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>3 灰の学園 ASH NEST

退院日の朝9時、これまでお世話になった看護師や医師に挨拶を終えると、病院のエントランスには、既に黒いバンが二台、無言で口を開けていた。


外の空気はまだ冷たく、冬という季節が確かにあったことを思い出させる。病室の窓を開けたら、ただなだれ込んでくる空気とは全く違う、生きた風たち。


雫は助手席から顔を出し、久しぶりと手を振って——

「おはよう、脩くん。それじゃあ行こうか」


車内には雫以外にも、黒いスーツに身を包んだ大人たちが黙って座っていた。

白海学園は、ずいぶんと山奥にあるようだった。高速を降りてから、もう三時間は走っている。

ビルも電車も見えない。周りは森と湖くらいだろうか。ほとんど隔離施設、と言った方が正しいのかもしれない。


少し酔ってきたところで、雫が話しかけてきた。


「ねえ、脩くん。怖い?」


「......少し」


「正直でいいね」


彼女は笑った。


「私も最初はこの仕事、怖かったよ。EID患者の研究って、倫理的にもグレーだし、それに全然儲からない」


「......じゃあ、どうして?」


「んー、まあ、色々あってね」


彼女は窓の外を見た。景色というよりもどこか遠くを見据えている瞳。


「誰かを助けたいとか、そういうキレイな理由じゃないんだけど。でも——」


彼女は僕を見て、真剣な目をした。


「あなたたちを見捨てたくないんだよね」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で固まっていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。


「......雫さんは、優しいんですね」


「優しい?」


彼女はきょとんとした感じで


「どうなんだろうね」


とだけ言って、また窓の外へ視線を戻した。

窓の外を見る彼女の横顔。どこか、寂しげだ。



学園の門をくぐると、制服を着た生徒たちが見えた。

一見、普通の学校の光景に見える——最初の一秒だけは。


ある生徒は空中に手を伸ばして何かを操作し、ある生徒は廊下で突然立ち止まって言葉にならない呻きを叫んでいる。ある生徒は虚空を見つめたまま微動だにしない。


「オーガだ! グレートオーガが来る!戦闘態勢!」


どこからか聞こえてくる。でも——そんなものは、どこにもいない。


皆、ここにはいない。


「ここが、白海学園だよ。今は散歩の時間」


彼女は、特に隠そうともせずに言った。


「レイヤー1から5まで、約400人のEID患者が在籍してる。症状の重さは様々だけど、皆同じ病を抱えてる」


「......僕も、ああなるんですか」


「君はずっと"ああ"だったんだよ」


彼女は笑う。


「そして今も、ね。ただ、少し"リアル"を認知できるだけ」


その言葉が、骨の内側にじわっと染み込んでいくようだった。


僕たちは校舎を抜け、寮棟へと向かった。廊下を歩く。すれ違う生徒たちの目は、どこか焦点が合っていない上、常に屈強な職員たちが後ろから監視している。


「ここが私たちの寮」


雫が立ち止まったのは、寮の最上階、角部屋だった。


「できるだけ広めの部屋を手配したよ。君の個室と、私の部屋、それともう一人——」


ドアを開けた瞬間、空気が変わった。


規則的な電子音。生体モニターの音。


ピッ、ピッ、ピッ、ピッ——

その下に、呼吸器の低い唸り。

ヒュー、シュー、ヒュー、シュー——

点滴が落ちる音。ぽた、ぽた、ぴちゃ——


微かな機械音の集合体。それが、奥の部屋から漏れ出している。


雫は僕を促した。足が動かない。でも——進むしかない。


廊下を抜ける。3歩。5歩。10歩。部屋のドアが開いている。


——そこにいたのは。


そこに横たわっていたのは、一人の少女だった。

いや、「少女」と呼んでいいのか分からない。


点滴スタンド。生体モニター、呼吸を補助する機械。

そして、頭部には——睡眠同期デバイスが装着されている。


彼女の顔は、機器に埋もれて見えない。

見えるのは細い腕だけで、骨が浮き出ている右手首に、点滴が突き刺さっている。


......何が起きているのかは理解る(わかる)、だがそれを咀嚼することを心が全力で拒絶する。


胸が、規則的に上下している。

機械が、彼女を生かしているんだ。


「彼女はニイナ」


雫の声が、遠い。


「......レイヤー5の患者だよ」


レイヤー5。最重度。意識は完全にゲームに固定され、現実では昏睡状態——


「24時間ログイン状態。現実での意識はほとんどなくて、生命維持装置で身体機能を保ってる」


24時間、ずっと。

その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かがざわついた。

恐怖だ。自分もまたいずれこうなるかもしれない、という。

でも——それだけじゃない。

心のどこかで、羨望の眼差しで眺める自分がいる。

僕の中に埋め込まれた快楽の因子が、この少女の状態を何よりも"自由"なのだと囁く。


「彼女の体はただの"ハードウェア"なんだ」


雫の言葉が突き刺さる。

僕は、そのベッドに近づく。

少女の顔を、覗き込もうとする。

でも——機器が邪魔をして、表情が見えない。

彼女の魂は今、どこにいるんだろう。


「でもどうして、この子がここに......」


「あなたと同じ。特別な研究対象であり、観察対象」


雫は少し間を置いてから、続けた。


「それに......彼女のご両親は、もう面会に来ることはない」


「......え?」


「ここに預けたまま、もう何年も国から補助金だけを受け取ってる」


さっきまでと違って、雫の声は一段低く、硬くなっていた。


「だから私が、この子の後見人も兼ねている。せめて、誰かはそばにいてあげないと」


そう言って、雫はニイナの手を取った。


冷たそうな手。


でも、雫は優しく握っている。


「私達はここで、三人で生きる。それがこの寮での生活」


彼女の言葉が、部屋に残響する。


僕は——何も答えられなかった。ただ、立ち尽くす。

生体モニターの音だけが、規則的に響いている。

これが、EID患者の"現実"。


そして——

僕も、いずれこうなるのか?


視界が揺れる。吐き気がこみ上げてくる。

でも——吐けない。

ただ、呼吸が浅くなる。


「大丈夫?」


雫の声。僕は頷く。


でも、大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。


「んじゃ......休んでおいて」


雫は僕の肩に手を置く。


「今夜——あなたもログインするから」


その言葉が、呪いにも救いにも聞こえる。

僕の足は固定されたように動かなかった。

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