、振り向かずとも分かる。
(恋……か)
この温かな、何か心に満ちていくような大事なものを心に宿したようなこの感覚が恋だと言うのであれば悪くない、とも思いながら振り向く。
「ご卒業、おめでとうございます。フォルンシュタイン嬢」
卒業生に配られたらしい様々な色の花束を持ったユイカは照れたように笑い、ありがとうございます、と答えた。
「でも……図書館職員にはなれませんでした」
困ったように笑う彼女を見て、少しだけ胸が痛んだ。自分は全て分かっていた。彼女が平和な職場を望んでいることも、目立つことを望んでいないことも。しかし……。
「王宮女官は責任のある、やりがいのある仕事だと聞いております。貴女ならきっと立派に役割をこなせると思いますよ」
「そうだといいんですけど……」
まだ彼女の表情は晴れない。カイは少しだけ不思議に思う。王宮女官は貴族女性の憧れの職だ。ある程度働いたら結婚のために職を辞する女性も多い。そこまで激務という話も一部分でしか聞かない。仕事に一生を捧げる女性がいないとは言わないが、ユイカがそのような働き方を望むとは思えなかった。
(まぁ、その辺はおいおい聞いていけばいいか……)
カイは少し逡巡し、それから口を開いた。
「そういえば、貴女のお願いを聞く約束でしたね」
ユイカが弾かれたように顔を上げた。嬉しそうだったが、すぐに困ったように笑った。
「そんな約束もしましたね。でもあれは殿下が勝手に」
彼女ならそう言うだろうと思っていた。だから用意していた言葉を発する。
「私を約束を守らない男にしないでいただきたいのですが」
驚いたようにカイを見上げてから、ユイカは花束に顔を埋めるようにして弾けるように笑った。
「その言い方はずるいですよ」
そして、ユイカは周りを見てから、悪戯っぽく声をひそめる。
「ね、カイ様、周りに人、もういないよ?」
「ん? ああ、本当だ。気がつかなかった」
ユイカの言った通り、あれだけたくさんの人がいたのに誰もいなくなっていた。
「この後、卒業生はパーティーがあるんですよ」
「なるほど、貴女は行かなくて平気なのか?」
「パーティーにはリリア様が祝福を授けにいらっしゃるから、ちょっと遠慮したくって」
困ったように肩をユイカをカイは目を細めて見つめた。女神と崇め奉られればその気になってもおかしくない環境だというのに、彼女はいつも彼女のペースでそこにいる。そんなところも惹かれる一面なのだと実感した。
「あの……お願い、なんだけど……」
「何なりと? 私にできることならば」
軽く笑うと、ユイカは恥ずかしそうに俯きながら小さな声で言った。
「さっき、声を掛ける前にカイ様と同僚の方がお話しているのを聞いたんだけど……」
「!?」
恋だの何だの言っていたのを聞かれたのかと心臓が大きく音を立てた。
「最後の別れ際だったのかな、カイ様が『俺』って言ってたのだけが聞こえて……」
「……あ、ああ、そうか」
ユイカに気づかれぬようにホッと胸を撫でおろす。
「私の前でも、そう言って欲しいなって……」
「え?」
「カイ様、いつも私の前では『私』って言ってたのに、同僚の人にはあんなにくだけた感じで話すんだなって、羨ましいな……って」
ユイカは恥ずかしいのか顔が真っ赤になっている。
十八歳の少女が、二十五歳の大人に言うお願いがそれか、とカイは思わず笑ってしまった。
「分かった。なら、様つけもやめないか? 敬語じゃないのにそこだけ丁寧で、ちょっと、お、俺……には違和感があって」
「! なら、カイさ……んも、私のこと、名前で呼んで」
「!?」
「いや、あの,他意はないの! フォルンシュタインって呼びにくいじゃない?」
貴族の名前を呼ぶには相当に親しくなった証である。カイは平民だからそう呼ぶしかないのだが、ユイカは貴族である。
「……」
「二人だけの時だけ。……ダメかな?」
「ダメじゃない……ユイカ嬢、これでいいか?」
「! うん!」
ユイカは心から嬉しそうに笑った。カイも、笑う。
「これからも、会う機会があったらいいね」
「そうだな、俺も楽しみにしてる」
二人はもう一度顔を見合わせて笑った。
柔らかな春の風が彼らの間を吹いて流れていく。
王宮女官ユイカの紡ぐ物語は、ついにこれから始まるのである。
次回(2/9)19時、王宮女官編へ続く!!




